(2020年1月28日)
モーツアルトが「フィガロの結婚」の着想を得たのはボーマルシェの同名戯曲に接した直後であると伝わる。婚約者スザンナとの結婚に立ちはだかる公爵、彼は「初夜権」をタテにスザンナに迫る。フィガロの機知で公爵をやりこめる筋立てを2管編成、4幕、幾つかのアリア、多重唱を散りばめた作品を楽曲とすると彼が決めた。序曲、アリア、重唱で歌われるメロディが自然に耳に湧いて聞こえてきた。なぜなら神が解、きっと解の一部分をモーツアルトに耳打ちしたからだろう。
そして、
完全解は五線譜上に出来上がっている。
総譜はそこに存在しているのだから、神が造りたもう音の重なりと響きの流れを苦心して、盗み聞いて譜面に起こして作品に仕上げる。その作業がただ残るだけだ。その作業を才能と人は伝えるしモーツアルトにして、才能は神から授かったほど完璧だけれど、ペンを取って五線譜を眺めても即座に見えない。それを曝こうと苦心の果ての幾週に作品が出来上がる。
人類には彼を越える才能を持つ者はいないから、これ以上のフィガロは他のどの作曲家にだって作れない。人が聞く事が可能のなかで最高の「フィガロ」なのだから、それを崇めればよろしい。サリエリ(当時の宮廷作曲家)だったら着想でつまずき、メロディを聞き取れず、和音進行のドラマを書き込めず、神の完全解にはとても及ばない平凡作品に終わっただろうに。しかしその初演で皇帝は欠伸して退席し、さんざんな悪評を受けた。(ハリウッド映画アマデウスが描く天才と凡庸の構図)

画:渡辺崋山筆、鷹見泉石肖像(部分)、東京国立博物館から採取。国宝(絵画で最も若い国宝)
もう一人の天才;
渡辺崋山が鷹見泉石に肖像画を依頼され、正装した彼と浅草誓願寺にて対面し何を心に感じただろうか。残された作品から探るしかない。
肖像ならば顔の全体、着衣帯刀の半身像が描かれている。後代の者がその半身像を前にして何やらの異様を感じるとすれば、画面に漲る光であろうか。画の全様から光が発せられているとしたら、それが意思ではなかろうか。対峙すると引き込まれる、何やらの力の原点とは意思であり画にその者の意思が溢れているなら、画裏の奥に意思の中心核が存在して、そこが発光の起点となって絹地を抜けて光が放射していると気付く。
故に両の目に漲る光、それが何やらの異様さの正体、は人の意思であると感じる。崋山は人が秘める意思の力を思想に固め、この肖像画を作品とした。
ならば絶対の解は崋山の目の前に座り、目を光らせた泉石の存在そのものであろうか。それならば写実に徹すれば神の解を得られる。しかし小筆はその考えに与しない。物体としての泉石が創造の解ではない。崋山が温めた思想としての泉石が解なのだ。崋山が画にしたのは形態の泉石ではなく、崋山の頭に閃いた思想を画にしたのだ。

なお、
作品(国宝1837年、東京博物館所蔵)実物を目にしていない。一般公開はされるはずだが、その機会に浴していない。同館ホームサイトを眺めるのをもっぱらにするが、パソコンスクリーンからでも本画の目玉の異様に圧倒される。
モーツアルトが「フィガロの結婚」の着想を得たのはボーマルシェの同名戯曲に接した直後であると伝わる。婚約者スザンナとの結婚に立ちはだかる公爵、彼は「初夜権」をタテにスザンナに迫る。フィガロの機知で公爵をやりこめる筋立てを2管編成、4幕、幾つかのアリア、多重唱を散りばめた作品を楽曲とすると彼が決めた。序曲、アリア、重唱で歌われるメロディが自然に耳に湧いて聞こえてきた。なぜなら神が解、きっと解の一部分をモーツアルトに耳打ちしたからだろう。
そして、
完全解は五線譜上に出来上がっている。
総譜はそこに存在しているのだから、神が造りたもう音の重なりと響きの流れを苦心して、盗み聞いて譜面に起こして作品に仕上げる。その作業がただ残るだけだ。その作業を才能と人は伝えるしモーツアルトにして、才能は神から授かったほど完璧だけれど、ペンを取って五線譜を眺めても即座に見えない。それを曝こうと苦心の果ての幾週に作品が出来上がる。
人類には彼を越える才能を持つ者はいないから、これ以上のフィガロは他のどの作曲家にだって作れない。人が聞く事が可能のなかで最高の「フィガロ」なのだから、それを崇めればよろしい。サリエリ(当時の宮廷作曲家)だったら着想でつまずき、メロディを聞き取れず、和音進行のドラマを書き込めず、神の完全解にはとても及ばない平凡作品に終わっただろうに。しかしその初演で皇帝は欠伸して退席し、さんざんな悪評を受けた。(ハリウッド映画アマデウスが描く天才と凡庸の構図)

画:渡辺崋山筆、鷹見泉石肖像(部分)、東京国立博物館から採取。国宝(絵画で最も若い国宝)
もう一人の天才;
渡辺崋山が鷹見泉石に肖像画を依頼され、正装した彼と浅草誓願寺にて対面し何を心に感じただろうか。残された作品から探るしかない。
肖像ならば顔の全体、着衣帯刀の半身像が描かれている。後代の者がその半身像を前にして何やらの異様を感じるとすれば、画面に漲る光であろうか。画の全様から光が発せられているとしたら、それが意思ではなかろうか。対峙すると引き込まれる、何やらの力の原点とは意思であり画にその者の意思が溢れているなら、画裏の奥に意思の中心核が存在して、そこが発光の起点となって絹地を抜けて光が放射していると気付く。
故に両の目に漲る光、それが何やらの異様さの正体、は人の意思であると感じる。崋山は人が秘める意思の力を思想に固め、この肖像画を作品とした。
ならば絶対の解は崋山の目の前に座り、目を光らせた泉石の存在そのものであろうか。それならば写実に徹すれば神の解を得られる。しかし小筆はその考えに与しない。物体としての泉石が創造の解ではない。崋山が温めた思想としての泉石が解なのだ。崋山が画にしたのは形態の泉石ではなく、崋山の頭に閃いた思想を画にしたのだ。

なお、
作品(国宝1837年、東京博物館所蔵)実物を目にしていない。一般公開はされるはずだが、その機会に浴していない。同館ホームサイトを眺めるのをもっぱらにするが、パソコンスクリーンからでも本画の目玉の異様に圧倒される。