ソーシャルワーカーを名乗る人は、この国に多い。
私もかつて、そう名乗っていた。
しかし、「ソーシャルワーカー倫理綱領」通りの、福祉教育どおりの実践をしている人と、私は仕事をしたことがないし、障害当時者としてそのような方から支援を受けたことは、一度たりともない。
それを標榜する人とは、何人か出会ってきた。
基本的に、私が評価している支援者は、本人主体を「標榜する人」である。
しかしその通りの実践の人なんて、この世に居るのだろうか?
何度か書いているが、我が国の福祉は市場経済。
我が国の民主主義は、「形式的民主主義」。
イギリスのように国有化されているわけではない。日本では民主主義が浸透しているわけではない。
アメリカのように州政府などから手厚い支援があるわけでもない。アメリカのような成熟した市民社会があるわけでもない。
我が国の医療福祉は、金もうけしなければならない。
そしてわが国の障害者は、被差別民だ。憐れみと施しの対象だ。
これまで、組織に忠実な「ソーシャルワーカー」とは何人も出会ってきた。
彼らは組織利益に忠実な組織人であり、組織第一、空気第一の人たちである。
当事者本人の意思?そういうのは「あたかもそうしたかのごとく」形式的には本人意思を聞くが、あくまでも組織の敷いたレールに乗せるだけ。
組織〈たいていの場合は組織トップの意思〉に忠実ならしめるために、当事者を言いくるめ、脅し、だまし、取り引きし、恐怖と賞賛でコントロールし、組織方針に従わせることが
「わが国におけるソーシャルワーカーの真の倫理」である。
これはもう、わが国の国情を考え見れば、当然の帰結である。
私も、障害当事者として、総合的なことで相談できるソーシャルワーカーが欲しいと思うことがある。
しかし、そういうのは、福祉の教科書にあるだけで、現実には存在しない。
福祉支援者たちは、まず第一に、組織のために働いている。
私への支援が組織のため、組織の求める行為でなければならいのである。
私への支援が組織の利益にならなければ、それは行われない。
これは、福祉の支援を受けるとき、相手に有効に動いてもらうために、常に考えていることだ。
「自分の利益と、支援組織の利益や理念の方向性は、調整可能か」
ということだ。
教科書通りの支援は、この世にないと思う。
必要な支援を、かいつまんで得ていくしかない。
自分の支援の司令塔は、私がやるしかないのだ。