蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

…読む楽しさ、書く苦しさ、教えるむなしさ…追

2020年01月07日 | 小説
1月3日に投稿した表題を加筆のうえホームサイト(WWW.tribesman.net)に投稿した案内です。
少々長くなるのと、重なりが多いのでブログに再投稿は控えます。加筆とは;


元本の「絢爛たる悲惨」 徳永詢(マコト、偏は言ではなく小)
ご本人の顔写真を探したがネットには露出されていないので、著作の表紙

読むとは発見であるし、時に発明かも知れない。発明の語感に違和を感じるとすれば、「推理」を受け入れてくれるだろうか。著者の主張、見解が文中にあちらこちらと散りばめられているとして、読みながら著者考えの統一性に「推理」をすすめる。その先さらに文言外に、行外に、著者が説くは「こうした事であるはず」と「発明」してしまう。推理小説を解くがごとく、後頭部位の蠕動までも誘発する。これが楽しみだ。

以前、
書くとは頭に、心と言い換える人も多い、あるなにがしかを文言、行と句に言い換える作業と信じていた。書く前に何をボードに託すのかを整理して、こつこつと粛々と、パチパチとキィを叩いて出来上がりだと思っていた。これが大間違。
ある主題を書くとする。それが出来上がるはず紙面には絶対の「解」がすでに存在している。著者にはそこに埋まっているはずの完成文章など見えないから、仕方なく字をパチパチ綴る。しかし絶対「解」には達しないから頭をひねる。ひねっても、ひねっても、完成に至らない。ありきたりの語彙、平凡な語用法、言い回しの稚拙さでは絶対解にはたどり着かないのだ。
頭や心を述べるのではない、そこに置くべき品を完成させるのだ。何となくその完成した外貌が見えているのだが、子細まではつかめない、筆耕しながらそれを探り当てるのだ。
徳永氏の洩らす苦しみをこのように理解した。

...伝えるむなしさ...(教えた経験がないから伝えるとした)
小筆のホームサイトは人類学、哲学、レヴィストロースの作品紹介である。世の中では今、IT、AI、省資源、平均所得、総理とかトヨタのボーナス額などを話題に取り上げている。全てが実際、実社会、生活に日常的に関連している。人類学、哲学はこれらと一切関連がない。言い方をひねれば関連が「限りなく透明に近い」ほどブルーに薄い。誰もこの種の話題に関心を持たないのだ。


コメント
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