(2020年1月31日)
徳永恂氏の「読む楽しさ書く苦しさ教えるむなしさ」を続ける。3の行動なかで「書く」はもっとも創造が必要とされる。読む、教えるにも創造がまとわりつくだろうが、それらには創造性は「書く」ほどには濃くないと思う。例えば;10年一日のやり方で同じ思想と実行で、教えたとしても、そのやり方で教育効果が生まれるなら、先生として尊敬される。「職人」の先生がいたっておかしくないし、事実、そんな名物教師は数えられるものだ。
逆に、教壇に立つ度に創造的な「新たな思想で」教えられたら、教わる方が追随出来ない。創造が逆効果を産んで生徒はただ、途惑う憂き目を会う。
前の投稿ではこの「新たな思想」が創造、芸術に他ならないとした。では書く行為では、いかなる新しさが求められるのだろうか。
書く者は周囲を観察する。
彼は自然、家族、社会、法律など形として見える事象に囲まれている。さらに書物、新聞、報道でこれらの周囲状況に2次的に接する。これらをかくとしと受け入れ、遠方の情報でも掴める。これらが書く者を囲む周囲milieuである。
しかし、情報は混乱の様を見せる。そんなもつれる情報が彼に押し寄る。その信号は無限に広がりchaos混乱の様を顕わにする。混乱の嵐の荒れ野を彼が彷徨している。創造する者はカオス混乱から信号を選び、その成分をより分けしまい込み思想に昇華せねばならない。創造する度ごとに思想を更新しなければならない。さもなくばただの書き手、職人の書き手となってしまう。
三島由紀夫の手書き原稿、ネットから採取。
三島由紀夫が代表作「潮騒」の着想を得たのは世界旅行(1951年)でギリシャの自然に魅了され、少女の恋愛譚「ダフニスとクロエ」に触発を受けたからとされる。後に神島を訪れ、筋立てを決めた。
執筆開始から4ヶ月(神島訪問と出版の月日から逆算した)、出版社に持ち込まれた原稿は訂正、加筆、削除など書き直し一行にも汚れが探せない完全原稿であった。
神の作品とは疑いもない(潮騒の原稿ではないが、かならず無謬原稿が出版社に届けられる)
作家の創造過程を推察するに着想、構成、細部、執筆の流れは全てに共通する。
着想は思想の形成であり、潮騒ではダフニス…からそれを得ている。自身の言葉で彼は思想を「彼は貴族や、大政治家や富豪ではない。生活の行為者であつて生れたときから、天使であつて幸運、一種の天寵が彼の身を離れない。愛する女と幸福に結ばれる」(創作ノートから、Wikipedia、一部略)と語っている。
思想を温め実地に足を運んで執筆を始めた。それに続く仕事の様などはうかがい知るべくもないが、書き出した途端、原稿用紙の空白に完全解を見いだした筈だ。後はひたすら目に浮かぶ、あるいは頭によぎる言い回し、文節を用紙に書き連ねるだけである。
この4ヶ月は彼をして神憑りの状態であったかもしれない。
そして;
潮騒は思想の新たさが際だっていた。発表の直後、口うるさい論壇から「現実離れ、牧歌的な恋物語、ハリウッド的な通俗」が感動を呼ばないとの酷評もあった(Wikipediaから)。禁色など人性の暗さを主題とした三島の「新たな思想」に読む側が追随出来なかった証である。
凡人が何かを書こうとして、思いつき程度の主題をネタとして、書き始めても言い回し文言の選択で躓くから、訂正し加筆して、それでも気に入らず全てを消してまた書き出して。こんな繰り返しを幾重に重ねても、一向に解には辿り着かない。
彼は勘違いしているのだ。
筆耕を繰り返せば何とか、完全と言えなくとも、それに迫る原稿はモノに出来ると。これが違う、着想を持った時に神は作品を用意しているのだ。完全解はすでに出来ている、神のその作品をなぞらえる苦労が創造活動なのだから。
潮騒執筆の数ヶ月、三島に神が降臨していた。この神憑り状態を苦しいと表する事は可能かも知れないが、凡才はどうやってもそれが「見えない苦しさ」なので次元が異なるようだ。
サリエリが努力してもモーツアルトに化けられない。私が由起夫に生まれ変わる幸運は絶対にやってこない。この悲しい現実を見直したら神が遮っていた次第でした。読者様には第二の三島と変わることは可能であるかも知れません。了
徳永恂氏の「読む楽しさ書く苦しさ教えるむなしさ」を続ける。3の行動なかで「書く」はもっとも創造が必要とされる。読む、教えるにも創造がまとわりつくだろうが、それらには創造性は「書く」ほどには濃くないと思う。例えば;10年一日のやり方で同じ思想と実行で、教えたとしても、そのやり方で教育効果が生まれるなら、先生として尊敬される。「職人」の先生がいたっておかしくないし、事実、そんな名物教師は数えられるものだ。
逆に、教壇に立つ度に創造的な「新たな思想で」教えられたら、教わる方が追随出来ない。創造が逆効果を産んで生徒はただ、途惑う憂き目を会う。
前の投稿ではこの「新たな思想」が創造、芸術に他ならないとした。では書く行為では、いかなる新しさが求められるのだろうか。
書く者は周囲を観察する。
彼は自然、家族、社会、法律など形として見える事象に囲まれている。さらに書物、新聞、報道でこれらの周囲状況に2次的に接する。これらをかくとしと受け入れ、遠方の情報でも掴める。これらが書く者を囲む周囲milieuである。
しかし、情報は混乱の様を見せる。そんなもつれる情報が彼に押し寄る。その信号は無限に広がりchaos混乱の様を顕わにする。混乱の嵐の荒れ野を彼が彷徨している。創造する者はカオス混乱から信号を選び、その成分をより分けしまい込み思想に昇華せねばならない。創造する度ごとに思想を更新しなければならない。さもなくばただの書き手、職人の書き手となってしまう。
三島由紀夫の手書き原稿、ネットから採取。
三島由紀夫が代表作「潮騒」の着想を得たのは世界旅行(1951年)でギリシャの自然に魅了され、少女の恋愛譚「ダフニスとクロエ」に触発を受けたからとされる。後に神島を訪れ、筋立てを決めた。
執筆開始から4ヶ月(神島訪問と出版の月日から逆算した)、出版社に持ち込まれた原稿は訂正、加筆、削除など書き直し一行にも汚れが探せない完全原稿であった。
神の作品とは疑いもない(潮騒の原稿ではないが、かならず無謬原稿が出版社に届けられる)
作家の創造過程を推察するに着想、構成、細部、執筆の流れは全てに共通する。
着想は思想の形成であり、潮騒ではダフニス…からそれを得ている。自身の言葉で彼は思想を「彼は貴族や、大政治家や富豪ではない。生活の行為者であつて生れたときから、天使であつて幸運、一種の天寵が彼の身を離れない。愛する女と幸福に結ばれる」(創作ノートから、Wikipedia、一部略)と語っている。
思想を温め実地に足を運んで執筆を始めた。それに続く仕事の様などはうかがい知るべくもないが、書き出した途端、原稿用紙の空白に完全解を見いだした筈だ。後はひたすら目に浮かぶ、あるいは頭によぎる言い回し、文節を用紙に書き連ねるだけである。
この4ヶ月は彼をして神憑りの状態であったかもしれない。
そして;
潮騒は思想の新たさが際だっていた。発表の直後、口うるさい論壇から「現実離れ、牧歌的な恋物語、ハリウッド的な通俗」が感動を呼ばないとの酷評もあった(Wikipediaから)。禁色など人性の暗さを主題とした三島の「新たな思想」に読む側が追随出来なかった証である。
凡人が何かを書こうとして、思いつき程度の主題をネタとして、書き始めても言い回し文言の選択で躓くから、訂正し加筆して、それでも気に入らず全てを消してまた書き出して。こんな繰り返しを幾重に重ねても、一向に解には辿り着かない。
彼は勘違いしているのだ。
筆耕を繰り返せば何とか、完全と言えなくとも、それに迫る原稿はモノに出来ると。これが違う、着想を持った時に神は作品を用意しているのだ。完全解はすでに出来ている、神のその作品をなぞらえる苦労が創造活動なのだから。
潮騒執筆の数ヶ月、三島に神が降臨していた。この神憑り状態を苦しいと表する事は可能かも知れないが、凡才はどうやってもそれが「見えない苦しさ」なので次元が異なるようだ。
サリエリが努力してもモーツアルトに化けられない。私が由起夫に生まれ変わる幸運は絶対にやってこない。この悲しい現実を見直したら神が遮っていた次第でした。読者様には第二の三島と変わることは可能であるかも知れません。了