酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

山陰から

2011-09-27 08:25:16 | 東日本大震災
以前、「ある友人の手記」という、「くだまき」を語りました。
その友人は、大学演劇部の仲間です。
他にも、「猫写真家」さんも。
ある友人君も猫写真家君も塩竈市の出身です。

僕らが、一緒の時、なくてはならない存在。
「みずま君」は石巻の出身。
今は都内で働いております。
彼から残暑見舞いを頂戴しました。

親類の家は津波で跡形もなく流されてしまいました。
従弟や義理の兄妹の子供たちが、5人亡くなりました。
(中略)
先月も帰省しましたが、石巻の市内の一部では依然、交通信号さえ点いていないところがありました。
いまだに流れる、テレビでの被災地の映像、涙が止まりません。

彼の心中を察し、言葉が出ません。
掛ける言葉を失ったまま、今月、震災から半年を迎えました。

前々回の「くだまき」は「大和を語る」でした。
「大和」は、自分の中では一区切りつけておりました。が、ご遺族でいらっしゃる「野津様」からのコメント。
今、野津実兵曹長の足跡の手がかりを探っております。
野津様は島根県に在住です。
これは、コメントにございましたアドレスから分かったことなのですが、グラフィックデザイナーでいらっしゃいます。
なかなか素晴らしい作品をおつくりになられておいでです。
その、HPを拝見しておりましたところ。
その画面左下。
「津波のバカ」とございます。
さて、「津波?東北ではないはず」と思い、その中身を拝読。
野津様ご自身が、石巻へ出かけている様子が記されておりました。
ここに全文を掲載し、ご紹介したいと思います。


2011年3月11日。その日、私たちは信じられないものを見ました。
それから3ヶ月ほど経った6月5日〜10日まで、島根県社会福祉協議会派遣の
『島根県災害ボランティア隊』に参加し、宮城県 石巻市でボランティア活動を
させていただくという機会を得ました。
その時に見た事、聞いた事を一人でも多くの方々に知っていただきたくて、
このページを作りました。
少し長いですがお時間のある時にでも読んでいただけたら嬉しいです。
東北は遠いですがほんの少しでも思いをはせていただき、
今回の尊い犠牲を無駄にしないためにもこれからの防災に役立てたらと思います。

なお、『津波のバカ』とは、被災家屋の玄関に書かれていた文字です。
この無念は永遠に忘れてはならないと思います。

その(1)
 2011年の6月5〜10日まで、島根県募集の災害ボランティア隊として、宮城県石巻にて作業をさせていただきました。島根県から東北は非常に遠く、なかなか個人でボランティアに行けるところではないので『どうにか現地で力になりたい』と思っていても難しいのですが、ちょうどの機会を得ましたので参加させていただきました。

 石巻まではバスで18時間かかります。道中そこここに残る災害の後に息を飲みつつ、一日目の作業地区である『大街道地区』に着きました。映像では何度も見ているのですが、やはり実寸の被災家屋というものには圧倒されます。あれだけの災害ですので、どこも、生活の痕跡が生々しく残っています。2日目以降にお邪魔した『築山地区』もそうですが、新興住宅地らしく新しい家やハイツが多かったです。

 1日目の作業は、側溝の泥出しです。溝蓋が失われているところなど、ヘドロが固 まっていてバキュームで吸えませんのでその部分を人力で取り除きます。固まったヘドロにスコップを入れたとたんに凄い臭いです。参加するにあたってはその点、相当の覚悟をしていたつもりでしたが、恥ずかしながら一発で戻しそうになりました。得体の知れない小虫が一斉に飛び立ちます。建材(断熱材)とヘドロと水とが反応し、なんか嗅いだことの無い臭いというか、どうやら軽めの有毒ガスが発生しています。

 でも、個人で参加されている方の何人かはノーマスク・ノーゴーグル・Tシャツで黙々と作業をやっていらっしゃる。本当に頭が下がります。昼になり、被災家屋で水道が使えるところを休憩所として提供していただいておりましたのでそこへ移動です。かなり大きなお宅です。でも中はメチャクチャです。周りのお宅も信じられないようなことになっていました。少し周りも歩いてみますが、考えてみたら今自分が歩いている場所というのは、一般人は普通に立ち入り禁止のレベルです。

 自衛隊・警察の方かボランティアの方か分かりませんが、捜索時に発見されたとおぼしき思い出の品(アルバムや子供の命名札、おもちゃなど)が自宅に戻られた時に分かりやすいように置いてあるお宅がいくつかあります。そして、資材置き場に提供していただいているハイツの玄関には『津波のバカ』と書いてありました。さぞかし無念だったと思います。それに心を奮い立たせ、1日目の作業を終えたのでした。

その(2)
 2日目の作業は、築山地区でA様宅のお片付けです。1日目の休憩中、我々の隊長に奥様が『自分の家によその家財が流れ着き、自分達夫婦ではどうしようもないので手伝って欲しい』と言ってこられ、統括より『では島根県さんお手伝いして差し上げたらどうですか』ということになったのです。これもご縁です。ちなみに地図を検索すると分かりますが1日目の作業区域とそう遠くありません。が、この地域は新興の一軒家が多く、目に見える被災家屋数は多い印象を受けました。また、日照の面からと思いますが多くのお宅がリビングと玄関を海の方、つまり住宅の一番広いところが津波が来た方に向かって開口しています。

 ガラスが残ってノコギリみたいになったサッシの残骸が残る縁側から上がらせていただきます。リビングに大きな食器棚(よその)が横たわっています。他はエアコンの室外機、建材などが散乱し、ガラス混じりの土砂が堆積しています。これを大まかに『土砂』『ゴミ』『木(家具と大きい建材)』『金属』『家電』と分けて、道の向かいの空き地に出して行きます。明らかな廃棄物以外はご主人に確認を取りながら片付けていきます。ボランティアとしてはかなり恵まれた環境ですが、人様の生活を1枚1枚はがして覗くような、これはこれで何ともいえない思いです。

 ここのご夫妻には、ご自分が避難所暮らしであるにも関わらず大変良くしていただきました。昼休みには私他2名、海を見に行きたいと言ったらわざわざ石巻港まで車を出してくださいました。(車は被災後お求めになった中古車ですが、元々の車は被災後撮られた写真を拝見しましたが屋根の上に乗っていました。)石巻港もまだ一部警察が封鎖しています。見れたところまでですがまさに『壊滅』状態です。倉庫か工場か、大きな建物の鉄骨に鉄の外板が昆布を干したようにぶら下がっています。製紙工場の廃墟では印刷用の大きな紙のロール、これは直径が人の背丈ほどもあります、がトイレットペーパーの如く散乱していました。商工港から漁港に入ったとたん、海側に突出したバースに無数のトンビやカモメ、同時に車の中に腐った魚の臭いが充満します。作業に帰る道すがら、家の上に家が乗っているのも見ました。

その(3)
 ここで少しA様の話をしておきます。この方は65歳とのことでしたが大柄でまだまだ現役、水産加工会社にお勤めということで全国知名度ワースト1の我が島根県の位置も知っておられたのでしょう、『そんな遠いところからよく来られましたね』と驚いておられました。  A様はいろいろな話をしてくださいましたが、『今回のこと(目の前から住宅街が消える)があるまで自分の家がこんなに港に近いと思わなかった。自分はここに家を構えて10年になるが、ここに決めたのは造成中に古墳が出たからで、古墳が出るなら何百年も津波が無かった証拠だと思って買ったのに』とおっしゃっていました。
 当日、A様は被災地から見て北上川(ここで津波が止まりました)の向こう側で仕事されていました。車で15分ほどのところ、家族の安否を確かめに胸まである水の中、杖で足下を探りながら徒歩で帰るのに1日かかったそうです。東北の3月、雪が降る中のことです。その時、たまたま息子さんがお母さんと一緒にご 在宅で、リビングのサッシが『バリバリ』という音を聞いて2階に避難された直後、ガラスを破って一気に水がなだれ込んで来たそうです。作業のために2階にも上がらせていただきましたが、2階の膝下あたりまで水面の痕跡がありました。道を挟んで真向かいのお宅で助けを求められていましたが、何も出来なかった と言っておられたそうです・・・つまり、我々が瓦礫を捨てたその場所に確かにお宅があり、人が住んでいたということです。

 後に自衛隊が一斉捜索に入りますが、A様宅からは10体、家の後ろからは15体のご遺体が出たそうです。そういうことがこの春先、被災地の日常であったということは実に痛ましいことです。我々もA様宅の後ろの家で見たものに全員が打ちひしがれました。壁面に『◯◯(住所)◯◯(姓名)ここの2階 の部屋で母◯◯(名前と年齢)死んでます 自衛隊の方 警察の方 収容お願いします 3/11 15:00 TEL000-0000-0000』と大書してあり、これに×と「済」と書いてあったのです。(恐らく最初の住所姓名は世帯主、3/11 15:00は被災時刻と思われます)これを書かざるを得なかった方の無念さと、ある意味での冷静さと気遣い、そして粛々と任務を遂行し「済」印を残した当局。そこには厳然たる現実がありました。
 それやこれやで作業は進むうち、A様とご近所の方が挨拶を交わされています。被災後初めての再会なのでしょう、お互いに「ご無事でしたか」と抱き合わんばかりの喜びようです。A様はウチの隊長に『3ヶ月経ってようやく家を片付ける気になった』とおっしゃっていたそうですが、そういう思いは皆さん同じなのでしょうか、最終日にもお隣の方が戻ってこられました。この地区は地震のため地盤がかなり下がっており、A様も『ここにはもう住めないですよ』とポツリとおっしゃっていました。

その(4)
 最終日は、13:00を以て撤収の予定でしたが、お昼には予定分以上に作業を終えることが出来ました。A様ともお別れです。どこのお宅も片付けてすぐに住める状態ではありませんが、奥様は「とりあえず片付けないとね、どうしようもないですよ」というようなことをおっしゃっていました。前に向いて生きていかれようとする力強いお姿にこちらの方が元気をいただいてしまいました。しかもこちらが恐縮するほど大変良くしていただいたのに、『皆さんのことは忘れません。』と涙ながらに言っていただきました。奥様とウチの隊の女子大生が本当に抱き合って泣いています。私たちもA様のことは決して忘れません。そうして、短期間ですが現地での作業が終了しました(ボランティアの作業時間は短いです。私たちはチャーターしたバスで動きましたが、宿泊地からの移動もありますので実際の作業は早くて9:00過ぎ〜撤収は16:00までが目安です。VCのシャトルバスで動いても概ね同じのようです)。

 現地での他のことも少し書いておきます。まず、宿泊ですが私たちは松尾芭蕉の句で有名な日本三景の一、松島のホテルに宿泊させていただきました。ボランティアのイメージに似つかわしくないような温泉付の立派なホテルです。一般のお客さんとはもちろんプランが違うのですが、テントで寝泊まりしたり、近隣から通ってこられる個人の方々には本当に申し訳ない気分です。ここは県等の全国からの拠点になっているようで、把握したところでは岡山県の福祉協議会のチーム、沖縄県警からの応援部隊と一緒でした。松島も場所によっては集落が壊滅したり、かなり被害は出ています。宿泊したホテルは高台なので津波の被害はありませんでしたが、肝心の海岸通りは津波でシャッターがへこんでいたりして、ほとんど店を閉めていました。まわりを散策しますと海岸は手すりが破損していたり、養殖牡蠣の筏や貝殻が散乱していて、まだ片付けの手間があまり入っていないようでした。ただ、貝殻等が散乱している割に悪臭が全くしないのは不思議でした。島根の港の方がよっぽど磯の臭いがします。また、ホテルも撤去作業等に必要な装備や替下着等、ボランティアをバックアップするようなものをかなり安く販売していました。

 作業の撤収時には、行き違う方々に口々に『お疲れさまです』『ありがとうございます』と挨拶していただきました。それからこれは意外だったのですが、住宅地の壊滅状態の区画の道を挟んで隣の区画はほぼ無傷らしく生活されている、というところもありました。また、作業後は人も道具もかなり汚れますので、高圧洗浄機で洗浄してくれるチームがいました。そういう場所を提供してくださる地主さんも含め、思っていたより組織的かつ、本当に皆さん、自分が出来ることで東北のために一生懸命やっておられるのだな、と感心しました。

その(5)
 今回ボランティアに参加させていただいたのは、実は大した動機ではありません。もちろんお役に立ちたい気持ちは十分にあったのですが、それより阪神の時何もしなかった負い目のようなものと、この大きな災害に居合わせた者として、現地を見ておかなければならないような気がした事。被災された方にお金がなかなか行き渡らない現実をみて、取り急ぎ金より人手が優先なんじゃないかって思った事。また、いい年をして恥ずかしいのですが、ボランティアの経験がそれまでありませんでしたので、人様のために汗を流せば少しはマシな人間になれるんじゃないか、なんて失礼な事も考えたのです。そして一番大きいのは、『人間をなめるな!』と言いたかったのです。

 震災当日は、ちょうど津波が市街地を襲い始めるあたりから家でずっと見てました。どんどん嵩(かさ)と勢いを増す黒い水、流されながらの火災。当日は雪が降っていました。今調べたら石巻の当日の気温は-3.0℃〜5.9℃、1日の平均は1℃です。翌日以降は19日まで気象庁のデータがありませんが、同じような寒さだったはずです。着の身着のまま、せっかく津波を生き延びたのにその後凍死・餓死された方がたくさんいらっしゃいます。そしてフクシマ、続く阪神大震災レベルの余震。今回の震災の特徴として、大変多くの映像を世界中の人が見る事が出来る、というのが挙げられると思います。そういった映像も繰り返し見ました。そのうち、3月の終わりには震災当日から抱いていたある感情が明確な形となってはっきり認識出来ました。それは祈りでも憐憫でも励 ましでもなく、【怒り】。それに気づいた時、なんか自分の中のモヤモヤしたものがフッと、落ち着いた(というのは変ですが)のでした。『やっぱり東北に行 こう!』。そうはいいつつ結局ギリギリまで迷うのですが。

 今回の信じられない出来事を見てまず思い出したのは、『愚公山を移す』という中国の故事です。復興に阪神の何倍もの時間がかかるかもしれない、と思ったからです。実際やってみると側溝の泥出しひとつとってもキリが無く、全部を見ればいつ終わるか分かりません。雨が降るたびに泥を出したところもまた埋まっていくでしょう。今回参加させていただいたボランティアも人数と期間が限られ、また、1日の作業時間も4〜5時間までと短いものでした。我々に出来る事は入れ替わり立ち替わり、手数を繰り出すしかありません。しかし、愚公のごとく一人が運べる土はザル1杯でも、述べて1,000人、10,000人が世代を繰り返すうちに、必ず山は無くなります。先に『津波のバカ』と書かれた玄関の事を書きました。あれを見て、動機が確信に変わりました。今回被災され、生命財産を失った方の無念を必ず晴らす、大した量ではないけれど自分が運ぶ石ころひとつ、スコップ1杯の泥が復興につながると心から信じて作業しました。

その(6)
 A様宅のお話にもどります。これについて作業的に恵まれたとも書きました。が、A様のお話を伺って、それにも意味があるのかもしれない、と考えました。 被災された家屋がどんな事になるか、その様子も含め実際の体験を聞き伝えるということです。『無念を晴らす』というのは、自分の考えでは、次に来る災害に備える、という以外の何物でもないからです。巨大な物理法則の前には人間は無力です。絶対に勝てません。間違いなく負けます。しかし、よりマシな負け方をする事は出来る。今回と同程度の災害が起こったとき、今回より一人でも多く助かる、一棟でも多くの家屋が被害を免れる、防災意識を高めてそういう社会を作っていく事が今回被害に遭われた方々に報いる事だと思います。例えば今、わが家のリビングにはボランティアの時に使ったリュックサックにヘルメットを取付けて置いてあります。中には今回使った資材の残りの他、おやつパンや即席麺、水・ティッシュなどの日用品・電池・簡単な薬などが入っています。どれも普段消費していくもので、今までバラバラに保管していたのを集めてあるだけです。必要な物はそこから取り出して必ず元に戻すようにしました。新たに防災グッズを準備すると思えば億劫ですが、こういうことは各家庭ですぐに出来るのではないでしょうか。今回の災害は1,000年に一度と言われますが、次の 1,000年に一度が明日でないという保証はありませんから。

 ボランティアへの参加前後で自分の何が一番変わったかというと、被災地の事を考えない日が無くなりました。朝が来て晴れたり曇ったりして日が暮れる、そのどこかの時間につけて『今向こうはどんなだろう』って思ってしまうんです(残念ながらあんまり「マシな自分」にはならなかったようです)。とにかく 大事なのは忘れない事だと思います。それから、いろいろあるけども日本という国はやはりいい国だったんだな、とも考えています。今回の事でたくさんの国、 中には富める国やそうでない国もあるけれども、みなさん出来る限りの事をしてくださっている。それは本当にありがたいし、様々な意見や思いはあれ、戦後そういう国を作って来た先達にも敬意を表します。そして、『国を想う』ということにいろいろな形がある、その事にも気づかせていただきました。

 また機会があれば現地に行きたい気持ちもありますが、当面、ここで普通に暮らしながら出来る事をやっていこうと思います。とりとめも無く長い文章を続けてしまいましたが、これを読んでもし感ずる事があったならば、紹介でもいいしページのコピーでもいいので、出来るだけ多くの方に伝えていただけたら、と思います。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

今一度。
野津様は、酔漢と同じ、「大和以下水上特攻隊」(ここでは、広義の意で「水上特攻」と表記致しました。遺族会名称です)遺族でございます。
この繋がりは偶然のものです。
ですが、この繋がりから、「野津様が石巻へ出かけられ、被災地を目の当たりにし、手記をまとめていらっしゃる」
この事が分かりました。
彼からのコメントが無ければ、遠い、山陰の地から、石巻へのボランティアの皆様がいらしたことを知ることはなかった。
この事実に驚くとともに、運命とは、どういうことなのか。
考えさせられてしまいます。
ひーさんからのコメント。
「ITがあるからこそ繋がるものもある」
どうも「IT」という言葉が好きにはなれない。
好きになれない自分がいながら、こうしてしっかりブログでもって、何かを「語っている」自分がいることも確かです。
「語っていてよかった」
「くだまき」は、このところ、そうした思いが強くなっております。

「大和」と「震災」がこのブログで繋がる。
この縁は大事にしなくてはならない。
今一度、自分でかみしめておこう。そう思いました。
そして、もう一つ。
遠い地から故郷へ、その復興をお手伝い下さった皆様のご苦労に、ひたすら感謝でございます。

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5 コメント

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ひー様へ (酔漢です)
2011-10-01 09:49:35
石巻で個人病院(外科)におります、私の先輩です。
震災直後から、かなりの患者さんを受け入れておりました。
機能している病院が少なかったのですが、高台(日和山)にある彼の病院は、当時健在だった数少ない病院でした。
先輩の奮闘ぶり。詳細は知りませんが、人づてに、かなりご苦労されたと聞きました。(同窓会情報)
多くの人の手を借りなければ、復興もおぼつかない。現実です。
部下から再度の申し入れがありました。
また「東松島市に行きたい」こうしたものでした。
返信する
感謝感謝 (ひー)
2011-09-30 21:47:36
ボランティアの過酷な労働も・・・
機動隊・警察・自衛隊・海上保安庁は潜水士(海猿)がくまなく湾内の遺体捜索・・・
地方自治体は各県から市役所に派遣され、各セクションで受付や案内をしていました。
医療現場では、日本全国から医師・看護師・放射線技師・検査技師などあらゆる部門で活躍していました。
みなさんに感謝感謝です。
この分もHPに付け加えておこう。
私の気持ちですから。
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酔漢様へ (野津)
2011-09-29 11:46:18
活動ではなく、ボランティアの受付と管理をそこでしておりましたので、現地到着後と出発前に専修大学には寄らないといけないのです。

名前の件は、今度お会いした時にでも聞いてみます。
返信する
野津様へ (酔漢です)
2011-09-29 08:10:06
石巻専修大学の側でも活動されたのですね、みずま君ご実家の近所ですね。
ありがとうございました。
半年経っても、遅れている箇所は多々あります。三陸が元に戻るのは、あとどのくらいの時間がかかるのだろう。そう思ってしまいます。

それと、是非、お名前をお知らせくださいね。
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酔漢様へ (野津)
2011-09-28 01:08:43
酔漢様、とりあげていただきありがとうございます。
思えば、戦争という『国難』にあたって酔漢様の祖父様と我が叔父が運命を共にし、今また震災という『国難』で遠く離れたその孫と甥が通いあっているという・・・しかも、東北出身の方は大和には少なかったということなので、なにか大和を中心に8の字にご縁が繋がってるような不思議な感じがします。
そういえば、父を担当してくださってるケアマネージャーさんの母方の叔父様も大和の搭乗員だったということが昨日(もう一昨日ですか)判明いたしました。
区切りがついたつもりのことでお心を乱して申し訳ないです(謝)。
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