蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

いかにして毛沢東は神となったか 2

2020年01月04日 | 小説
前回投稿に掲載したPDF(毛沢東と紅衛兵)が表す神格化過程を考えよう。


彭徳懐と毛沢東、彭は毛を上位者ではなく対等者として付き合っていた。戯曲・海瑞罷官への攻撃の余波が己に及ぶとは彭は想像もしなかった。しかし神となった毛に対等などあり得なかった。

下の写真(PDF:ブログでは写真、右上)には幾つかの神話化への作為が認められる。


縦横の2軸は「信じる・疑う」と「寛容・悪意」を示している。人の行動と精神はおおよそこの座標に組み込まれる事になるが、四隅に特異域が位置する。毛の正しい位置は左下、疑い深い行動、悪意の信念の特異域である。その理由をこれから述べるが、スターリンとこの域を共有していると説明すれば、それで読者も納得するであろう。前々回に投稿したPDFを参考にして欲しい。

神格化の図式

毛沢東が冷酷である事実は「毛沢東の大躍進」(楊継縄著)など実録書におぞましい実態が記載されている。小筆として一点だけ挙げる。
一村一殺。
共産党の支配拡大に用いられた「戦術」である。戦とは軍隊どうしの戦いを意味するが、ここでは八路軍(後の解放軍)は登場するが、相手は軍ではない。村の住民、せいぜい旧式銃で武装した自警員が数人、全くの非対称戦争である。
村を軍が包囲する。前もって内通者から情報を得ているから、地主がどの屋敷に住むか、一族郎党が終結する時間、その場など、軍は知り尽くしている。地主の一統を包囲して一殺に向かう。
小筆は一殺とは地主「一人」を殺す事と理解していた。そのように解説する「ネット」サイトも多い。これが大きな間違いであると前述の書籍で知った。
地主の一統「一族郎党」を全員殺戮するのである。その中には女子供、乳幼児も含まれる。なぜそこまでするかとは、それが毛のやり方であるからと考えるしかない。

中国人、この場合には漢人が正しいだろう、はもともとその習俗を持っている。一人だけを殺したら生き残る係累に必ず、仇討ちに遭う。皇帝位の継承紛争でも負けた側は「一族」全員が殺される。毛沢東は、漢人のそうした残虐風土の上に「毛沢東主義」を植え込んだ。これは「目的のために手段を選ばない」卑劣行動を増進させる思想である。目的とは「村の共産支配」、別の言い方では共産支配を妨害する全員(地主の一統)を殺戮する。
一統を殺戮して土地の権利関係書類を消却し、農奴達に土地(の使用権)を分け与え、財宝、現金を根こそぎに略奪して引き上げる。村の若者、壮丁は八路軍に狩り出される。
共産主義の村の出来上がりである。

後々、一網打尽の殺戮戦略は再度、文化大革命で花を咲かせる。百花済放。一時、言論を自由に解放したが、不満分子は迫害された。反毛、不満分子のあぶり出し作戦とされる。毛の疑り深さ、信念の底の悪意の例として挙げた。

毛の本貫の座標が座標の左下を占める事実は、上述の通りだが、彼は次に説明絡繰りで、右上に移ってしまった。

PDFに入ろう。

1 党主席の毛沢東は壇上にはいない。一兵卒、紅衛兵の毛沢東がそこにいる。
国家主席としての毛、紅衛兵の毛の写真を下に挙げる。左の毛の人民服は見るからに素材(メリノ)と仕立てがよい。右は兵卒の毛、体躯にあわない粗末な兵服を着し、兵士の徴である襟章を付け紅衛兵の腕章巻いている。

2 毛を紅衛兵に取り立てた娘は宋彬彬である。第一回紅衛兵大会(北京天安門広場、1966年9月)、1000万人の学生紅衛兵を前に、毛に腕章を巻いた。宋は北京の学生からなる原初の紅衛兵団を組織していた。北京の学生(生徒)とは共産党幹部の子弟を意味し、宋の父親も有力幹部であった。また学生が自発的に団を組織したなどではなく、毛の(裏からの)肝いりが入っていた。彼女は大会の12日前に北京師範大学(正しくは付属女子中学校=高校)の副学長を「撲殺」している。自ら率いる衛兵の数人で副学長を校庭に引きずりだして、取り囲み樫の杖で頭骨を幾度も打ち、砕いた。この殺人をもって紅衛兵の乱暴狼藉の幕が切って落とされた。ネット情報ではつかめなかったが、状況からして被害の副学長(下仲耘と伝わる)は毛が狙いをつけた北京市長の彭真派であったろう。戯曲・海瑞罷官(毛が反革命=反毛と決めつけ文革の発端となった)の作成にもからんでいるのかも知れない。

3 宋は毛に腕章を与えることで毛を紅衛兵として取り立てた。彼女の殺人行為は正当化された。さらに紅衛兵が後々にしでかす、反革命派(走資派とされた)へのいかなる狼藉行為にも免罪が安堵された。造反有理。なぜなら党主席の毛は兵卒となって、さらに紅衛兵となって、1000万兵士の前、天安門の壇上、等身大の毛は神に昇格した。
毛は「寛容さ」を発揮した。これまでに私兵の紅衛兵が犯した数々の乱暴を許した。宋の撲殺事件を「有利」と許した。そして;
信じやすさ「紅衛兵の行動こそが共産革命につながる」を示したのである。

毛が逃げ出した左隅の空白はどうなったのか。反毛沢東派を押し込めたのである。彼らこそ「穏当」「融和」「漸進」の良き革命家であった。右上の住民だった(判官贔屓が混じる)。毛が張り付けたレッテルの走資とは(疑い深く悪意を抱く)資本主義に戻る狗であった。
続く
コメント
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