レヴィストロース神話学の第一作は「Le Crue et le Cuit」(生と調理)、出版は1963年、400頁に渡る力作です。体裁として全体を音楽作品の形式で楽章に分けています。書き出しを序章とせず序曲(Ouvertureオーバーチャー)とした事は前投稿(レビストロース神話学を読む 生と調理シリーズ9月13日~27日)触れました。続く本文は「主題と変奏、ボロロ族の歌、ジェ語族の変奏」「良き振る舞いのソナタ」「五声のフーガ」「天空の平均律」「田園交響曲」などと続きます。
文字で表す論文を楽曲に配列する訳を尊師はかく述べています;
<La coupe en chapitres ne faisait pas seulement violence au movement de la pensee; elle l’appauvrissait et la mutilait…>
訳:その流れを章ごとに分ける従来のやり方は、思考に対する暴虐でしかない。思考を貧弱にして分断するだけ(同作品22頁)。
なるほど、生と調理は「Du miel aux cendres=蜜から灰へ」に引き継がれ、投稿子(ハガミ)は拾い読みを始めていますが、突然、検索番号12の神話では…などと引用先が出現します。その番号は400頁前、前作の生と調理に掲載されているのですが、投稿子は何も思い出せません。論文ながらこのように連綿として、突然かなりの前と繋がる。これを「音楽的」と伝えているのかも知れません。
さらには、表現の方法論で2者の似通う様を以下に分析しています。
写真の解説:レビストロースはワグナーを構造神話学の祖として敬意を表していた(本文30頁)。それならワシもと全集をアマゾンで購入、2枚3枚と聞き入った。実はワシはガキの昔からワグナーなんて聞かなかった。コレガ構造主義ダゾーと自己暗示をかけても好きになれない。付和雷同、己のミーハー振りに悲しむけれど、CD一枚が100円程度なので涙の垂れるは抑えられた(カラヤン、セルも入って40枚の全集)。
その1 神話では感性的言い回しを通して観念的理解に結びつけている。例えば「生と調理」において生とは臭み、腐敗など感覚と結び、非文明、未開の象徴として扱っている。生を、思いがけない豊饒と過食、そして飢餓、道徳の瀰漫(近親相姦、親殺し)など、悪しき風潮と=観念化=している。実は音楽もそれと同じ表現の形式であるとしている。
この辺りを解説すると(本書の別頁で彼は)音楽の表現は「metaphore=暗喩」を基盤としている。この比喩の形式は「metonymie=換喩」と対立している。換喩は実体で概念(あるいは思考)を言い表す。例えば黄色という思考を説明するに「ミカン」を上げる。置き換え法と言っても良いだろう。
一方、暗喩法は概念が実体を表す。いわば仄めかしか。
<on pourrait dire que la musique reconnait aux sons des proprieties physiques>
訳:音楽は音を通して実体proprietes=特性=を表現している(30頁)
例としてレヴィストロースは<Les sanglot longs des violins de l’automne…>(ベルレーヌの詩、上田敏訳の「秋の日のビオロンの溜息の...」で有名)を挙げる。音は暗喩であるを踏まえてその連なりの「概念」が哀しみを仄めかす作用を詩にししたためたと引用している。
(投稿子の注:上田訳は「ひたぶるにうら悲し」で締める。直接表現の「悲しい」であるから仄めかしはないーとの反論が聞こえる。原文のlangueurを「悲しみ」としたのだろうが、文面ではlangueurはバイオリンの音を形容している。辞書robertで調べるとmanque d’activite衰弱とある。バイオリンの音が減衰しながら心に響くとの意味で、心が悲しいとの直接形容は原文にない。秋、日、心などと重なる換喩=換喩は多く繰り返される=に続いて、バイオリン擦れ「音」を効果的な隠喩にはめた技巧の詩であると尊師は取り上げた)
神話も概念を使い実体を暗喩しているとレヴィストロースは主張する。
しかしながらこの論は、前述した「感性的言い回しを通して観念的理解」と矛盾していると感じるのは投稿子だけではないだろう。しかし、このひねくり回し加減が彼一流の修辞法であり、深く(無理矢理に)考えて行くと、やはり神話では「概念が実体」を仄めかしているのだと気付く。神話での隠喩の例は後に回す。
その2 時間の進行とばらつき。
訳;表現は直線的に進行するわけでないし、文節が互いに前後の関係でつながる事でもない(22頁)。
これが神話と音楽に共通の時間の取り方だという。
音楽では主題メロディが思わぬ展開で再出現することに驚く。そのメロディも分断され一部のみが顔をだし、それでも主題の一部かなと聞き分けられる。続く筈の旋律を待つうちに、リズムが変わり、時には調を変化して、待ち望む残りが出てくる。このように音楽の、自在な時間の取り方を語っていると理解する。神話、特に口承の語り話しでは、登場する人物、動物、天変などが自由に変化して、しかしそれらにまとわる属性は(proprietes)変わらずに出現する。文章の如く、文節が前から後ろへ意味を送り渡す、経時として引きつながることはない。
3 言い切り方(articulation)3段階の相似
神話の構造とは
1神話要素(人物動物など)登場する個性
2シーケンス(sequence)、舞台の一幕
3骨格(armature)と3段の構成 (前回の構造神話学シリーズで述べた)
音楽の表現とは 1音素 2旋律、ハーモニー 3曲 で構成され、神話と同じく3段階がコードで分解できる(1は調と拍、2では音素の軌跡と時間の流れ 3は全体の主張)
神話と音楽の了(次回は本文のボロロ族の歌に入ります、10月13日予定)
文字で表す論文を楽曲に配列する訳を尊師はかく述べています;
<La coupe en chapitres ne faisait pas seulement violence au movement de la pensee; elle l’appauvrissait et la mutilait…>
訳:その流れを章ごとに分ける従来のやり方は、思考に対する暴虐でしかない。思考を貧弱にして分断するだけ(同作品22頁)。
なるほど、生と調理は「Du miel aux cendres=蜜から灰へ」に引き継がれ、投稿子(ハガミ)は拾い読みを始めていますが、突然、検索番号12の神話では…などと引用先が出現します。その番号は400頁前、前作の生と調理に掲載されているのですが、投稿子は何も思い出せません。論文ながらこのように連綿として、突然かなりの前と繋がる。これを「音楽的」と伝えているのかも知れません。
さらには、表現の方法論で2者の似通う様を以下に分析しています。
写真の解説:レビストロースはワグナーを構造神話学の祖として敬意を表していた(本文30頁)。それならワシもと全集をアマゾンで購入、2枚3枚と聞き入った。実はワシはガキの昔からワグナーなんて聞かなかった。コレガ構造主義ダゾーと自己暗示をかけても好きになれない。付和雷同、己のミーハー振りに悲しむけれど、CD一枚が100円程度なので涙の垂れるは抑えられた(カラヤン、セルも入って40枚の全集)。
その1 神話では感性的言い回しを通して観念的理解に結びつけている。例えば「生と調理」において生とは臭み、腐敗など感覚と結び、非文明、未開の象徴として扱っている。生を、思いがけない豊饒と過食、そして飢餓、道徳の瀰漫(近親相姦、親殺し)など、悪しき風潮と=観念化=している。実は音楽もそれと同じ表現の形式であるとしている。
この辺りを解説すると(本書の別頁で彼は)音楽の表現は「metaphore=暗喩」を基盤としている。この比喩の形式は「metonymie=換喩」と対立している。換喩は実体で概念(あるいは思考)を言い表す。例えば黄色という思考を説明するに「ミカン」を上げる。置き換え法と言っても良いだろう。
一方、暗喩法は概念が実体を表す。いわば仄めかしか。
<on pourrait dire que la musique reconnait aux sons des proprieties physiques>
訳:音楽は音を通して実体proprietes=特性=を表現している(30頁)
例としてレヴィストロースは<Les sanglot longs des violins de l’automne…>(ベルレーヌの詩、上田敏訳の「秋の日のビオロンの溜息の...」で有名)を挙げる。音は暗喩であるを踏まえてその連なりの「概念」が哀しみを仄めかす作用を詩にししたためたと引用している。
(投稿子の注:上田訳は「ひたぶるにうら悲し」で締める。直接表現の「悲しい」であるから仄めかしはないーとの反論が聞こえる。原文のlangueurを「悲しみ」としたのだろうが、文面ではlangueurはバイオリンの音を形容している。辞書robertで調べるとmanque d’activite衰弱とある。バイオリンの音が減衰しながら心に響くとの意味で、心が悲しいとの直接形容は原文にない。秋、日、心などと重なる換喩=換喩は多く繰り返される=に続いて、バイオリン擦れ「音」を効果的な隠喩にはめた技巧の詩であると尊師は取り上げた)
神話も概念を使い実体を暗喩しているとレヴィストロースは主張する。
しかしながらこの論は、前述した「感性的言い回しを通して観念的理解」と矛盾していると感じるのは投稿子だけではないだろう。しかし、このひねくり回し加減が彼一流の修辞法であり、深く(無理矢理に)考えて行くと、やはり神話では「概念が実体」を仄めかしているのだと気付く。神話での隠喩の例は後に回す。
その2 時間の進行とばらつき。
訳;表現は直線的に進行するわけでないし、文節が互いに前後の関係でつながる事でもない(22頁)。
これが神話と音楽に共通の時間の取り方だという。
音楽では主題メロディが思わぬ展開で再出現することに驚く。そのメロディも分断され一部のみが顔をだし、それでも主題の一部かなと聞き分けられる。続く筈の旋律を待つうちに、リズムが変わり、時には調を変化して、待ち望む残りが出てくる。このように音楽の、自在な時間の取り方を語っていると理解する。神話、特に口承の語り話しでは、登場する人物、動物、天変などが自由に変化して、しかしそれらにまとわる属性は(proprietes)変わらずに出現する。文章の如く、文節が前から後ろへ意味を送り渡す、経時として引きつながることはない。
3 言い切り方(articulation)3段階の相似
神話の構造とは
1神話要素(人物動物など)登場する個性
2シーケンス(sequence)、舞台の一幕
3骨格(armature)と3段の構成 (前回の構造神話学シリーズで述べた)
音楽の表現とは 1音素 2旋律、ハーモニー 3曲 で構成され、神話と同じく3段階がコードで分解できる(1は調と拍、2では音素の軌跡と時間の流れ 3は全体の主張)
神話と音楽の了(次回は本文のボロロ族の歌に入ります、10月13日予定)
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