MUSIC LIFE 1977年9月号 /
エマーソン・レイク&パーマーに4年ぶりの直撃インタビュー
画像① 表紙 スターズ……なんて忘却の彼方
画像② モノクログラビア
画像③ インタビュー記事125ページの扉写真
昨年、12月14日のブログ、
ミュージック・ライフ1977年4月号に引き続き、
同じく1977年の記事になります。
本号は、モノクログラビアページが、3ページ。
そのうちの一部は、後のワーナーのポスターにそのまま使用されましたね。
加えて、インタビュー記事が、126ページか129ページに渡って掲載されています。
記事のタイトルは、
「クラシカル・ロックの大家、 EL&P健在なり」
その中には、ミュージック・ライフのアメリカ特派員による3人への直撃インタビュー。
コンサートレポート等が載っています。
このインタビューのページの写真で、
私は、生まれて初めて、キース・エマーソンがオルガンの下敷きになりながらプレイする様子を見る事ができました。
当時はファンになって数ヶ月もしていない、中学生でしたので、
そのインタビューの中に含まれている内容の意味するところを斜め読みしていた程度でしたね。
高校生なりに、理解した事としては、
カールが、
「キースのような天才的なキーボードプレイヤーと仕事をしていると、今さら他の人とやるという事はちょっとね。(考えられないね。)」
という部分が印象に残っていました。
それが、また彼らの結束の固さであると肯定的に理解していました。
この時点においての、インタビューを読む限りでは、
バンドの総意によって、オーケストラを従えたコンサートツアーをやっているように見えるわけです。
グレッグも、
「我々はビジネスマンではなく、ミュージシャンだから、(オーケストラとのツアーについて)採算よりも、EL&Pとオーケストラが一緒に演奏したらどんな音になるかきいて欲しかった。」
みたいな事を言っていますね。
年月を経てからのキースのインタビューでは、
「彼らは僕の事を恨んでいるだろうな。あのツアーをやってしまった事で、多額のお金を喪失し、バンド解散(休止)の引き金になったと思うし。」
みたいな事を呟いていました。
バンド解散(休止)の原因は一つだけではなく、
諸要因が重なっていった事に尽きるでしょう。
で、具体的にどのような金額をどう使っていたかの概略が、
この記事の中に記されていました。
「(このコンサートのためにEL&Pの個人のお金が200万ドルぐらい使われたそうだ。オーケストラのメンバーには、コンサートに出ない場合でも給料は支払われているらしい。コンサートに連れていかないのは交通費、ホテル代の節約のためだとか)」
この記述からすると、ツアーと言っても、場所によってはオーケストラを連れていかない時もあったということなのでしょうか?
ここに記された「個人のお金」と言うのは、
文字通り、バンドでストックしていたお金と言うよりは、メンバー個々人のものなのでしょうね。
これに作品第二番の不発が、追い打ちをかけたと見るべきでしょうね。
この1997年9月号を手に取り、
少年時代は読み過ごしていた記事の片鱗に、彼らの苦悩を読み取る事ができました。
それにしても、このミュージック・ライフ、
よく整理魔の父に捨てられずに済んだと思います。
それと、当時の自分自身が、カラー・グラビアに関しては、
切り取る癖があったのに、
白黒グラビアまで切り取る癖がなかったのが幸いし、
やや劣化はあるものの、頁落ちはせずに、残っていましたね。
全盛時のミュージック・ライフも数点所持しておりますので、
そのうち紹介する事もあると思いますが、
77年にまつわる記事と言うのは、
バンドにとって、岐路に立たされる局面を表現したものでもあります。
いろいろあっても、当時、アナログ盤を買い続けたファンは、
彼らのそんな時期を支える事に貢献していたという事が言えると思います。
2012年2月2日 yaplog!
エマーソン・レイク&パーマーに4年ぶりの直撃インタビュー
画像① 表紙 スターズ……なんて忘却の彼方
画像② モノクログラビア
画像③ インタビュー記事125ページの扉写真
昨年、12月14日のブログ、
ミュージック・ライフ1977年4月号に引き続き、
同じく1977年の記事になります。
本号は、モノクログラビアページが、3ページ。
そのうちの一部は、後のワーナーのポスターにそのまま使用されましたね。
加えて、インタビュー記事が、126ページか129ページに渡って掲載されています。
記事のタイトルは、
「クラシカル・ロックの大家、 EL&P健在なり」
その中には、ミュージック・ライフのアメリカ特派員による3人への直撃インタビュー。
コンサートレポート等が載っています。
このインタビューのページの写真で、
私は、生まれて初めて、キース・エマーソンがオルガンの下敷きになりながらプレイする様子を見る事ができました。
当時はファンになって数ヶ月もしていない、中学生でしたので、
そのインタビューの中に含まれている内容の意味するところを斜め読みしていた程度でしたね。
高校生なりに、理解した事としては、
カールが、
「キースのような天才的なキーボードプレイヤーと仕事をしていると、今さら他の人とやるという事はちょっとね。(考えられないね。)」
という部分が印象に残っていました。
それが、また彼らの結束の固さであると肯定的に理解していました。
この時点においての、インタビューを読む限りでは、
バンドの総意によって、オーケストラを従えたコンサートツアーをやっているように見えるわけです。
グレッグも、
「我々はビジネスマンではなく、ミュージシャンだから、(オーケストラとのツアーについて)採算よりも、EL&Pとオーケストラが一緒に演奏したらどんな音になるかきいて欲しかった。」
みたいな事を言っていますね。
年月を経てからのキースのインタビューでは、
「彼らは僕の事を恨んでいるだろうな。あのツアーをやってしまった事で、多額のお金を喪失し、バンド解散(休止)の引き金になったと思うし。」
みたいな事を呟いていました。
バンド解散(休止)の原因は一つだけではなく、
諸要因が重なっていった事に尽きるでしょう。
で、具体的にどのような金額をどう使っていたかの概略が、
この記事の中に記されていました。
「(このコンサートのためにEL&Pの個人のお金が200万ドルぐらい使われたそうだ。オーケストラのメンバーには、コンサートに出ない場合でも給料は支払われているらしい。コンサートに連れていかないのは交通費、ホテル代の節約のためだとか)」
この記述からすると、ツアーと言っても、場所によってはオーケストラを連れていかない時もあったということなのでしょうか?
ここに記された「個人のお金」と言うのは、
文字通り、バンドでストックしていたお金と言うよりは、メンバー個々人のものなのでしょうね。
これに作品第二番の不発が、追い打ちをかけたと見るべきでしょうね。
この1997年9月号を手に取り、
少年時代は読み過ごしていた記事の片鱗に、彼らの苦悩を読み取る事ができました。
それにしても、このミュージック・ライフ、
よく整理魔の父に捨てられずに済んだと思います。
それと、当時の自分自身が、カラー・グラビアに関しては、
切り取る癖があったのに、
白黒グラビアまで切り取る癖がなかったのが幸いし、
やや劣化はあるものの、頁落ちはせずに、残っていましたね。
全盛時のミュージック・ライフも数点所持しておりますので、
そのうち紹介する事もあると思いますが、
77年にまつわる記事と言うのは、
バンドにとって、岐路に立たされる局面を表現したものでもあります。
いろいろあっても、当時、アナログ盤を買い続けたファンは、
彼らのそんな時期を支える事に貢献していたという事が言えると思います。
2012年2月2日 yaplog!
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