「接点 ふたりの科学者・・」
ふたりとは、「寺田寅彦」「仁科芳雄」のことです。
そして、もう一つ、この「くだまき」のカテゴリーが「東日本大震災」となっております。
しかも、今は「鈴木梅太郎」の話を語っております。
「どうして?」
そう思われる方が多いかと思います。
日本の地震学の祖は、東大理学部にございます。
「震災予防調査会」は、大森房吉が濃尾地震をきっかけに作っております。(明治25年。1891年)
地震の研究は寺田も行っており、それを竹内均が受け継いでいる流れがございます。
そして、もう一つ。原子力の研究は「ニ号研」として、「原爆開発」から発展している史実がございます。
酔漢は、どうしても、科学者達が、どのように哲学をし、未来を予測しえたか。そこが気になったのでした。
一度語ってはおりますが、もう少しばかり掘り下げて見るのもよかろう。こう考えました。
鈴木梅太郎の「くだまき」は、理研を調べていた際、その理研を支えた功労者としての位置づけです。
鈴木梅太郎の実績がなければ、理研の財団としての存在はなく、仁科の研究もあり得なかったのです。
一つの器として理研を捉えたならば、鈴木の研究成果は、日本の原爆開発に関わっていた。
こう考えてもよろしいかと思いました。
さて、今一度、この天才的農芸学者であり、(調べているうちにどうしてもちゃかした表現を使いたくなるような・・・)多くの日本人を救った鈴木梅太郎を語ります。
「おひるは麦飯らいすかれぇぇぇ」海軍ラッパに兵が詩をつけたものです。
横須賀海軍カレーは有名ですが、カレーには麦飯と海軍では相場が決まっておりました。
これには、科学的根拠がございましたことは、案外知られておりません。
長い航海に出ますと、それが白米中心の食事であれば、脚気になることは必至でございました。
明治時代、各国の海軍兵士が脚気にかかり命を落とすことは多くあった訳です。
お酒のところでも語りましたが、麦を胚芽のまま食すると、脚気にかかりにくい。イギリス海軍の知恵です。
イギリスでは、二条大麦など、麦を多く食する習慣がございます。
ですから、日本海軍は、それにならい、白米と麦を混ぜたごはんを主としておったわけです。
「こうすることによって、脚気にはかかりにくい」
科学的実証はまだ先の事なのですが、生活の知恵でもってこうした食事療法が取られたわけです。
顧みれば、蛋白質、脂肪、炭水化合物、これにカルシウム、燐、鉄、沃度等の無機成分を加えた栄養素を以て動物は完全に発育するものと考へられてゐた時代は相當長かった。
しかも、この點(点)に疑問を挿むものは一人もなかったのである。
私は以上の四成分のみでは動物は生命を保ち得ないことを證明(証明)し、微量にして生命を支配する何物かの存在を提唱し、その神秘の成分の一つが米糠中に含有さるることを見出し、これを抽出分析して「オリザニン」(ヴィタミンB) と命名し、明治四十三年の冬、我が學界に發表したのであるが、當時は殆ど顧みられず、越えて大正七、八年頃、謳米の學界に勃興したヴィタミン研究熱は我國にも反響して、我國の學者達も漸く目醒まさせ、今日では誰一人ヴィタミンを除外して榮養論ずるものもなく、また、ヴィタミンを知らずして生命の科學を語るものもない。想へば、全く隔世の感がある。
(鈴木梅太郎手記→「研究の回顧」昭和18年 二月 輝文堂書房→抜粋)
「さぁて!諸君!この中から本物の日本酒と私の作った合成酒と、解りますかな?」
冒頭の写真はまさにこの台詞を言っている「梅ちゃん先生」もとい「梅太郎先生」
理研での彼の研究室は通称「うめ研」で通っております。
「今日は天気がいいですねぇぇ」
「大河内所長!さ!さ所長も是非ご一緒に!今度のは自信がありますぞぉぉ」
「では、さっそく私めが・・・・」
と一人の研究員が、コップを取って口に含みました。
「ウップ!・・・ゲホ!・・・ホ・・・」
隣に居た大河内所長。彼の口を手で塞ぎます。
「呑み込みなさい!ここで吐き出したら、これから先面白くないじゃありませんか!」
ぐっつと呑みこんだ彼。
「しょ!所長!これはまるで・・・ぞうきんバケツの・・・み・・・」
「だから!その先を言っちゃ、面白くないでしょ」と耳元でささやいた所長。
「では、鈴木君。私も・・・ほう!右が合成酒。左が日本酒・・ですな!」
「今日のも解りました・・・か・・・・」鈴木先生、がっかりしている様子です。
「まだまだですぞ!私は食通なのですから!」
「この風景。理研の名物だよな!」
「何十回・・やってるんだ?あの二人は」
藤沢市内に工場を作った大河内所長。「大和醸造」。
合成酒の研究施設でもありました。(現在メルシャン工場内)
食料危機を憂いる鈴木の理論に共感した大河内所長が作った工場でした。
理研の柱を支えることには変わりなかったのです。
これより、前、先の鈴木先生の回顧録に戻ります。
「ですから!こうです!米糠成分はですね。ジアゾ反応を示す物質でありまして。すなわち、パラジアゾベンゾールスルフォン酸溶液を加えると赤色を呈する化合物であり、この反応が示す有効成分は燐、タングステン酸溶液を加えると沈殿する性質があります。(オッホン!)であるからにして、この試薬で沈殿し、かつジアゾ反応を示す物質を脚気の鳩に与えますとですな。微量なりとも、著しい治癒効果があるのデス!(ぞ!)そしてこれは、現存する従来の栄養素ではないのでえす!新栄養成分(ですぞ!)。結論!これを脚気の患者に与えることで。脚気が完全治癒できるのでアリマス(のですぞ!)!!!」
鈴木の自信にあふれる発表。
拍手喝采!を想像しておりましたが・・・・。
「やれやれ、百姓が重大発表と言うから来てみたが、やはり百姓には変わりなかった」(表現、ご容赦)
日本医学会のドン東大「青山教授」からの質問状。
「そんな物質はしょんべんにもある。しょんべん呑めば脚気がなおるのか?」
「いわしの頭も信心から」と評する医学関係者もいる程。
「百姓の薬」鈴木の作った「オリザニン」はこうも言われます。
三共製薬から発売されておりますが、現場では使われることはなかったのです。
「いいや!私は間違ってはいない!高橋君(高橋克己)→ビタミンB結晶を抽出させた農芸学者→研究発表を続けようではないか!」
「先生、動物実験の期間を増やしましょう!」
「島村君!(島村虎猪)うん!頼む!」
島村はそれから二年間、休まず動物試験を続けていきます。
また、鈴木は青山(東京)の農業学校(東京農大の前身)にも教えに行っております。
「いつもの、学生がいないが・・」
「先生、今こちらに向かっていると思います」
なるほど、二人の学生の肩につかまりながら彼は教室へ現れます。
「ど・どうしたんだね!」
「先生、今日は試験でしたね。ですから、無理やり連れてきました」
「脚気・・・・・脚気!なのかね!」
「せ・先生!すみません・・・・今まで・・黙っていて・・・脚気の研究をしている先生の門下で脚気患者が出たら・・」
この事はすぐさま噂となります。「だから!言わんこっちゃない!百姓の作った薬など・・効くわけないんだ!」
その学生は、小田原へ入院いたします。
「先生!オリザニンを!オリザニンを彼に!」
「私もそれが一番いいと思うが・・その主治医が許可しないんだ」
そんな日々の後、一通の電報が届きます。
「キトク」
オリザニンを二瓶鞄に入れた鈴木先生。
小田原へ向かいます。
病室へ。
「先生!お・・・り・・ざ・・・」最後の体力を絞って口にする彼。
「でも、ここの先生が・・・」決心のつかない鈴木梅太郎。
そこに同行した学生が。
「先生!人で試したことないんでしょ!どうせ奴が死ぬんなら、ここで彼にオリザニンを!」
その学生は、鈴木からオリザニンの瓶を取り返すと、薬缶の水と一緒に彼の口へ流し込みました。
「君!もし効かなかったら・・・」
「そんなの明後日には解ります」
三日後・・・・・再び同病院。
「先生!大変です」病院長が慌てたように走ってきました。
「先生彼が・・・・」
「やはり!」
急いで病室のドアを開けると・・・。
「先生!ほらこんなに!」と三日前危篤状態だったその学生が立っているではありませんか!
「オリザニン!先生!これは特効薬になります」
もう一つ、私の郷里の学生が脚気になったので、国に帰る為に出発した処、汽車の中で衝心して、やむなく途中で下車し、小田原の病院へ入ったが、危篤だから直ぐ来いといふ電報を、私の隣家の知人の許に寄越した。そのとき私は「オリザニン」を二瓶持たせて、院長を相談の上、服用させてくれと頼んだ。ところが、二、三日ですっかり軽快し、一週間ばかりで国へ帰った。患者の方では、意外の効果に驚いたといって、感謝の手紙を寄越したが、院長は私の与えた薬が効いたとは言わなかったようだ(中略)そんな報告は、沢山集めていったが、自分が患者でないから、発表することは出来なかった。(鈴木梅太郎 回顧録より抜粋)
海軍の麦飯の話は先の通りです。陸軍は、これは森鴎外の助言でもあったようなのですが、白米中心の食事を変えずにおります。
北里柴三郎と森鴎外が犬猿の仲であることは有名ですが、このオリザニンも一つの原因なのでした。(まだ発見前ですし、鈴木がビタミン研究の動機となる出来事として表しました)
森は「白米の持つカロリーを優先させるべき」とし、麦飯を与える事を否定しておりました。海軍と陸軍ですから、これも犬猿の仲。
ですから、海軍兵は陸軍兵より脚気患者が少ない事実はあるのです。
北里は、「脚気は感染による」という東大の発表をドイツから否定する論文を掲載いたします。
北里が横浜へ到着したとき、誰一人として迎えに来なかったのは「師の論文を否定した」という東大医学部の圧力からだったわけです。
森をして「師の志を不意にした愚弟」とそしられます。
この因縁が例の「伝研騒動」に発展も致します。
現在からは「つまらない」動機とも思えます。
このビタミン発見は、この鈴木の発表から遅れること1912年になります。
「オリザニン」という本来ならばビタミン発見に相当する成果は、東洋であること、そして医学会からの協力を全く得られなかった不遇も重なり、歴史上からは光が当たっておりません。
元祖「梅ちゃん先生」は、ノーベル賞をいち早く頂くべきその実力も持っておるわけです。
「所長!合成酒にも名前を付けようかと、思いましてな!いい名が出来ましたぞ!」
「ほう、鈴木君!であるからして・・・どんな名前を付けたんだね?」
「オッホン!自身作ですぞ所長!」と、丸めた半紙を広げる鈴木先生。
「これです!」大河内所長の前に突き出しました。
「『利久』です・・・・かな?」
「そうその通り!りきゅうです!」
「ほう!どうして・・どこからつけたんだね?」
「そりゃ、酒ですからな。リキュール。りきゅう。利久としましてな・・・・」
(ネーミングが良ければ・・・・・)「オリザニン」のネーミングを思い出して、吹き出しそうになった大河内所長です。
「所長!何をにやけて・・・・」
「いい名ではないですか!これで行きましょう!」
理研内。鈴木が得意としている(と、本人が言っているだけの?)ビリヤード場の中。
二人の打つ球が台の上で、はじけておりました。
ふたりとは、「寺田寅彦」「仁科芳雄」のことです。
そして、もう一つ、この「くだまき」のカテゴリーが「東日本大震災」となっております。
しかも、今は「鈴木梅太郎」の話を語っております。
「どうして?」
そう思われる方が多いかと思います。
日本の地震学の祖は、東大理学部にございます。
「震災予防調査会」は、大森房吉が濃尾地震をきっかけに作っております。(明治25年。1891年)
地震の研究は寺田も行っており、それを竹内均が受け継いでいる流れがございます。
そして、もう一つ。原子力の研究は「ニ号研」として、「原爆開発」から発展している史実がございます。
酔漢は、どうしても、科学者達が、どのように哲学をし、未来を予測しえたか。そこが気になったのでした。
一度語ってはおりますが、もう少しばかり掘り下げて見るのもよかろう。こう考えました。
鈴木梅太郎の「くだまき」は、理研を調べていた際、その理研を支えた功労者としての位置づけです。
鈴木梅太郎の実績がなければ、理研の財団としての存在はなく、仁科の研究もあり得なかったのです。
一つの器として理研を捉えたならば、鈴木の研究成果は、日本の原爆開発に関わっていた。
こう考えてもよろしいかと思いました。
さて、今一度、この天才的農芸学者であり、(調べているうちにどうしてもちゃかした表現を使いたくなるような・・・)多くの日本人を救った鈴木梅太郎を語ります。
「おひるは麦飯らいすかれぇぇぇ」海軍ラッパに兵が詩をつけたものです。
横須賀海軍カレーは有名ですが、カレーには麦飯と海軍では相場が決まっておりました。
これには、科学的根拠がございましたことは、案外知られておりません。
長い航海に出ますと、それが白米中心の食事であれば、脚気になることは必至でございました。
明治時代、各国の海軍兵士が脚気にかかり命を落とすことは多くあった訳です。
お酒のところでも語りましたが、麦を胚芽のまま食すると、脚気にかかりにくい。イギリス海軍の知恵です。
イギリスでは、二条大麦など、麦を多く食する習慣がございます。
ですから、日本海軍は、それにならい、白米と麦を混ぜたごはんを主としておったわけです。
「こうすることによって、脚気にはかかりにくい」
科学的実証はまだ先の事なのですが、生活の知恵でもってこうした食事療法が取られたわけです。
顧みれば、蛋白質、脂肪、炭水化合物、これにカルシウム、燐、鉄、沃度等の無機成分を加えた栄養素を以て動物は完全に発育するものと考へられてゐた時代は相當長かった。
しかも、この點(点)に疑問を挿むものは一人もなかったのである。
私は以上の四成分のみでは動物は生命を保ち得ないことを證明(証明)し、微量にして生命を支配する何物かの存在を提唱し、その神秘の成分の一つが米糠中に含有さるることを見出し、これを抽出分析して「オリザニン」(ヴィタミンB) と命名し、明治四十三年の冬、我が學界に發表したのであるが、當時は殆ど顧みられず、越えて大正七、八年頃、謳米の學界に勃興したヴィタミン研究熱は我國にも反響して、我國の學者達も漸く目醒まさせ、今日では誰一人ヴィタミンを除外して榮養論ずるものもなく、また、ヴィタミンを知らずして生命の科學を語るものもない。想へば、全く隔世の感がある。
(鈴木梅太郎手記→「研究の回顧」昭和18年 二月 輝文堂書房→抜粋)
「さぁて!諸君!この中から本物の日本酒と私の作った合成酒と、解りますかな?」
冒頭の写真はまさにこの台詞を言っている「梅ちゃん先生」もとい「梅太郎先生」
理研での彼の研究室は通称「うめ研」で通っております。
「今日は天気がいいですねぇぇ」
「大河内所長!さ!さ所長も是非ご一緒に!今度のは自信がありますぞぉぉ」
「では、さっそく私めが・・・・」
と一人の研究員が、コップを取って口に含みました。
「ウップ!・・・ゲホ!・・・ホ・・・」
隣に居た大河内所長。彼の口を手で塞ぎます。
「呑み込みなさい!ここで吐き出したら、これから先面白くないじゃありませんか!」
ぐっつと呑みこんだ彼。
「しょ!所長!これはまるで・・・ぞうきんバケツの・・・み・・・」
「だから!その先を言っちゃ、面白くないでしょ」と耳元でささやいた所長。
「では、鈴木君。私も・・・ほう!右が合成酒。左が日本酒・・ですな!」
「今日のも解りました・・・か・・・・」鈴木先生、がっかりしている様子です。
「まだまだですぞ!私は食通なのですから!」
「この風景。理研の名物だよな!」
「何十回・・やってるんだ?あの二人は」
藤沢市内に工場を作った大河内所長。「大和醸造」。
合成酒の研究施設でもありました。(現在メルシャン工場内)
食料危機を憂いる鈴木の理論に共感した大河内所長が作った工場でした。
理研の柱を支えることには変わりなかったのです。
これより、前、先の鈴木先生の回顧録に戻ります。
「ですから!こうです!米糠成分はですね。ジアゾ反応を示す物質でありまして。すなわち、パラジアゾベンゾールスルフォン酸溶液を加えると赤色を呈する化合物であり、この反応が示す有効成分は燐、タングステン酸溶液を加えると沈殿する性質があります。(オッホン!)であるからにして、この試薬で沈殿し、かつジアゾ反応を示す物質を脚気の鳩に与えますとですな。微量なりとも、著しい治癒効果があるのデス!(ぞ!)そしてこれは、現存する従来の栄養素ではないのでえす!新栄養成分(ですぞ!)。結論!これを脚気の患者に与えることで。脚気が完全治癒できるのでアリマス(のですぞ!)!!!」
鈴木の自信にあふれる発表。
拍手喝采!を想像しておりましたが・・・・。
「やれやれ、百姓が重大発表と言うから来てみたが、やはり百姓には変わりなかった」(表現、ご容赦)
日本医学会のドン東大「青山教授」からの質問状。
「そんな物質はしょんべんにもある。しょんべん呑めば脚気がなおるのか?」
「いわしの頭も信心から」と評する医学関係者もいる程。
「百姓の薬」鈴木の作った「オリザニン」はこうも言われます。
三共製薬から発売されておりますが、現場では使われることはなかったのです。
「いいや!私は間違ってはいない!高橋君(高橋克己)→ビタミンB結晶を抽出させた農芸学者→研究発表を続けようではないか!」
「先生、動物実験の期間を増やしましょう!」
「島村君!(島村虎猪)うん!頼む!」
島村はそれから二年間、休まず動物試験を続けていきます。
また、鈴木は青山(東京)の農業学校(東京農大の前身)にも教えに行っております。
「いつもの、学生がいないが・・」
「先生、今こちらに向かっていると思います」
なるほど、二人の学生の肩につかまりながら彼は教室へ現れます。
「ど・どうしたんだね!」
「先生、今日は試験でしたね。ですから、無理やり連れてきました」
「脚気・・・・・脚気!なのかね!」
「せ・先生!すみません・・・・今まで・・黙っていて・・・脚気の研究をしている先生の門下で脚気患者が出たら・・」
この事はすぐさま噂となります。「だから!言わんこっちゃない!百姓の作った薬など・・効くわけないんだ!」
その学生は、小田原へ入院いたします。
「先生!オリザニンを!オリザニンを彼に!」
「私もそれが一番いいと思うが・・その主治医が許可しないんだ」
そんな日々の後、一通の電報が届きます。
「キトク」
オリザニンを二瓶鞄に入れた鈴木先生。
小田原へ向かいます。
病室へ。
「先生!お・・・り・・ざ・・・」最後の体力を絞って口にする彼。
「でも、ここの先生が・・・」決心のつかない鈴木梅太郎。
そこに同行した学生が。
「先生!人で試したことないんでしょ!どうせ奴が死ぬんなら、ここで彼にオリザニンを!」
その学生は、鈴木からオリザニンの瓶を取り返すと、薬缶の水と一緒に彼の口へ流し込みました。
「君!もし効かなかったら・・・」
「そんなの明後日には解ります」
三日後・・・・・再び同病院。
「先生!大変です」病院長が慌てたように走ってきました。
「先生彼が・・・・」
「やはり!」
急いで病室のドアを開けると・・・。
「先生!ほらこんなに!」と三日前危篤状態だったその学生が立っているではありませんか!
「オリザニン!先生!これは特効薬になります」
もう一つ、私の郷里の学生が脚気になったので、国に帰る為に出発した処、汽車の中で衝心して、やむなく途中で下車し、小田原の病院へ入ったが、危篤だから直ぐ来いといふ電報を、私の隣家の知人の許に寄越した。そのとき私は「オリザニン」を二瓶持たせて、院長を相談の上、服用させてくれと頼んだ。ところが、二、三日ですっかり軽快し、一週間ばかりで国へ帰った。患者の方では、意外の効果に驚いたといって、感謝の手紙を寄越したが、院長は私の与えた薬が効いたとは言わなかったようだ(中略)そんな報告は、沢山集めていったが、自分が患者でないから、発表することは出来なかった。(鈴木梅太郎 回顧録より抜粋)
海軍の麦飯の話は先の通りです。陸軍は、これは森鴎外の助言でもあったようなのですが、白米中心の食事を変えずにおります。
北里柴三郎と森鴎外が犬猿の仲であることは有名ですが、このオリザニンも一つの原因なのでした。(まだ発見前ですし、鈴木がビタミン研究の動機となる出来事として表しました)
森は「白米の持つカロリーを優先させるべき」とし、麦飯を与える事を否定しておりました。海軍と陸軍ですから、これも犬猿の仲。
ですから、海軍兵は陸軍兵より脚気患者が少ない事実はあるのです。
北里は、「脚気は感染による」という東大の発表をドイツから否定する論文を掲載いたします。
北里が横浜へ到着したとき、誰一人として迎えに来なかったのは「師の論文を否定した」という東大医学部の圧力からだったわけです。
森をして「師の志を不意にした愚弟」とそしられます。
この因縁が例の「伝研騒動」に発展も致します。
現在からは「つまらない」動機とも思えます。
このビタミン発見は、この鈴木の発表から遅れること1912年になります。
「オリザニン」という本来ならばビタミン発見に相当する成果は、東洋であること、そして医学会からの協力を全く得られなかった不遇も重なり、歴史上からは光が当たっておりません。
元祖「梅ちゃん先生」は、ノーベル賞をいち早く頂くべきその実力も持っておるわけです。
「所長!合成酒にも名前を付けようかと、思いましてな!いい名が出来ましたぞ!」
「ほう、鈴木君!であるからして・・・どんな名前を付けたんだね?」
「オッホン!自身作ですぞ所長!」と、丸めた半紙を広げる鈴木先生。
「これです!」大河内所長の前に突き出しました。
「『利久』です・・・・かな?」
「そうその通り!りきゅうです!」
「ほう!どうして・・どこからつけたんだね?」
「そりゃ、酒ですからな。リキュール。りきゅう。利久としましてな・・・・」
(ネーミングが良ければ・・・・・)「オリザニン」のネーミングを思い出して、吹き出しそうになった大河内所長です。
「所長!何をにやけて・・・・」
「いい名ではないですか!これで行きましょう!」
理研内。鈴木が得意としている(と、本人が言っているだけの?)ビリヤード場の中。
二人の打つ球が台の上で、はじけておりました。
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