酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その七

2011-05-30 08:26:01 | 東日本大震災

地震の内容から少しばかり、視点がグローバルなものへと変わってきております。

少しは彼がいつもの彼に戻っているようなそんな気がしてきました。

ですが、彼の怒りは、まだ収まりそうにもありません。

   

テレビは本当に脆弱なメディアだ。映像の圧倒的な力はあるだろうが、必要な時に必要なところには届かない。こうして見られたところで、それは現地で欲しい情報ではない。その意味では存在自体がエンターテイメントに近いものだ。津波の被災者なら安否情報が欲しいし、僕らのような地震被災者は生活情報が欲しい。全国放送というグローバルさは、ショッキングな映像を共有するだけで、この状況の被災地では大して役に立っていない。おそらく津波の映像を見た回数は、被災者よりもそれ以外の人たちの方が多い筈だ。被災地ではまだ電気もつかない所の方が多いのだから当然である。情報はまるで産地では高くて食べられない高級食材のように、ほとんどは別の場所で消費されている。

 不思議な事に、キャスターやコメンテーターは皆一様に傷ついた顔をしているように思える。

 どうしてだろう?

 親戚や知人が東北にいるのかも知れない。

 でも、もう一度言おう。

天災は誰のせいでもない。

 被災地から遠く離れた人たちは、傷つくよりも他にやるべき事があるように思える。

 僕はそう思いながら、電源を切った。

 レンジのおかげでお湯が安定して確保できるようになったし、こたつが使えるようになったので、寒さからは随分と解放された。

 夕方になって妻がベランダから隣接する児童館の水道で、水を汲んでいる人がいるのを発見した。行ってみると普通に水が出る。そこならばマンションを出て、目と鼻の先なので水汲みが更に楽になる。

 それもあって久しぶりにお湯で身体を拭いた。思えば地震以来、顔と手以外に拭いたり洗ったりはしていない。洗濯できないので、洋服は着たきりだし、下着類も極力長く着ていたので、少量でも暖かいお湯で身体を拭くだけでも気持ちが良かった。

 電気が点いたせいと、ガソリンの枯渇もあってか、避難所周辺にいた車が一気に減った。

 僕らは暖かさのお陰でほっとした気分で眠る事ができた。

 

 翌日、仙台市地下鉄が一部で運転をはじめた。災害に強い地下鉄とはいえ、それには少し驚いた。一部とは言っても不通なのは北端の泉中央駅から台原駅までの区間のみ。地下鉄線上の道路が何カ所か大きく陥没し、八乙女駅は阪神淡路大震災の倍以上の揺れを観測。地上駅なので一部が損壊したらしい。そう考えると随分と頑張って復旧させたなと思う。すでにガソリンがなくなっているので、沿線の人は移動がしやすくなる。もっとも地下鉄を使える地域は、広大な仙台市ではごくごくひと握り。移動の中心となる車がガソリン不足で使えないと、買い物さえ厳しい人たちがたくさんいる。だから現実には奇妙な違和感が伴うものだった。大きな戦車が走っているのに、兵士は竹槍を持っているような感じだ。ニュースで地下鉄が動き出したと聞けば、状況を知らない人は順調な復旧を想像するだろう。しかしそれが動いたところでほとんどの店は開いていないし、オフィスも休業状態。仙台駅から先にはどこにもいけない。それでも動かないよりはずっとましだ。

 僕の住むマンションは、地下鉄の南端のターミナルである富沢駅まで、徒歩圏内である。なので妻は早速地下鉄で市内中心部へと行った。

 僕は例によって今日も朝から水汲みだ。すぐ近場になったので、作業はかなり楽になった。

児童館の職員と挨拶をかわすと、自宅の方は水が出ないし、給水も大変だから帰りにここから汲んでいくと笑っていた。こんな時期に児童館を開けるのは、買い物や水の確保、安否確認など、何かと忙しい母親の負担を減らすためのようだ。僕はそうだよなあと感じた。こういう時は女性の方が何かと大変だ。それにしてもこういう時に、いくら仕事とはいえ、地味でも他人のために働いている人たちはすごいと感じた。素直に頭が下がった。

それにしても連日、少なくとも仙台の町の人たちはとても静かだ。パニックしたり、我先にと争う人や、苛立ち殺気立つ人はまず見かけない。信号が止まっていても、警察官の誘導はない(別に怠惰なのではなくもっと大変なところで捜索などしているのだろう)が、車も人も譲り合い、クラクションなど聞こえない。店先で何時間も待っていた上に、「ありがとう」といった声も普通に聞こえる。普段は近所との交流などほとんどない都市部なのにとても忍耐強く協力的だ。東北は仙台だけが少し異質な町である。他の地域は古くからのコミュニティが残っているところも多く、田舎ならではの様々なしがらみもある。ただそれが秩序にもなりうる。しかし仙台だけは都市型で、仕事をする上でも仙台商圏とそれ以外は分けて考えた方がいい場合も多い。神戸も震災の時にそうだったと聞くが、百万人を越える都市なのに、見た目ではパニックしていない。後に知ったがその態度を海外メディアからも賞賛されたらしい。でも東北人うんぬんではなく(仙台には妻のように他地域出身者もたくさんいる)、多くの日本人の深層には、想像を超える危機に対して、どうあがいても仕方ないという達観のようなものがある気がする。とはいえほんの百年ちょっと前、東京が江戸と呼ばれていた時代、幕末の上野戦争の時の体験を高村光雲が回顧録にしているのだが、それによれば新政府軍が彰義隊が備蓄していた米を庶民に配り出すと、群衆が我先にと勝手に振るまい出し、やがて寛永寺にまで押し入ってお坊さんの袈裟や仏像、舎利塔などを持ち出し、寺の中は空っぽになる散々な体たらくと書いている。それを読む限り、日本人の深層だなんて考えるのは、当てにならない気もする。ただ両者に違いがあるのは天災と人災の差だ。人災に対しての方が人は疑心暗鬼になりやすいのかもしれない。天災である地震や津波には冷静でも、人災の匂いがする原発事故の方はこれからパニックを引き起こすかもしれないなと僕は思った。

僕は宮城に四十六年間住み続けているが、特別な愛郷心があっての事ではない。たまたま暮らしたいと思う所が、育った地域だったというだけだ。僕は海があり、森があり、古い神社が大事に奉られていて(別に神道信奉者ではないけど育った町の中心に大きな塩釜神社があって遊び場でもあったから、特有の空気感が好きなだけだ。今の家の近くには多賀神社という仙台で最も古い神社がある)、普段はあまり時計を見ないで暮らせて、歴史を感じさせてくれる町ならばそれでいい。その意味では鎌倉なんかもいいと思う。でもそこまで行く必要がなかった。

子どもの頃は外で走り回っていたから、腕力や脚力などはそこそこ強かったし、野球なら投手か遊撃手を守り、主軸を打ったりもしたが、体質的には無理がきかず、多い時には年に五十日以上は病院に行っていた。かつては保険証に受診日と医院の印が押されていたが、僕が病院にかかり過ぎて欄が足りなくなり、別紙をその上に張られ、ある年はそれが三枚にもなった。受付の人から「こういう例ははじめてだ」と言われたくらいだ。とにかく生まれてこのかた、どう頑張っても一年間まったく寝込まずにいられた年は一度もないし、皆勤賞など夢のまた夢、奇跡に近い。そもそも母親もあまり丈夫な体質ではなく、小学校上学年の頃だが、母親が長期入院した後、長い休みの時には二人で松島町にある湯の原温泉というところによく日帰りの湯治に行った。鉱泉の沸かし湯で趣のある建物だ。松島の裏山といった感じのところにあるので、津波の影響は受けなかっただろう。観光客が来るような所ではなく、地元の人がほとんどで、いつも結構にぎわっていた。共同の座敷を借りて、そこに数人の人たちと相部屋をし、それぞれが持ち込んだ食べ物を分け合ったりしながら過ごす。時には病み上がりの若い女性がいたりして、まるで日本文学のような世界だったが、僕がその頃に持ち込んでいた文庫は海外物のサスペンスだった。

そんなこんなで僕は長期間の体力勝負になるような生き方を選択するつもりはなかった。東京のような大都会で生きるのも、仙台周辺よりももっと田舎で生きるのも、違う意味でとても体力がいると分かった時から、必然的な選択として、ここに住んでいる。

 人が住む町を決めるのは、何かをやりたいからそこに住むか、そこに住みたいから何をやるかのふたつしかないと思う。もしかしたらもっと特殊な事情もあるかもしれないが、一般的にはそうだろう。明らかに僕は後者だ。

 だから偏狭なほどの愛郷心があるわけではない。ただし僕は愛着を持って、ここに住んでいる。経済的にも潤っている町ではないし、バブルの恩恵などなかったけれど、たくさんのものが、つながりを保ちながら残り、でも少しずつ新しくもなっている。

 僕が歩く速度と歩みが一致する町。

 そこに住む事を自主的に選んだ人たちは、きっとそれを感じている。

 町にはそれぞれの時計があり、漁師には漁師の、農家には農家の、加工場には加工場の、店には店の、普通のサラリーマンにはサラリーマンの時計がある。

 それを意識せずに感じられる地域は気持ちがいい。

 みんな持っている時計は違うけれど、同じ大きな歩みの中にいる。

 そんな時間感覚をつくりだしているのは、多様な自然や歴史、そして多様な価値観だと思っている。案外、都市の方が複雑に見えるのは人間関係の雑多さであって、本当の意味で価値の違いは少ないように思える。もちろんどんなところも良い面ばかりではないから、あとは好みの問題だ。

 


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