蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 3

2020年01月27日 | 小説
試験官から事務所の案内を受け、その足で駆けつけて無事、パリ大学第一文学部(ソルボンヌ=68年当時は文書にもSorbonneの呼称が使われていた)、その内のEcole pratique des hautes études(実践高等学院), 課程はanthropologie sociale(社会人類学課程)に潜り込めた。学期の始まりは10月であるも、講義が開始するのはその月もかなり遅くなってからになる。その間に学生と教官の対話,colloqueに参加したが、学制と評価の話で旧制度も新制度も知らない私にはちんぷんかんぷんだった。ただ「学生が教官を評価する」の提案には教官側がきつくNonと答えた。これは分かったし、印象的だった。

講座(cours)とゼミ(travaux dirigés)を選べ、私(渡来部)は極北民族(イヌイット、当時はエスキモー)とアフリカ(ドゴン族など)の講座を選び、ゼミにおいては音韻学を選んだ。講義内容に関してはいずれ語る機会があるだろう。本題にはいる。

11月に入ってしばし、金曜のゼミが終わって学生が散らばる前に友人から
「明日、発掘現場に行くけれど、来ないか」誘われた。
こういう時には即座に絶対に、前向きのd’accordを返さないと、あとあと誘いが来ない。とっておきの「vachement oui」と返事した。(vachementとは「雌牛的」にの意味の学生俗語、(雌牛はマヌケだから)無批判に絶対信頼しての意味で使っていた)

翌日の朝、しめし合わせた広場で待つも時間に遅れることしばし、前方からかなりくたびれた2CV(ドゥーシュヴォー、直訳すると2馬力車、シトロエンの大衆車)が独特エンジン音をバタバタと響かせ、目の前にプスー止まった。同じクラスの顔見知りが前に2人、もう一人が後ろの左。後ろ右に座るのは見知らぬ女性、姿と格好から学生と知れる。
紹介してくれた名はジュヌビエーブだった。
運転者も含め身振りと手振りの会話が始まった。ちなみにフランス人は運転者といえど、車中の会話に積極参加する。時に後部に振り返っては自説を繰り返す。上下3車線の追い越し線に入っている時だって、果敢に振り返る。それでも事故を起こさないとは見上げた腕前だ。(上下2車線の中央に1車線の追い越しが設けられて、どちらからも追い越しできる。うっかりすると正面衝突に巻き込まれる。今はこうした線はないだろう)

写真:アンドレ・ルロワグーラン教授北海道での調査旅行と思える1935年。

車中の会話は出始めが2CVについての性能。
「エンジンは非力だが、車体が軽い分走りは軽快。5人乗ってもしっかり走る」
私は5人目になって後ろの中央に座らせられた。後部シートは鉄パイプの枠にキャンパス張り。中央に強度を取るため前後の鉄の棒が渡される。これが中央に座る者のお尻に当たる。
「XXはこれでモスクワ学会まで皆と行ったと自慢していた」XXとは講座を受け持つ若手の講師。
「何人が乗り込んだか知ってるかい」は私の問い。
「4人で行ったと聞いている」
「Bonne chance pour le quatrième monsieur」(4番目の人はラッキーだったね)
「Pourquoi ?」(何故)
「il a pas eu le problème au derrière」(お尻が痛くなかったから)
皆が大笑い。
真ん中の棒はやっかいと知っていたのだ。右手のジュヌビエーブが何かをつぶやいた。これが何とも分からない。「旅程はモスクワよりも長くはない」程度の軽い内容の筈だが、どうもこれを「痛みの限界点を超さない筈だから、お前にも神の祝福なる幸運はいずれ訪れよう」なんて言っているみたいだ。こうした言い方をして名詞文節とするが、勿体ぶった言い回しこの上ない。彼女にはそれからも度々会う。私として会話をそれなりに上達しても、それを凌ぐ勿体ぶりの増進にはついて行けなかった。

痛み限界の前に着くと慰められた地点はモー市、パリ近郊になるので一時間はかからない。マルヌ川の段丘。到着して飛び出すかのごとく渡し棒鉄のせめぎから逃げられた。
見学して一通りの説明を受け、昼食となった。仮設の大テーブルに白のクロス、各自が指定場に座るのだが、何故か中央の左脇の席をあてがわれた。ルロワグーラン教授が鎮座する席の右であった。
その時は思わなかったが、これは仕組まれた席だった。教授とは偉いけれど煙ったい存在で、近づけば構えなければならない。その席は敬遠される。日本人ならどうでもよかろうとの逆の配慮が働いたと後に感づいた。
皿を配膳されてもナイフがなかった。ボーイに告げようと手を上げた矢先に、教授が
「これを使え」と手前のナイフをずらした。自身にはオピネル(ナイフのブランド)をポケットから取り出し皿の横に置いた。研ぎこまれた刃先を見るに、かなり以前から使い込んだ愛着品と思えた。
食事が始まって、めいめい会話に花が咲く。私も何かの切り口を開かねば。しかし相手は先史学、民族歴史学の大教授である。何かを探るに付けフト思いついた。
「教授、ご存じでしょうか。戦後の日本では主張の自由が広まって、皇室の成り立ちも語られるほどになりました」
「ほう、昔は不自由だったのか」
ルロワグーラン教授は1935年にアイヌ研究で日本を訪れている。昭和の初期の日本世情に接していたのだから、この返事は知らない素振り。
「騎馬民族が皇室の祖先であるとの説がもてはやされています」
江上波夫の「騎馬民族説」を語った。教授がこの説を知っていた様子はなく、私の説明を聞いても同意の素振りは見せなかった。
「遺跡や風俗に遊牧民(nomade)の痕跡が裏打ちしているのか」
騎馬民族などという範疇はない。故に彼は私が用いた「peuple sur le cheval」は使わず、遊牧民として返した。
佐原真、石田英一郎氏などの反論を念頭において私は、
「考古学と民族学の方々からは批判を受けています」
「証拠となる遺跡、ないしそれを伝える風習がない限り仮説である」
先史学の泰斗としてごもっともは結論となった。


ルロワグーラン教授との対話であった。ちなみに昼食はfaux filetとfrites、こちらも美味しかった。 続く
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