(2020年7月17日)
共時経時のモノの因果(causalite)これが魔術思考であるが、近代科学は決定論(determinisme)として結果を説明する。引用を進める。
>C’est de la meme facon que les elements de la reflexion mytique se situent a mi-chmin entre des percepts et des concepts<(32頁)
この文節からbricolage行動の思考論に入る。C’estは前の文節で語っている寄せ集め作業のこと。element=要素=とは作品を形作る各要素。前々回に掲載した奇怪な建造物(facteur du Cheval)を例に取れば石、煉瓦、窓枠など。pensee mythiqueでのelementは呪いの護摩の灰やらクマのクソなど(と推測する)。
訳;魔術的考察の各要素が「知覚されるモノ」と「考察されるモノ」の間をふらつくと同じく、bricolageに用いられる要素も同じくふらつく。
少々分かりにくいのはこの文の前段を引用しなかったからで、そこでは石煉瓦窓枠などのelementsはそれらが入手できたから用いるのであって、使えるなら何でも、使いにくくてもはめ込むという精神で作業する。するとこれらの材質は、その状態と用途に必要な規格との間で、すなわち、あるべき位置には置かれないけれど、何とか使えるから用いる。こうした状況を説明している。これをして「知覚...」と「考察...」と説明している。
さらにそれと魔術思考を重ね合わせたのだ。
魔術考察における「ふらつき」とは何かを申さねばならぬ。それこそ妙薬「クマのクソ」を巡る知覚=単なるクソ、と考察=頭痛の快癒、ここに信じようとも、ある意味では距離感を持たざるを得ない実態と言おう(苦しいけれど他に思いつかない)
bricolageと民芸運動の差は、片方はできあがりの形態を明確に持たない。もう一方はそれを持ち、作業道具を規格にあわせ管理している。
民芸運動とは古くの「寄せ集め作品」を近代手順で再現したものと言い切れるだろうか。写真は柳宗悦の作品。
染織(紬織り)で人間国宝の栄を受けた志村ふくみ氏(写真は同氏作品)は若かりし頃、民芸運動に参加した。しかし彼女が目指す方向は「bricolageに似せる」とはあわず、柳氏と決別した(新聞掲載の回顧録から)
2の作品を見比べ、両者の方向性の違いは理解できる。しかるに志村氏の作品にも幾分かの「崩れ」は窺えるのだが。前回掲載した日光陽明門にしても崩れ、奇抜、奇怪などは当てはまる。近代にして我々は、新石器革命以前bricolageの記憶にうなされているのか。
ここでの主張は
1 Bricolageの方法論とは要素(部材)の規格に拘泥しない。要素の本質(材質そのもの)を重視し属性(規格)を軽視する。前投稿で説明したモノの形態に拘泥する具体科学と思察の進め方は共通する。またそれは魔術とも共通する。いずれも属性を軽視し本質を最重要視する考え方でsる。
本質と属性の語を使った理由は、この後にすぐソシュール言語学の「構造」を取り込む仕掛けを入れているから。
ソシュールの意味論に入ろう。
前記のperceptsとconcepts「知覚...」と「考察...」は意味論のsignifieとsignifiantに相当します。小筆は幾度か解説を挙げているがここでもう一度。
Percepts=signifie(ソシュールの言う意味されるモノ), 知覚できる(モノ)はイヌに例えればそこらをうろつく、見えているイヌです。
Concepts=signifiant(同 意味するモノ)頭にあり言葉としてイヌを発音せしめる考察です。
>Il serait impossible d’extraire les premiers (percepts) de la situation concrete ou ils sont apparus , tandis que le recours aux seconds (concepts)exigerait que la pensee puisse mettre ses projets entre parentheses< (32頁) ( )は訳者。
この文は寄せ集め者の思考と行動を説いています。目の前にできあがった作品とそれを作らさしむに至った頭の中(設計図かも知れない)の関係を、ソシュール言語学の「意味する」、「意味される」の対峙を用いて解説する。( )は訳者。
訳;感じられるモノをそれが顕れている具体状況から引き抜く(Chevalの城で見ると、無造作に積まれる煉瓦や石の意味あい)は不可能かも知れない。さらには考察していたなにがしかを突き詰める作業とは、思想(設計図的なモノ)がそれらの考察を括弧内に置く(何を作るのを明瞭にさせる)事につながり、これも労を要する。
前出>(魔術は)「知覚されるモノ」と「考察されるモノ」の間をふらつくと同じく、bricolageに用いられる要素も同じくふらつく<この考え方を言語学意味論を用いて説明している。
何故意味論を持ち出したかは、思察の進め方を一般的に、思弁的に進めるためと考える(レヴィストロースは哲学者なので)
劇的な一文が続きます;
>Or, un intermediaire existe entre l’image et le concept : c’est le signe , puisequ’ on peut toujours le définir , de la façon inauguree par Saussure a propos de cette categorie particuliaire que forment les signes linguistiques , comme un lien entre image et le concept , qui, dans l’union ainsi realisee, jouent respectivement les roles de signifiant et de signifie.(32頁)
訳 ; さよう、イメージと考察の間には何者かが仲介している、それが「意味」である。この特別な範疇(bricolageの作品と設計図)、それはイメージと考察との関係であるが、それを意味する、意味されるの、ソシュールが先鞭を付けた言語学意味論の手法でもって、解析できる。
この後、寄せ集め作業者の製作姿勢、思考の描写が入る。貧弱な道具体系、手に入る素材を何でも使うの制約から作品がhetereclite奇抜、不規則になってしまう。この製作過程の跛行性をして寄せ集め従事者の頭には意味論の破綻が生じている。続く
共時経時のモノの因果(causalite)これが魔術思考であるが、近代科学は決定論(determinisme)として結果を説明する。引用を進める。
>C’est de la meme facon que les elements de la reflexion mytique se situent a mi-chmin entre des percepts et des concepts<(32頁)
この文節からbricolage行動の思考論に入る。C’estは前の文節で語っている寄せ集め作業のこと。element=要素=とは作品を形作る各要素。前々回に掲載した奇怪な建造物(facteur du Cheval)を例に取れば石、煉瓦、窓枠など。pensee mythiqueでのelementは呪いの護摩の灰やらクマのクソなど(と推測する)。
訳;魔術的考察の各要素が「知覚されるモノ」と「考察されるモノ」の間をふらつくと同じく、bricolageに用いられる要素も同じくふらつく。
少々分かりにくいのはこの文の前段を引用しなかったからで、そこでは石煉瓦窓枠などのelementsはそれらが入手できたから用いるのであって、使えるなら何でも、使いにくくてもはめ込むという精神で作業する。するとこれらの材質は、その状態と用途に必要な規格との間で、すなわち、あるべき位置には置かれないけれど、何とか使えるから用いる。こうした状況を説明している。これをして「知覚...」と「考察...」と説明している。
さらにそれと魔術思考を重ね合わせたのだ。
魔術考察における「ふらつき」とは何かを申さねばならぬ。それこそ妙薬「クマのクソ」を巡る知覚=単なるクソ、と考察=頭痛の快癒、ここに信じようとも、ある意味では距離感を持たざるを得ない実態と言おう(苦しいけれど他に思いつかない)
bricolageと民芸運動の差は、片方はできあがりの形態を明確に持たない。もう一方はそれを持ち、作業道具を規格にあわせ管理している。
民芸運動とは古くの「寄せ集め作品」を近代手順で再現したものと言い切れるだろうか。写真は柳宗悦の作品。
染織(紬織り)で人間国宝の栄を受けた志村ふくみ氏(写真は同氏作品)は若かりし頃、民芸運動に参加した。しかし彼女が目指す方向は「bricolageに似せる」とはあわず、柳氏と決別した(新聞掲載の回顧録から)
2の作品を見比べ、両者の方向性の違いは理解できる。しかるに志村氏の作品にも幾分かの「崩れ」は窺えるのだが。前回掲載した日光陽明門にしても崩れ、奇抜、奇怪などは当てはまる。近代にして我々は、新石器革命以前bricolageの記憶にうなされているのか。
ここでの主張は
1 Bricolageの方法論とは要素(部材)の規格に拘泥しない。要素の本質(材質そのもの)を重視し属性(規格)を軽視する。前投稿で説明したモノの形態に拘泥する具体科学と思察の進め方は共通する。またそれは魔術とも共通する。いずれも属性を軽視し本質を最重要視する考え方でsる。
本質と属性の語を使った理由は、この後にすぐソシュール言語学の「構造」を取り込む仕掛けを入れているから。
ソシュールの意味論に入ろう。
前記のperceptsとconcepts「知覚...」と「考察...」は意味論のsignifieとsignifiantに相当します。小筆は幾度か解説を挙げているがここでもう一度。
Percepts=signifie(ソシュールの言う意味されるモノ), 知覚できる(モノ)はイヌに例えればそこらをうろつく、見えているイヌです。
Concepts=signifiant(同 意味するモノ)頭にあり言葉としてイヌを発音せしめる考察です。
>Il serait impossible d’extraire les premiers (percepts) de la situation concrete ou ils sont apparus , tandis que le recours aux seconds (concepts)exigerait que la pensee puisse mettre ses projets entre parentheses< (32頁) ( )は訳者。
この文は寄せ集め者の思考と行動を説いています。目の前にできあがった作品とそれを作らさしむに至った頭の中(設計図かも知れない)の関係を、ソシュール言語学の「意味する」、「意味される」の対峙を用いて解説する。( )は訳者。
訳;感じられるモノをそれが顕れている具体状況から引き抜く(Chevalの城で見ると、無造作に積まれる煉瓦や石の意味あい)は不可能かも知れない。さらには考察していたなにがしかを突き詰める作業とは、思想(設計図的なモノ)がそれらの考察を括弧内に置く(何を作るのを明瞭にさせる)事につながり、これも労を要する。
前出>(魔術は)「知覚されるモノ」と「考察されるモノ」の間をふらつくと同じく、bricolageに用いられる要素も同じくふらつく<この考え方を言語学意味論を用いて説明している。
何故意味論を持ち出したかは、思察の進め方を一般的に、思弁的に進めるためと考える(レヴィストロースは哲学者なので)
劇的な一文が続きます;
>Or, un intermediaire existe entre l’image et le concept : c’est le signe , puisequ’ on peut toujours le définir , de la façon inauguree par Saussure a propos de cette categorie particuliaire que forment les signes linguistiques , comme un lien entre image et le concept , qui, dans l’union ainsi realisee, jouent respectivement les roles de signifiant et de signifie.(32頁)
訳 ; さよう、イメージと考察の間には何者かが仲介している、それが「意味」である。この特別な範疇(bricolageの作品と設計図)、それはイメージと考察との関係であるが、それを意味する、意味されるの、ソシュールが先鞭を付けた言語学意味論の手法でもって、解析できる。
この後、寄せ集め作業者の製作姿勢、思考の描写が入る。貧弱な道具体系、手に入る素材を何でも使うの制約から作品がhetereclite奇抜、不規則になってしまう。この製作過程の跛行性をして寄せ集め従事者の頭には意味論の破綻が生じている。続く