蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 上

2024年11月14日 | 小説
前文:本稿はYoutubeに動画投稿されているヘーゲル「精神現象学」の最終節にあたり、近々にも動画化する予定です。実はこの部分は本年9月14日にGooblog投稿されています。その後、動画化での読み返しで、初稿の至らない内容が気になって、かなり変えた。書き直しは 1悟性、知、それらの内部に概念と真理の拮抗、すなわち弁証法が発動する 2すなわち基準と概念のすり合わせの弁証法(これが精神現象)の前に、精神内部でソト世界を見つめてソトと内の弁証法が拮抗する 3悟性がモノ世界の真理を見極める「一つの何か」を所有し、それを決定力déterminabilitéとする。これをしてモノ世界の真理を精神が掴み、ヒトが絶対値を修得するーなどです。このあたりが本書の肝心カナメ、(初稿は)そこが弱かった。ほとんどの書き換えとなり改定版としてGooblog再投稿を決めました。

ヘーゲルのYoutube動画はこれまで6幕投稿しています、それらはBlogとの内容差異はありませんので、楽しんでください。最近の動画(4_2モノは精神を宿し個がそれを経験する)のリンクを貼ります
https://youtu.be/4qlu27dSuHU
ホームサイト内のそのページリンクは https://tribesman.net/Hegel4_2.html 
部族民通信の哲学ページはhttps://tribesman.net/philo.html  動画(サイト内でのリンク)PDF資料に接近できます。

ヘーゲル先生「ヒトの思考は現象にすぎない。実質、真理はモノ世界にあるので、ヒトは真理に到達できない。しかし儂の理論を理解して、持ち前の決定力を実践すれば、かなり近くまで到達できる。決定力の無いヒト、俗には頭悪い、は絶対に近づけない」


改訂版本文(2024年11月14日、前回ブログ投稿9月14日) « ces deux présentations coïncident ; mais l'essentiel est de retenir fermement pendant toute la recherche ce fait que les deux moments, concept et objet, être-pour-un-autre et être-en-soi, tombent eux-mêmes à l'intérieur du savoir que nous étudions, et donc que nous n'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche ; c'est, au contraire, en les écartant que nous aboutirons à considérer la chose comme elle est en soi et pour soi-même » (74頁)
2の表現(モノは概念を含むか、概念は精神作用か=前回4_2)は実は一致する。基本は、これら調査において両の節目moment、その一は概念と対象、別の一つは他者に向く存在と律自の存在の、いずれもがここで取り組むとする「知る活動」に紛れ込んでいる事情を、理性 (我々)は心しておく。その意味するところは、理性は検査の場に己の基準も、個人思考をも持ち込む余地はない。なすべきはその反対で、それら(理性の基準、思考など)を検査から引き離すことでモノの律自性及び覚自性(実質)の理解に近づく。

Hyppolite:Le savoir phénoménal ayant en lui l'opposition du sujet et de l'objet, de la certitude et de la vérité, peut procéder lui-même à son propre examen, et cet examen se nomme expérience. On notera la réversibilité des termes de l'opposition.
現象の知は主体と対象、すなわち蓋然性certitudeと真理の向き合いを抱えている。よって自身内部で知としての本来の検査を遂行できる。この検査を経験(弁証法)と言う。上記対立(主体と対象)は裏表逆立も想定される。これを私は注目したい。
部族民:引用文で留意する2点。1は節目においての調査に1(概念と対象)と2他者に向く…のいずれもが融和して「紛れ込む」。もう一点が「知る活動=拙訳」の実態。Hyppoliteはを現象の知と明確にしている。その正体を「certitude蓋然」と定義する。
実質を現象化する過程の「不確実さ」、正しいかもしれないが間違いもあり得る、を意味する。さらには主体客体の逆立もあると指摘する。現象の知がモノ真理の対象になってしまう、なぜなら概念を具有するのはモノであるから。知る活動の振幅乱れの実態を表している。
2点目: « tombent eux-mêmes à l'intérieur du savoir » 知る活動に紛れ込む、この句こそヘーゲル思想の転換点を暗示する。これまでの説明では、精神活動は現象の野(認識connaissance)で展開する、しかし知と悟性の内部に対立が入り込む(落ち込む)、これは両の内部に弁証法機構が備わり、モノ真理に向かう進展が生ずると言っている。結果は「理性には弁証活動に入り込む余地はない」につながる(後文で詳述)。
悟性の分析 « la conscience est d'un côté conscience de l'objet, d'un autre côté conscience de soi-même : elle est conscience de ce qui lui est le vrai et conscience de son savoir de cette vérité. Puisque tous les deux sont pour elle, elle est elle-même leur comparaison » (74頁)

悟性の一側面は対象(モノ)に向く悟性であり、もう一方の側面は己を知る悟性である。言い換えると己にとっての真実の悟性であり、真実を知ろうとする自身の知の悟性である。二通りの(悟性のあり方)は悟性のためであり、悟性はその2通りを比較する自身である。
部族民:前文の知内部の2面性(蓋然性と真理=Hyppolite)と同様の2面性を悟性にも向ける。悟性はモノを見つめる(対象の悟性、上訳文)、内なる精神作用から真理を探る悟性。前者はモノ世界を探る。後者は現象の野に活動する(de ce qui lui est le vraiは現象内部での活動、de son savoir de cette vérité がモノ世界に目を向ける悟性)。対立し逆立も有りうる悟性、弁証法が精神内部にせめぐ。


« Quand la conscience trouve donc dans son objet que son savoir ne correspond pas à cet objet, l'objet non plus ne résiste pas ; ou la mesure de l'examen se change si ce dont elle devait être la mesure ne subsiste pas au cours de l 'examen ; et l'examen n 'est pas seulement un examen du savoir, mais aussi un examen de son unité de mesure* » (75頁)
悟性が対象を検分して(彼が知る)知とこの対象が一致しない、対象もその事実に抗わないとする。それはその検査に持ち出した基準が、検査流れにおいてもはや立場を失しなっている、あるいはこの検査は知の検査ではなく、基準の一体(摺り合わせから判断まで)の見直しにつながる。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 上の了(11月14日)

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