昨日は「卒啄珈琲塾」だった。
ベテラン女子たちが元気にやってきて、珈琲を焙煎する。
いつもは、久保さんの黄瀬戸とドリッパーで、焼けた豆を抽出する。
でも昨日は久しぶりにサイフォンで入れてみた。アルコールランプで
お湯がガラスのびんの中でふつふつと沸騰するのを待つ時間が、「素敵な珈琲時間」。
お茶のお手前に通じるところがある。ねるのフィルターを通して、沸騰してきたお湯と
珈琲豆を竹べらでまぜる瞬間で、ほぼ味がきまる。最近はアルコールランプのかわりに
電気で沸かすのが流行っているみたいだけど、あの青い電気の光は、人間の精神を
おかしくする現況だ。そんなもんが流行っているので、ゆっくりくつろぎたい珈琲党の人
たちは、サイフォンの珈琲を飲まなくなっているのではなかろうか?ドリップよりもあっさり入る
けど、しっかりと豆の特徴を再現するので、ぼくはサイフォンが大好きで、ときどき、むりくり
サイフォンで「ほぼぶらじる」を入れて常連さんにはだしたりしている。お客さん側が、むりくり・・・
が普通かもなんばんだけど、うちでは常連さんにむりくりむにくり、だ。
昨日は古田織部のことを書いた。今朝の新聞には、古田武彦さんの訃報がのっていた。
彼の著書「失われた九州王朝」などを読むと、九州の旅が100倍以上おもしろくなることうけあいだ。
先日ぼくの珈琲のお弟子様、といっても一回で横に卒業した女子が、ぼくが推薦する九州の旅を
実行され、感激されてそのお礼ということでぼくの好物の球磨焼酎をお土産にくれた。
それに、玉名名物の乾燥おあげも入っていた。
昨日の珈琲塾の昼ごはんは、「よばいの本」に書いてあった「山口の下関ではなく上関」あたりの
郷土料理に、そのおあげを入れ、球磨焼酎を飲みながら「よばいの話」をした。不思議な珈琲塾。
夜は「無茶しぃの会」
お抹茶のお稽古をながくやっておられる婦人さんたちふたりが参加するようになって、おおいに
内容が濃くなった。昨日も久保さんの斑唐津の茶碗に、星野村の煎茶を入れた。その器がほしくて
たまらなくなったらしい。「こんどの土曜と日曜に炎色野さんに久保さんがくるので、買い占めてきたら」
とすすめたら、「そうする」とのこと。気のおけない仲間たちとお茶を飲む。こんなに幸せなことはない。
無論「煎茶」という世界は、文人たちが、貧乏な書斎で、自分が焼いた茶碗、友達が書いた書、花、木工など
を使って、お茶を楽しみ、酒も楽しみ、酒肴など食も楽しんだ。人間の「いとなみ」の中の究極の自由がそこに
ある。そんな想像力を働かせて、久保さんの陶展にいかれると、人生が輝いてくるかもなんばん。
織田流煎茶道の仲間たちは、今日あたりから上洛して、週末は「売茶翁」にお茶を献上する茶会を催す。
「売茶翁」という人は、煎茶をひろめた功労者であるが、人間本来の自由とはなにかを具現化した人である。