将来を憂う気質は保存されやすい。これはミームというよりも遺伝子における適応と考えられる。将来に関して楽観的で、特に対策を講ずることのないと考えがちなヒト個体は、おそらくそうでないヒト個体よりも生存確率が低くなる。より直接的には、ある事態に対する負の感情が多く存在するほど、その個体は不快を忌避し、自己防衛的な行動を取り、生存確率が高まるであろう。よって、仏教的な四苦八苦の思想や、キリスト教などでいう「原罪」のように、「生にはなぜ苦痛が付きまとうのか」という、古来繰り返されてきた問いの答えは実に簡単である。苦痛を多く感じる個体のほうが生存確率が高く、その苦痛感情がヒトの場合には「自殺をするかしないかギリギリ」の個体が、最も生存確率が高いと考えられるからである。ただし、苦痛とその回避という一連の行動については、相当のストレスが生じ、このストレス自体が身体を弱らせるという側面も認められるため、ヒトにおいては、苦痛をより強く感じる遺伝子と、個体の身体の強靭さとのバランスが最適となる点が、苦痛の感度に関する進化の極致と考えられる。
宗教における「救い」が、原罪のような極めてペシミティブな価値観を前提としていることの理由も同じである。この世に生きることの苦痛が前提にならない、すなわちより楽観的な世界観に馴染みを覚える個体の生存可能性は一般的に低くなる。したがって、自然淘汰の結果として、生物たるヒトの関心は相当量の苦痛を前提とせざるを得ない。こうした、ヒトにおいて生と一体化する苦痛について形而上学的な意味を付与するような宗教的ミームは、強い苦痛との共存をすすめる上で、ヒト集団の存続に優位に働いたであろう。
宗教における「救い」が、原罪のような極めてペシミティブな価値観を前提としていることの理由も同じである。この世に生きることの苦痛が前提にならない、すなわちより楽観的な世界観に馴染みを覚える個体の生存可能性は一般的に低くなる。したがって、自然淘汰の結果として、生物たるヒトの関心は相当量の苦痛を前提とせざるを得ない。こうした、ヒトにおいて生と一体化する苦痛について形而上学的な意味を付与するような宗教的ミームは、強い苦痛との共存をすすめる上で、ヒト集団の存続に優位に働いたであろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます