蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

いかにして毛沢東は神となったか 1

2020年01月02日 | 小説
(2020年1月2日)
肖像としての毛沢東を幾つか選ぶ。
作品名は「偉大導師」、版画である。

ネットから採取すればより鮮明だが、本のデジカメ画像とした。

一目で毛沢東と分かる。しかし何かが「異質」である。その感覚の由来を探るのは後にする。本作を一通り見よう;

書斎で立ちながら本を読む姿から、何事かを調べている雰囲気が漂う。その本を手に取り、探し当てた紙面、行句に落とす目差しの真剣さ。肖像画には珍しい横顔なれば、左の顔半面しか描かれていないけれど、思索を深めようとの気迫がうかがい知れる。作者は張強氏、掲載画はデジカメ像です。出典は「それでも私たちが日本を好きな理由、在日中国人33人」(趙海成著 CCCメディアハウス出版)。
本の題名「それでも」の理由は、出版年2015年には反日デモ、漁船と海保の衝突などが重なり、中国内で日本排撃が高まっていた世相を反映している。日本に移り住み定着し、商業や観光、文化で長らく日中交流に貢献している33人を報告している。

張強氏は1986年に来日、日中往復しながら、国内で「高強」の作家名で肖像画家としての地歩を築いている。作品は1976年の発表。しかし発表前に、とある因縁がつきまとった。上役から「毛沢東と工農兵を共に描かず、どうして古い書物に埋もれる主席を書くのか」と非難された。工農兵は労働者、農民、解放軍兵士をまとめた慣用語で中国版のプロレタリアートである。
主席はプロレタリアと共に描かれねばならぬは教条である。
張氏はスケッチを仕上げた段階で「創作する権利を剥奪された」。

文化大革命が幕を閉じたのは1976年10月。張氏から創作権を奪った上役はおそらく共産党員であろう。革命なる騒動が終焉したか、あるいはその気配も察せられる時期にも、毛のステレオタイプ画像を芸術の至高と信じていた一団が指導層に顕在であった証左である。
張氏は諦めず、(芸術での)師の励ましもあって作品を完成させた。そして;
「偉大導師」は中国にあまねく知れ渡った。彼は一躍、有名になった。(同書141頁から)

冒頭に述べた小筆の「異質」と、(おそらく共産党員)上役が不同意をあからさまにし「創作権利」を剥奪までした理由が同じ根を持つと気付いた。前者は打破であり、後者は固執である。毛の画像にはこれらの確執が巡り回る。その確執を異質と見て、同根と感じたのだ。

毛沢東の典型画像を3挙げる(いずれもネット採取)


1 典型的な毛像である。中央の高みに位置し笑う、人民よりも大きく書かれる、明るい色(赤、その系統の色合い)が飾る。あたかも毛から光り、暖かさが輻射しているかの錯覚をもたらす。工農兵が毛の下で拳を握りなにやら主張している。兵は中央にて片手に掲げる赤い冊子が「毛沢東語録」である。


2 ここに人民は見えない、代わりに花がかしずく。彼は笑いを四辺ふりまいている。人民はポスターの外周に取り囲み、毛のご威光を受けている、そう決まっている。省略されているが、理由は「当たり前」だから。毛の顔がでかい、視覚的に安堵されたでかさの分だけ偉くなっている。令和日本では戯画「ドヤ顔」の範疇である、しかる文革最中の中国の街角で「人民の偉大な指導者」的な錯覚効果を、そこいらに汪溢している立派な人民芸術である。


3 取り巻く人の多さからして、また1,2で述べた機能が全て満載される点で、さらには全員が「語録」を掲げて偉大な指導者を讃えているなどからステレオタイプの中で極めつきです。

こうした画を描くように上役は強要した。
画には必ず「語録」を人民が振りかざしているから文化革命期間(1967年に始まる)である。その期間の残された動画をネットで見ると、確かに人民は毛に「熱烈歓迎」「雨あられ」式に語録を振り回して熱狂していた。政治プロパガンダであるとしても、人の瞬間の表情にまでも政治意向は入り込めないから、彼らは確かに熱狂していたのだ。としか小筆は解釈を知らない。
そしてこの書(それでも私たちが…)張強氏の半頁の既述から、熱狂がある時に止んだと気付く。書に戻る;
張氏は抵抗し、何とか完成にこぎ着けた。版画が中国の各地に広まった。そして;

全国美術展で入賞。あまねく知れ渡った(既述)のである。評論家(そういう職業が中国にあるかを知らないが)も人民も「非」原寸大の「笑う毛」には、実は、飽きていたとも勘ぐれる。張氏が発表したのは1976年、革命が終焉した同年となる。全国に配布されたのは1978年となるのか。革命四人組が逮捕され憑きものが落ちたかのように人々が覚醒する。彼らは「実物大」の毛、笑うでも光りに輝くでもなく書斎に一人立ち、とある書籍の一の頁に目を落とす、何事かを考える毛に人々が引きつけられた。鑑賞の仕方まで紅衛兵の指示うけるくびきから、突如、解かれた。これが芸術の力である。

さて、革命期間中
毛沢東は乾坤一擲の勝負に出る。実物大の己を曝すのである。


写真は広く流布している。
紅衛兵は文化大革命の年、1966年に結成された。同年8月から11月にかけて、全国から1000万の兵士が北京に集合、天安門広場で毛沢東の謁見を受けた。第一回の謁見大会で毛が女闘士から紅衛兵の腕章を受ける写真である。この女性が毛を神の座に導いた。続く

部族民通信より新年の挨拶。
昨年中に当ブログ、および部族民通信ホームサイトにお立ち寄りいただきました読者各位に御礼申します。本年も鋭意、駄文を書き連ねますのでよろしくご回覧下さい。蕃神
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