(2019年1月30日投稿)
初めに;
2018年3月からの表題投稿を読み直すと誤りに気づいた。この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しい。書き換え、再投稿に踏み切った。今回投稿との関わりが雑多となるので18年投稿は22日に削除した。
(以下から第4回)
後の数行に<<未開を植民地に取り込む環境に闘争があった。一方で、未開社会を自然な「無垢な、穢れ知らない人」ともてあそんだとある。
未開社会の植民化、反動として自然人として賞賛する。移り変わりの様がもてあそびそのもので、これをacharnement攻撃を「換喩」と表現した。未開と文明の立ち位置は、あい交わらない断絶した橋(pont demoli)との表現をとった。しかしサルトルが、一方は究極に向かい、片方は同様の経緯を繰り返すも、いずれも「弁証法の真理」のもとで歴史をたどるのだと「こっそり狡猾に」、壊れた橋を修理した(つもりになった)。
引用にある entre< l’homme et la nature>は隠喩metaphore(複雑語をして単純な事柄の言い換え)となります。すなわち「人と自然」の対句で、文明社会文明人のあり方を、「未開社会自然人」を対局に置いて、過去、モンテーニュ、ルソーらが取り上げ、モラリストなど文人が加わり、幾度か繰り返された議論を示す。「生まれ損ないの社会」という差別意識を、幾重もの言い回しと、レヴィストロースならではの知見ので震いにかけて(サルトルへの)批判を修辞(比喩)に昇華させた名文です。
そしてレヴィストロースは;
<<前略la richesse et la diversite des moeurs, des croyanaces et des coutumes=中略=des milliers de societes qui ont coexiste sur la terre, ou qui se sont succede depuis que l’homme y a fait son apparition (同296頁)=後略。
訳;人がこの世界に現れて以来、精神、信仰、風習のとてつもない豊かさ、多様さを共有する幾千もの社会がこの大地に共存し、それら社会がおのおのの存続していた。
サルトルが「畸形」と片付けた社会を民族学の成果を持って高く評価する。

写真:Academie(フランス翰林院)に選出されたレヴィストロス1973年、69歳、生涯の栄誉と誇りに思った。
<<Qui commence par s’installer dans les pretendues evidences du moi n’en sort plus. La connaissance des hommes semble parfois facile a ceux qui se laissent prendre au siege de l’identite personnelle.(La pensee sauvage297頁)
訳;自我(le moi)があるとの主張から始まる者はそこから抜け出られない。個人に凝り固まっている者には、時として、人間社会の解明は易しいと思える(semmble)。
動詞semblerは「そのように見える」で、外貌あるいは内実が事実であるとの担保を与えない。
<<Ils se ferment ainsi la porte de la connnaissance de l’homme.かくして、 彼らは自ら、人間性への理解に至る門を閉めている。(個人精神に固まれば外界の理解は難しい。前文と重ね、実存主義を否定している)
<<En fait, Sartre devient captif de son Cogito, celui de Descartes permettait d’acceder a l’universel, mais a la condition de rester psychologique et individuel ; en sociologisant le Cogito, Sartre seulement change de prison. Desormais, le groupe et l’epoque de chaque sujet lui tiendront lieu de conscience intemporelle. Aussi la visee que prend Sartre sur le monde et sur l’homme offre cette etroiteness par quoi on se plait traditionellement a reconaitre les societes closes.(297頁)
訳;(個を主張する)サルトルは自身のCogitoの捕囚に成り果てた。デカルトのCogitoはあくまで個の枠内に留まるが、森羅万象に肉薄する。サルトルは個Cogitoを社会化したが、単に(己が住み込む)牢獄を替えただけ。以来、思考を巡らす主題の集合にしても、時期にしても、時間など超越した個の「意識」にしまい込まれる。同じく人と社会に向けるサルトルの視野は狭量に閉じこめられ、彼の視野を通して人は「閉ざされた社会」を(昔ながらの)伝統的な視点で再認識してしまい、心やすむ(気がする)のである。
Cogito知でのサルトル、デカルトの対比をこれほどの短節でかくも明瞭に語るのはさすが修辞の大家。デカルトも知は個に宿るとするが、源泉は神からの授かり。故に森羅万象に背接近できる。なお、神は人類のすべてに知を与えた訳ではない。「解析幾何学なる金字塔を建てたほどの「我」は、きっと神に祝福されたに違いない」の自負を持っていただろう。
prison牢獄について;
かの地フランスでは思想を建物に喩える。上記デカルトであれば建造物はedifice(大建築物)に値する。サルトルは「牢獄」に住むらしい。蛇足:スピノザの部屋には「窓がない」と揶揄される。
10 Cogitoの捕囚
サルトルにおける歴史、弁証法の論理展開の様をたどると;
思考を形成する主体は<個>にとどまる。個にとどまる限り思考は(歴史=dialectique)進展の機動には参画できない。悟ったサルトルは、個を社会に敷延した。sociologir=社会化する=なる動詞を用いたが、これはフランス語にはない、レヴィストロースの造語。思考を社会化して思考が集団化する(serialiteなど)を証明したから集団、社会を、実存主義の切り口でもって論ずる事ができる。以上がサルトルのたくらみ。しかし;
<<Sartre, qui pretend fonder une anthropologie, coupe sa societe des autres societes. Retranche dans l’individualisme et l’empirisme, -un Cogito- qui se perd dans les impasses de la psycologie sociale.(298頁)
訳;サルトルは一種の人類学を創造すると主張する。そして、彼の社会をほかのすべて社会から切り離した。さらに、個人主義と経験論(実存主義のこと)の海でCogito思考を守るとした。しかし思考は社会心理学の行き止まりに迷い消えた。
sa societe=彼の社会。彼が求める弁証法真理が進行している筈の社会。その社会は「個人経験主義=実存主義」のくびきから抜け出ていない訳だから、Cogitoは発展できぬまま、袋小路に停滞した。Retrancherは1分離する 2引き離して固守する の2義がある。2では(重要地点)を防御する意味合いが強い。ここでは2をとる。
<< il est frappant que les situations a partir desquelles Sartre cherche a degager les conditions formelles de la realite sociale : greve, combat de boxe, match de football. queue a un arret d’autobus, soient toutes des incidences secondaires de la vie en societe ; elles ne peuvent donc servir a degager ses fondements.(同)
訳; サルトルは(弁証法成立するために)現実社会でどのような形態があるかの説明で、ストライキ、ボクシング試合、サッカー、バス停の待ち列などを例証とするが、あまりにも衝撃的だ。これらはいずれも生活の二義的な事象である。それらから(弁証法が成り立つ)基礎条件は見つけられない。
解説;本来は個人段階での思想活動であるべき実存主義を、社会化してpratico-inerte(実践的惰性)、totalisation(総括、止揚)、interioriser(内包)、exterioriser(外延)など用語を編みだし、同時にそれらをして歴史展開の起爆材に化粧直しした。
例えば;
バス待ち集団は地域も目的も均等なのでserie=つながり=とされるが、すぐには革命を起こそうなどとは行動しない。それをpratico-inerte(惰性性向)とした。ソ連における共産社会への移行停滞も同じくpratico-inerte。個人の性行である「惰性」を集団化している。精神活動でしかない観念を歴史の必然に取り込むサルトルの論理とは、真理(dialectique)を(絶対神から知性を授けられない筈の)人の分析で説明する愚かな試みと、レヴィストロースが批判した。
レヴィストロースにとっては、歴史は出来事anecdotesを積み上げ、歴史家が、己が持つとある思想を元に、それらを解析する。歴史にしても本質は思想と事象との相互性reciprociteにあるとする、構造主義の立場。
<<Le role de la raison dialectique est de mettre les sciences humaines en possession d’une realite qu’elle seule capables de leur fournir, mais l’effort proprement scientifuque consiste a decomposer, puis a recomposer suivant un autre plan.(298頁)
訳;弁証法の役割とやらは人間科学を「とある一つの“現実”」に閉じこめることにある。その現実を提供するのは弁証法のみという(空回りの絡繰りが)ある。一方、正しく科学的とはまず分解し、別の手順により再構築するところにある。
続いて(以下の原文は略);
サルトル弁証法により社会化された(集団の)思考は、今、生きる時代をinterioser,exterioser(作用反作用)し、総括(totalisation)止揚する。止揚した暁に構成要素(存在、モノ)も、1段階を踏破したからに、属性attribuが変化するとサルトルは言う。このように考えてはならない。上記、複数の引用文でサルトルが開陳するdialectiqueの仕組みにレヴィストロースの反論が、論理的に綴られている。さらに;
<<Ce n’est pas tout>>それだけではない;
レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 4の了
次回(最終回)は2月1日予定
初めに;
2018年3月からの表題投稿を読み直すと誤りに気づいた。この投稿には来訪者が多く誤り放置は小筆として心苦しい。書き換え、再投稿に踏み切った。今回投稿との関わりが雑多となるので18年投稿は22日に削除した。
(以下から第4回)
後の数行に<<未開を植民地に取り込む環境に闘争があった。一方で、未開社会を自然な「無垢な、穢れ知らない人」ともてあそんだとある。
未開社会の植民化、反動として自然人として賞賛する。移り変わりの様がもてあそびそのもので、これをacharnement攻撃を「換喩」と表現した。未開と文明の立ち位置は、あい交わらない断絶した橋(pont demoli)との表現をとった。しかしサルトルが、一方は究極に向かい、片方は同様の経緯を繰り返すも、いずれも「弁証法の真理」のもとで歴史をたどるのだと「こっそり狡猾に」、壊れた橋を修理した(つもりになった)。
引用にある entre< l’homme et la nature>は隠喩metaphore(複雑語をして単純な事柄の言い換え)となります。すなわち「人と自然」の対句で、文明社会文明人のあり方を、「未開社会自然人」を対局に置いて、過去、モンテーニュ、ルソーらが取り上げ、モラリストなど文人が加わり、幾度か繰り返された議論を示す。「生まれ損ないの社会」という差別意識を、幾重もの言い回しと、レヴィストロースならではの知見ので震いにかけて(サルトルへの)批判を修辞(比喩)に昇華させた名文です。
そしてレヴィストロースは;
<<前略la richesse et la diversite des moeurs, des croyanaces et des coutumes=中略=des milliers de societes qui ont coexiste sur la terre, ou qui se sont succede depuis que l’homme y a fait son apparition (同296頁)=後略。
訳;人がこの世界に現れて以来、精神、信仰、風習のとてつもない豊かさ、多様さを共有する幾千もの社会がこの大地に共存し、それら社会がおのおのの存続していた。
サルトルが「畸形」と片付けた社会を民族学の成果を持って高く評価する。

写真:Academie(フランス翰林院)に選出されたレヴィストロス1973年、69歳、生涯の栄誉と誇りに思った。
<<Qui commence par s’installer dans les pretendues evidences du moi n’en sort plus. La connaissance des hommes semble parfois facile a ceux qui se laissent prendre au siege de l’identite personnelle.(La pensee sauvage297頁)
訳;自我(le moi)があるとの主張から始まる者はそこから抜け出られない。個人に凝り固まっている者には、時として、人間社会の解明は易しいと思える(semmble)。
動詞semblerは「そのように見える」で、外貌あるいは内実が事実であるとの担保を与えない。
<<Ils se ferment ainsi la porte de la connnaissance de l’homme.かくして、 彼らは自ら、人間性への理解に至る門を閉めている。(個人精神に固まれば外界の理解は難しい。前文と重ね、実存主義を否定している)
<<En fait, Sartre devient captif de son Cogito, celui de Descartes permettait d’acceder a l’universel, mais a la condition de rester psychologique et individuel ; en sociologisant le Cogito, Sartre seulement change de prison. Desormais, le groupe et l’epoque de chaque sujet lui tiendront lieu de conscience intemporelle. Aussi la visee que prend Sartre sur le monde et sur l’homme offre cette etroiteness par quoi on se plait traditionellement a reconaitre les societes closes.(297頁)
訳;(個を主張する)サルトルは自身のCogitoの捕囚に成り果てた。デカルトのCogitoはあくまで個の枠内に留まるが、森羅万象に肉薄する。サルトルは個Cogitoを社会化したが、単に(己が住み込む)牢獄を替えただけ。以来、思考を巡らす主題の集合にしても、時期にしても、時間など超越した個の「意識」にしまい込まれる。同じく人と社会に向けるサルトルの視野は狭量に閉じこめられ、彼の視野を通して人は「閉ざされた社会」を(昔ながらの)伝統的な視点で再認識してしまい、心やすむ(気がする)のである。
Cogito知でのサルトル、デカルトの対比をこれほどの短節でかくも明瞭に語るのはさすが修辞の大家。デカルトも知は個に宿るとするが、源泉は神からの授かり。故に森羅万象に背接近できる。なお、神は人類のすべてに知を与えた訳ではない。「解析幾何学なる金字塔を建てたほどの「我」は、きっと神に祝福されたに違いない」の自負を持っていただろう。
prison牢獄について;
かの地フランスでは思想を建物に喩える。上記デカルトであれば建造物はedifice(大建築物)に値する。サルトルは「牢獄」に住むらしい。蛇足:スピノザの部屋には「窓がない」と揶揄される。
10 Cogitoの捕囚
サルトルにおける歴史、弁証法の論理展開の様をたどると;
思考を形成する主体は<個>にとどまる。個にとどまる限り思考は(歴史=dialectique)進展の機動には参画できない。悟ったサルトルは、個を社会に敷延した。sociologir=社会化する=なる動詞を用いたが、これはフランス語にはない、レヴィストロースの造語。思考を社会化して思考が集団化する(serialiteなど)を証明したから集団、社会を、実存主義の切り口でもって論ずる事ができる。以上がサルトルのたくらみ。しかし;
<<Sartre, qui pretend fonder une anthropologie, coupe sa societe des autres societes. Retranche dans l’individualisme et l’empirisme, -un Cogito- qui se perd dans les impasses de la psycologie sociale.(298頁)
訳;サルトルは一種の人類学を創造すると主張する。そして、彼の社会をほかのすべて社会から切り離した。さらに、個人主義と経験論(実存主義のこと)の海でCogito思考を守るとした。しかし思考は社会心理学の行き止まりに迷い消えた。
sa societe=彼の社会。彼が求める弁証法真理が進行している筈の社会。その社会は「個人経験主義=実存主義」のくびきから抜け出ていない訳だから、Cogitoは発展できぬまま、袋小路に停滞した。Retrancherは1分離する 2引き離して固守する の2義がある。2では(重要地点)を防御する意味合いが強い。ここでは2をとる。
<< il est frappant que les situations a partir desquelles Sartre cherche a degager les conditions formelles de la realite sociale : greve, combat de boxe, match de football. queue a un arret d’autobus, soient toutes des incidences secondaires de la vie en societe ; elles ne peuvent donc servir a degager ses fondements.(同)
訳; サルトルは(弁証法成立するために)現実社会でどのような形態があるかの説明で、ストライキ、ボクシング試合、サッカー、バス停の待ち列などを例証とするが、あまりにも衝撃的だ。これらはいずれも生活の二義的な事象である。それらから(弁証法が成り立つ)基礎条件は見つけられない。
解説;本来は個人段階での思想活動であるべき実存主義を、社会化してpratico-inerte(実践的惰性)、totalisation(総括、止揚)、interioriser(内包)、exterioriser(外延)など用語を編みだし、同時にそれらをして歴史展開の起爆材に化粧直しした。
例えば;
バス待ち集団は地域も目的も均等なのでserie=つながり=とされるが、すぐには革命を起こそうなどとは行動しない。それをpratico-inerte(惰性性向)とした。ソ連における共産社会への移行停滞も同じくpratico-inerte。個人の性行である「惰性」を集団化している。精神活動でしかない観念を歴史の必然に取り込むサルトルの論理とは、真理(dialectique)を(絶対神から知性を授けられない筈の)人の分析で説明する愚かな試みと、レヴィストロースが批判した。
レヴィストロースにとっては、歴史は出来事anecdotesを積み上げ、歴史家が、己が持つとある思想を元に、それらを解析する。歴史にしても本質は思想と事象との相互性reciprociteにあるとする、構造主義の立場。
<<Le role de la raison dialectique est de mettre les sciences humaines en possession d’une realite qu’elle seule capables de leur fournir, mais l’effort proprement scientifuque consiste a decomposer, puis a recomposer suivant un autre plan.(298頁)
訳;弁証法の役割とやらは人間科学を「とある一つの“現実”」に閉じこめることにある。その現実を提供するのは弁証法のみという(空回りの絡繰りが)ある。一方、正しく科学的とはまず分解し、別の手順により再構築するところにある。
続いて(以下の原文は略);
サルトル弁証法により社会化された(集団の)思考は、今、生きる時代をinterioser,exterioser(作用反作用)し、総括(totalisation)止揚する。止揚した暁に構成要素(存在、モノ)も、1段階を踏破したからに、属性attribuが変化するとサルトルは言う。このように考えてはならない。上記、複数の引用文でサルトルが開陳するdialectiqueの仕組みにレヴィストロースの反論が、論理的に綴られている。さらに;
<<Ce n’est pas tout>>それだけではない;
レヴィストロースの弁証法的理性(サルトル)批判 4の了
次回(最終回)は2月1日予定