昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

生命の定義(「構造主義」的な)

2025-01-01 19:28:40 | Weblog
ここでは、地球上の生命に関するものを念頭に置くが、地球外の同様の現象においてもあてはまる可能性があると考えている。

 古来、生命は構造と機能とに分けられて議論されてきた。これはおそらく、死体(構造は保たれているが機能しておらず、構造の分解過程にある状態)に着目した議論であったろう。
 しかし、生化学分野の発展や、遺伝子の解析等により、構造と機能に着目した議論は「止揚」されたと考える。現状、おそらく生命とは以下のように定義できる。

 「一定の環境条件下において、複雑な分子構造物が多種類の相互作用を行いうる形で存在しており、そのような分子構造物の一式が巨視的に一つの単位として振る舞い、外部との相互作用により原子や分子を適宜交換しながら、一定の構造を維持し、一つの単位については複製を行うことがみられる状態にあること」

 この定義において、重要なのは機能よりも構造である。というのは、きわめて一般的にいえば、常温下で特に一定の塩分濃度の水を媒質として存在する分子構造物は、分子間力等により自然に集まり、一連の過程によって代謝と呼ばれる回路的な機能を示すことが明らかであるからである。要するにそのエネルギーは電子の作用による。

 死には多数のレベルがあるが、一つにはこうした分子間力を中心とした回路的な機能が動かなくなる状態を指す。それは生命体内の恒常性と呼ばれる一定環境を保つ力が失われることにより生ずるが、その在り方は様々である。しかし、地球上の生命に関していえば、一つの単位を細胞として、その細胞が回路的な機能を果たせなくなることが死の第一定義である。より巨視的な単位がある場合(多細胞生物)では、そうした細胞単位が交換されることによって依然としてより巨視的な構造を維持し、機能を果たしている場合があるが、この場合は、細胞単位の機能消失が一定程度進むことにより、多細胞からなる巨視的な単位の構造維持や機能継続が失われた状態が死であると考えられる。

 重要なのは、この場合の「機能」は、一定の環境下で、一定の分子化合物が一式そろうことにより、必ず動き出すという点である。それは分子構造物における電位差や、分子構造物の形状によって起こる分子吸着作用などが基礎となっている。それらを秩序付ける、あるいは機能をスタートさせるという過程は考慮を要しない。ある条件下でそれら分子構造物一式が揃うことにより、ある種の過程は自然に進む。あえて言えば、そのエネルギー源は電磁気力及び温度(熱)である。

 ウイルスは結晶化するような単純な物質であり、単独で自己複製能力を有しないことから、かねて生物か否かという議論がなされてきた。本稿の定義においては、ウイルスは生物と言って差し支えない。一定の条件下が「細胞内やウイルス内といった、他の分子構造物一式」という点が、細胞からなる生物とのほぼ唯一の違いであるからである。また、ウイルスの場合は細胞やウイルスなどの外においては、(詳細を省けば)紫外線等により分子構造が壊れるまで活性を有するが、こうした活性を有する状態であれば「生きている」と呼んで差し支えないものと考える。なぜなら、こうしたあり方は細胞から成る生物と基本的に変わらないからである。細胞の場合も、適切な温度湿度になるまで休眠する場合があり、基本的には、構造に対して一定の環境があれば機能が生じるという点では同様であり、ウイルスと分けて考える必要は認められない。

 要するに生命とは、ある時間内に、電磁気力を基礎とする一連の過程が起きることにより、自己の構造を保存・複製するような振る舞いを行う分子構造物一式であると考えてよい。地球においては、当該分構造物は基本的にタンパク質から成る。また、この定義における生命の肝は「構造」であるため、かつて議論されていた「遺伝子粘土鋳型説」などもなお有効と考える。

 こうした分子構造物一式が生じた理由は、一定期間の試行錯誤において偶然生じたものが次第に複雑化する進化過程を経たと考えれば、特に不可解な点はない。現在進行形で、同様な過程による偶然の「生命」の発生が見られない理由は、より進化適応した同様の構造からなる系がすでに成立しているため、そうした系に各種反応物質が成立済みの系に取り込まれてしまうという理由が考えられる。また、原初の何億年かの試行錯誤を行うためには、おそらく惑星規模の広さと環境の多様さが必要なのだと思われる。そして、こうした多様な環境は地球上においては、生物と環境の相互作用により既に失われている類のものである。

 さて、「生命」に関するこのようなあり方は、古典を借りて端的に言えば「よどみに浮かぶうたかた」に相違ない。あるいは、鳴門海峡に生じている渦のようなものである。これらはほぼ同一箇所で、構成する分子を変えながら、相似形を保っている。しかし、種々の条件が変化したときに、その構造は崩壊するであろう。こうした現象がずっと複雑な形で起こっているものが、我々が生命と呼ぶものの正体に相違ない。
「生命は精密な機械と同等の存在か」という古典的な問いに関しては「YES」と答えることになる。我々の工学的技術によって同様の仕組みが再現できるか否かに関わらず、複雑かつ多種類の高分子の構造が、ある種の溶媒に存在することで自己の構造を保存し複製する、そのためのエネルギーが化学的に得られるという系は、まさしく精密な機械と同じものである。我々はそれ以上の何かではない。
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