蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 3

2019年01月22日 | 小説
(2019年1月22日投稿)
初めに;
昨年(2018年)3月からの表題投稿を読み直すと誤りの幾つかに気づいた。月日は隔たるが、この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しい。書き換え、再投稿に踏み切った。
本日をもって昨年投稿を削除します。

以下、今回(3)の投稿-
哲学的省察を前回(20日)に1~4書き留めた。今は4の途中です。
サルトルは弁証法をモノと規定し、歴史に閉じこめた。
サルトル的弁証法とはマルクス歴史観そのもの。「歴史は一方向に収斂する」。弁証法が自律に発展収斂するのなら、それは存在するモノetreとなる。木が天に向かい伸びると同じ仕組みだ。しかし、弁証法=モノと決めつける(サルトルは)大間違いを犯している(=ここまでレヴィストロースは言及していないがそう言いたいと読める)
一方、(歴史発展のないとする未開社会の)野生の思考はdialectiqueであるし総括(totalisation)もする。しかし、サルトルが主張する次の範疇(categorie)へ止揚し、(サルトルの言い分だけれど)そのモノが属性attributを変換し、前段階からは断絶する仕組みなどない。
弁証法こそが歴史の真理だとし、事象の時間的位置は「弁証法的発展の一段階」に固定させられ、止揚したあとには前段階と断絶する。この歴史の(共産社会への)収斂は真理なのだ、この言い分を敷延させて(サルトルは)歴史真理に個人として参列し、行動をお起こさなければならない、こう(サルトルが)宣う。それができない輩の本性は pratico-inerte(実践怠惰性) に蚕食されているのだ!
この教条に対してレヴィストロースの批判が向けられる、「歴史は思想」とサルトル弁証法を否定する。

写真:1965年の来日の際のボーボワールとの2ショット。珍しく笑っている。しかし視線は交差していない。笑いの対象が異なっているのか、スナップのタイミングなのか。

5 絶対神の弁証法

続く文節ではサルトル批判がより明確です。
<<l’auteur(Satreを指す) hesite entre deux conceptions de la raison dialectique. Tantot il oppose la raison analytique et la raison dialectique comme l’erreur et la verite、sinon meme comme le diable et le bon Dieu >(292頁)
解説:Critique de la raison dialectique(弁証法理性批判=サルトルによるレヴィストロース批判の書名)の著者は弁証法について2の定義をちらつかせるなど、戸惑いを見せている。まずは、分析的理性と弁証法理性とを「誤り」と「真実」に対比させている。さらに悪魔と神の対比まで比喩を昂進させている。(大文字Dieu神にle bonなる定冠詞と形容詞がついているにご留意)
神とまで比定される真理ならば、人(神にはとうてい劣る思考)による解説など必要ない。「歴史は弁証法とかたづけて」誤りとの批判を浴びたら「真理だ!」と言い返せば、その言葉一つで真理の説明がつく。弁証法の氏素性、由来縁起など講釈は必要ない。しかし形容詞(bon=人がよい、あるいは寛容な)をつけた神とは何者なのだ。レヴィストロース一流の皮肉です。

戸惑いを覚えるサルトルの分析的説明。
<les deux raisons apparaissent complementaires>(292頁)訳;2の理論、弁証法と分析的理性は相互に補完的と見える。続けて、
<outre que’elle(弁証法を真理とする解釈)aboutit meme a suggerer l’impossibilite d’une science biologique, elle recele un paradox ; car il (Sartre訳注) difinit, distingue, classe et oppose. Ce traite philosophique n’est pas d’autre nature que les ouvrages qu’il discute、meme si c’est pour le condamner>(293頁)
拙訳:(弁証法が真理とする考え方)は生化学(一般の科学)の不能性を示唆することとなる。その言い方自体が矛盾を隠匿しているのだ。なぜならサルトルは「規定し分類しそして対立させる」手順をとっている。この過程とは彼が批判し有罪宣告している「分析的思考」その物ではないか。

6 歴史は思想

レヴィストロースにとっての歴史とは何か、長くなるが一節を引用する;
<<Ce qui rend l’hisotoire possible, c’est qu’un sous-ensemble d’evenements se trouve, pour une periode donnee, avoir approxivement la meme signification pour un contingent d’individus qui n’ont pas necessairement vecu ces evenements, et qui peuvent meme les considerer a plusieurs ciecles de distance>(La pensee sauvage、第9章 307頁)
訳:歴史を歴史たらしめるには、幾つかの事象、ある時期に現れ、おおよそ共通の意味を持ち、まとまりも持たない(contingent)幾人かに共有される事から始まる。

個人とはその場に生きた人々に限らず、幾世紀かの隔たりを超えてもそれらの出来事を考えられる人(すなわち、歴史認識とは参画engagementではない、実体(一連の出来事)と思想(それら出来事を対照させる人の思考)の対比である)
一文は構造主義の歴史観を表す。

さらに;
<<L’histoire biographique et anecdotique, qui est tout en bas de l’echelle, est une histoire fable, qui ne contient pas en elle-meme sa propre intelligibilite, laqulle lui vient seulement quand on la transporte en bloc au sein d’une histoire plus forte qu’elle; et celle-ci entretient le meme rapport avec une classe plus eleve.(同311頁)
訳:伝記的、逸話的歴史はいわばハシゴの最下段、「弱い」歴史である。それ自体に解釈可能な特有性はない。弱い歴史をより強い歴史に組み込んで特有性を集体化することでのみ、解釈する意味合いが見えてくる。より強い歴史はさらにその上位の強い歴史と、同様にしての関連を持つ訳である。
伝記的とは出来事の発生を年代日付で記し、逸話的とは誰が何をしたのかの記述史である。これだけでは「思想」を形成できないので「弱い」。それら出来事の関連づけで歴史は意味を掴める。歴史は思想であるとレヴィストロースの教え。歴史は弁証法、自律で進展する実体(モノ)であるとの教条を押しつける実存主義者の歴史観に反論している。

余談ながら;前引用を読みながら小筆はユーゴーLes miserablesの一節、1832年6月のパリ騒動を思い起こした。
>アンジョルラスに率いられ、パリの学生と貧民層により組織され、ラマルク将軍の死亡前夜に暴動を謀議する秘密結社ABCは実在する。=中略=多くの者が斃れるのである<(Wikiからの引用)
銃弾に倒れるガブロッシュ、身を投じマリウスを守ったエポニーヌ。ユーゴーは一連の流れを逸話として語る。創作である。しかし類する悲劇が語り継がれていたのだろう。流れをより強い歴史に合体すれば、共和派の王制への反乱であり、大革命で勝ち取った自由民権への復帰であろう。ユーゴーロマンティシズムに感染しているようだ。

7 お化粧師

サルトルへの反論をLa pensee sauvage第9章から取り上げています。
<<Dans le vocabulaire de Sartre, nous nous definisons comme materialiste transcendantal et comme esthete.(294頁)
拙訳;サルトルに言わせれば我々(レヴィストロースのこと)は「先験的唯物論者」であり「お飾り文章屋」である。
先験的唯物論とはサルトルの造語ながら奇妙な組み合わせである。裏を推察するにレヴィストロースは、無神論者としても(神が授けてくれなかった)思考を持てるのは、カントが言うところのtaranscendantal(先験的、すなわち経験を経ずにも人は思考、判断が出来る)を信奉すると述べていた。この先験が人間の思考、科学、人類学、物理、生物学などの基礎であるとも語っている。来日した折に「私は構造主義者などではない、カントの先験を思考の基礎に置く近代人だ」と己を語った(月の裏側、川田訳)
一方、サルトル実存主義によれば人はそもそも思考を持たない、存在と対峙するなかで思考を獲得するとカントの先験主義を否定している。無神論者の二人ながら「思考の起源」を巡り差異を峻別する論争=実はこの差異が論争の主題であるが=に注目してほしい。この論争とはカント主義と実存主義の争いでもあるとも見なせる。

もう一つのmaterialisteについて;
唯物論者(マテリアリスト)と決めつけたのは、人は構造に規定されるとサルトルが構造主義を誤解したからである。読書人論者の多くが構造主義とは「構造が本質」と納得しまた説明もしているが、これは誤解。その考え方はいわば「構造機能論」である。この誤解を示唆する言い回しをサルトルの文中(materialiste)に見てレヴィストロースは、「彼は(なにも)理解していない」感を強くしたに違いない。
拙投稿(Gooブログ)「猿でも分かる構造主義」=2017年4月以来、幾度か語ったが、構造主義とは思想(ideologie)と存在(forme d’existance)を対峙させそる相互性(reciprocite)に本質があるとする哲学である。たとえば中根チエは「社会とは構造化され人の思考はどの位置を占めるかで規定される」と構造機能を論じ、日本は「縦社会」なので上意下達の文化と決めつけた。展開しているのは「論」である。
レヴィストロースに戻すと、彼は自らを構造主義者と標榜した事実はない。御大は哲学者なので書いた内容がすべて。解説やら注釈など、言うなれば「攻略本」には一切、行句を連ねていない。対抗者の読み足りなさを感じ取るも、相手はそれを大上段に振り回したのだから「理解の程度はこの薄さか」と諦めず、反論した。

次に<comme esthete=お化粧師みたい>なる文言。
辞書を引くとestheteに哲学用語の意味合いはない。「美観を気にしずぎる人」などの侮蔑意をくむ。よって「お飾り文章屋」と訳した。
raison analytiqueの実行者をお飾り文章屋としたサルトルの理由は「弁証法という歴史公理が存在するからには、ちょこまかした分析、解説は人をアリ(fourmis)として研究する程度でしかない」との悪口を(引用文の前段で)垂らしているからです。
レヴィストロースは「アリをバカにするのでないぞ、立派な社会組織を造っている」といなし反撃に移る;
<<Nous acceptons le qualificatif d’esthete, pour autant que nous croyaons que le but dernier des sciences humaines n’est pas de consitituer l’homme, mais de le dissoudre.(294頁)
拙訳:(我々が)エステートであるなる形容を認めよう。しかしながら、科学の最終目的は人を構築させる(=お飾りする)ではなく人を分解する(=dissoudreすなわち分析する)との考えを変えはしないが。
<<cette attitude nous parrait etre celle de tout homme de science du moment qu’il est agnostique(La pensee sauvage 294頁) =後略
拙訳;この(シロアリに喩えるサルトルの)態度は、全く科学的人間だけれど「不可知論者」となっている時点での態度を思い起こさせる。

科学の人(homme de science)と不可知論者は両立する仕組みがない。その人サルトルは科学者ながら不可知論を信奉するのか、不可知論者ながら己は科学的と勘違いしているのか。そもそもサルトルとは不可知論者か?
この提題を解く鍵は別の小論文にある。以下は(Le role du philosophe, le regard de Claude Levi-Strauss, 哲学の役割レヴィストロースの視点、Le magazine litterature dec/1985より引用)
<<Malgre tout le respect et l’administrattion que j’avait pour Sartre, j’ai adopte une attitude polemique vis-avis de ses conceptions (=l’existentialisme) parce que j’estimais que’elles etaient une maniere de poser les problemes qui trounait trop radialement le dos a la pensee scientifique .
訳:サルトルに対して多大の尊敬にもかかわらず私は、彼の考え(実存主義)に否定的姿勢を貫いた。なぜならそれら(サルトルの考え)が科学思考に対して確信的に背を向けていると感じるところがあるからである。(サルトルにMonsieur等の尊称をかぶせないのは彼は他界していた)
レヴィストロースはサルトルの政治・社会活動としてのアンガジュマンでも共産主義志向でもなく、思考の根源にある実存主義を「反科学」として否定している。弁証法への取り組み方にしても、そもそも謬りである実存主義の派生として定義づけるので、否定する。サルトルは不可知論者なのだ。

8 ペーパーナイフも弁証法も不可知

不可知論って何。GrandRobertにその義を求める。
<<Doctorine qui considere que l’absolut est inaccessible a notre connaissance.でした。絶対(l’absolut)は人の知では知り得ないとなります。この絶対を=神、神が創った諸々、宇宙の真理に置き換えて良いし、connaissanceをCogitoと解釈しても間違いではない。するとデカルト以来の哲学の本流、Cogitoをサルトルはぶちこわすのか。Cogitoしても無駄だよと言うのか。
筆者なりにサルトル不可知論を単純な構図に述べると;
<<実存主義は、普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を主張、もしくは優越となっている現実の世界を肯定してそれとのかかわりについて考察する思想であるとされる。本質をないがしろにするような思想的なものから、本質はこうだが現実はこうであり、本質優位を積極的に肯定せずに、現在の現実をもってそれをどう解決していくべきなのかを思索的に考えたもの。本質を積極的に認めない傾向があるため、もしくは即物的になり本質がみえなくなってしまう極端な思想も生まれる土壌にもなる>>(Wikipedia実存主義サルトル項より引用、一部改編)。
引用末尾;個人の偶然経験を思考の根源とする実存主義。それは本質がみえなくなってしまう極端な思想を<必然として導く>と書き換えたい、すると不可知論となる。
もし、本質がこの世にあるとすれば、(どの哲学者も同意見だが)それは人が作成した物でない。さらに、神のごとき絶対的思考を持たない人は、ペーパーナイフにすら経験できない。ペーパーナイフを手にとって「紙を切るモノ」の本質を理解できようか、個人の偶然経験にはそれを可能にする仕組みがない。紙切りに使うのは隣の人がそれを実践していただけで「本質からはずれた使い方」かもしれない。「いたずら猫を叩く道具かもしれぬ」と人は疑う。「己の存在を知りみずからの本質(思考)を編み出す運命に人は課せられている」とサルトルは教える。しかしそうした思考はいかなる外部(存在、本質)も個人に還元するから、ペーパーナイフに限らずいかなる事象の本質にたどり着かない(こう筋道を立てれば不可知論に至る);
人は弁証法を「手に取り目にする」事はできるが次の段階へ止揚する本質(=サルトルの言い分を借りた)は経験ではきない。なぜなら止揚は人の知覚を超えたところにあるから。しかるにサルトルは分析思考を取り入れ、人の精神活動の中に(pratico-inerie, totalisation、interio...などと)さらにserialiteとされる不気味な物体運動も編み出して、弁証法の仕組みを解説し、本質は止揚を開陳せんと努力するが、その真理を経験していないヒトの一人のサルトルが説明するのは誤りだ。弁証法を歴史の真理とし、歴史に弁証法を閉じこめ、不能な己が可能と勘違いするは科学精神の放擲である。
「教条」をレヴィストロースが不可知論と形容した。
お飾り文章屋に対して不可知論者、売り言葉に買い言葉の論争に入ってきました。続くパラグラフでルソーを引用します。含蓄深いので孫引きします;
<<Quand on veut etudier les hommes, il faut regarder pres de soi; mais pour etudier l’homme, il faut apprendre a porter la vue au loin; il faut observer les differences pour decouvrir les proprietes.(同294頁、ルソーのEssai sur l’origine des languesから)
訳;人々を学ぶには自身の近くを見なさい、しかし個としての人を学ぶには視線を遠方に投げなさい。あらゆる変異を観察する事で人の特性を発見できる。

訳通りの意味なので難しくはないが、定冠詞複数のles hommesと単数のl’hommeを対比させている。複数が社会を、単数が「人性、人間性」を表していると小筆は理解する。しかし、そこに違和を覚えるのは蕃神だけではないだろう。個の人を観察するなら近づくに限る。なぜルソーは逆を教えるのか?
引用の立ち位置を前後の文脈の流れで探れば真意も分かりそうだ。数行の前、
<<La valeur emminente d’ethnologie est de correspondre a la premiere etape d’une demarche qui en comporte d’autres : par-dela la diversite empirique des societes humaines, l’analyse ethnographique veut attendre des variantes=後略 (同294頁)
訳;民族学の突出した価値とは研究の初段階につながることである。一歩進む先がそこに内包されているから、2歩3歩が続く。人社会の多様性を読み取り、その成果を通して、民族誌学的分析が社会の変異に迫るのである。
複数人間は近くから眺めよとルソーが教える。それは共通性を探すためだ。民族学は人間社会をvariantes(変異)としさらに底流の共通項を追求するから近づいて見るのだ。ルソーが進めるetudier les hommesを実行している。アリを研究しているお飾り屋ではない、レヴィストロースは自慢げに語る。(今風口語の言い方でドヤ顔で)

295頁に入るとreduire(縮小する)及びreduction(左記の名詞形、縮小還元の意味)、それにdissoudre(個体を液体に溶かす)が出現する。サルトル批判を彼の用語を借りてレヴィストロースが論述しているので、サルトルがこの語をLa critique de la raison dialectique で使用している筈。analyser(分析する)の言い換えとして低い語感、作用のみのDissoudreにおとしめるのがサルトルのねらいと推察する。レヴィストロースが、あえてその語を取り込み、dissoudreからreduireのプロセス解説に半ページを費やし;
<<Elle offre aussi, souvent, un efficace de les mettre en reserve, pour les recuperer au besoin et pour miex etudier leurs proprietes(295頁)
訳; Elleは前文の(solution、液体に溶かす)を受け、溶解する手順は有効で、それら(les、molecules=分子=、要素のことサルトル用語)をまとめて取り置きできるし、必要に応じ取り出して、より効果的に解析できるというものだ。(用語でおとしめたやり口を、レヴィストロースが逆さにふってやり返した)続いて
<<L’explication scientifique ne consiste pas dans le passage de la complexite a la simplicite, mais dans la substitution d’une complexite miex intelligible a une autre qui l’etait moins.(295頁)
訳;複雑系を単純系に移し換えるのは科学ではない。科学とは複雑な事象を、単純に近づけてより易しく理解できる置換(la substitution)にあるのだと定義しています。
皆様、おわかりかと。>複雑系を単純系に移し換える<が歴史を弁証法に還元してステレオタイプに説明するサルトルやり方。>易しく理解できる置換<resoudre、analyserの分析的理性であります。頁は移る、批判は拡がる。

9 生まれ損ない畸形

めくる紙葉のその指を止めた頁の数は296。浮かぶセリフのおぞましさ、物議かもす=rabougri et difforme=生まれ損ない畸形(サルトル表現のママ)に出くわした。
前後の文の流れは;
<<Parfois Satre semble tente de distinguer deux dialectiques : la <<vraie>> qui serait celle des societes historiques et une dialectique repetitive a court terme=後略。引用の冒頭tenteはtenterのparticipe passeでavoir tente(原文eにのせられるアクサンが無いはお許し)と理解してください。
訳;サルトルは2の弁証法を使い分けているかに思える。1は正しい弁証で社会が歴史を経てきた弁証法。もう一方に短い間隔で幾度も繰り返す。そんな弁証法社会を二重に想定している。
続く文で<繰り返す弁証法は未開社会に帰せられる。それは=tres pres de la biologie=生物に近いと批判する。拙説を交え;
dialectiqueマルクス主義弁証法は、原始社会から(途中を省略)資本主義を経ての「究極」が共産経済であると教える。西洋社会の今が、共産経済に行き着く寸前、大争乱に明け暮れるけれど「未開社会」は未だ、「未開」のままに取り残されている。この「停滞」が弁証法論者に気にいらない。そこでサルトルが「彼らの弁証法とは繰り返す発展ながら間隔は短い」未開的弁証法だと大見得を切った(La critique~に述べた)。
繰り返すとは元に戻ることである、短いとは発展はできない。西洋社会が継続発展してきた歴史事実と異なる。発展したくも出来ない「畸形」が未開社会であるとサルトルは定義した。民族学者からの反発を食らった。

レヴィストロースからの反論は;
<<Il expose ainsi tout son systme, par le biais de l’ethnographie qui est une science humaine, le pont demoli avec tant d’acharnement entre l’homme et la nature se trouverait subrepticement retabli(同296頁)
exposerは露出する、含意として(隠していたかったモノ)を曝す。biaisは英語のバイアスと同語で斜め線、ここでは狡猾な手段とする(=moyen artificieux et detourne de trouver une solution(お気に入りの)解決策を探すため不自然なこじつけ手段、leGRから)。systemeはやり方全体、ここではson systemeだから彼のやり口。le pont demoliは粉砕された橋、subrepticementはこっそり、陰に隠れて、感心しない方法である。se trouveraitは(存在する)であるが、条件法なので実現していない。
訳;己のやり口を彼はこのように暴露してしまった。民族誌学は一つの人間科学であるのだが、それを斜め見しただけで、狡猾にも人と自然の過酷な闘争の末に粉砕されてしまった橋を、隠れてこっそり修理し、直ったはずと錯覚した。

このあと、その語が出現する。
<<Sartre se resigne a ranger du cote de l’homme une humanite <rabougie et difforme>サルトルは人間の脇に、<生まれ損ない....>のもう一つの人間界を侍らせ、安心している。le pont demoli破砕された橋、acharnementしつこい攻撃。表現はいずれも換喩(metonymie=簡単な語で複雑系を比喩する)。何やらの複雑な事態が「壊れた橋」「過酷な闘争」を含意する。では何をレヴィストロースは伝えようとしたか。
続く数行;
<<non sans insunuer que son etre a l’humanite ne lui appartient pas en propre et qu’il est fonction de sa prise en charge par l’humanite historique (生まれ損ない)社会が(定冠詞のつく)正統な人間界にとって同質ではないと、かつそれが歴史の観点から重荷になっている事態を(サルトルが)ほのめかしているではないか。

レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 3
(次回は1月25日投稿予定)


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