彼岸のこの時期。祖母と二人で出かけた記憶がある。
酔漢幼稚園くらいの時の記憶。
祖父、祖母とも七ヶ浜花渕の出身であった。
海軍を志した祖父は、祖母を連れて横須賀へと向かった。
祖父の事は「くだまき」で語ってきた。
その祖父は、七ヶ浜花渕 同性寺に眠っている。
祖母と墓参りであった。
祖母は花渕に行く際、舟を使う事が多かった。
当時の観光桟橋から乗船。そして、記憶だが、東宮浜着だったか。
そこから歩いて、バス。
花渕漁港より少し先の停留所で降りた。
今年は寒いのであろうか。暖かい春の日が多かったと思う。
田植え前の田を右に見ながら、墓前。手を合わせた。
子どもにとって案外退屈な「墓参り」である。酔漢は、行く際の舟と、帰りのお駄賃が楽しみで付いて行ったようなものだ。
同性寺方面への道は狭いが、その角に一件の雑貨屋さんがあって、祖母の姉妹の家だったと聞いた(だと思う)。(店は昨年夏もあった)
帰りに寄る。
「今日は、おらいのやろっこさぁ、連れて来たべ」
祖母は店側に座るとお茶を頂いていた。
「んで、なんでも好きなもの一つやっから」
待ってた言葉であった。
チョコレートを頂いた。
夏、菖蒲田海岸へは海水浴へ行った。
昨年夏、朝早く菖蒲田へ息子二人を連れて立ち寄る。
海水浴客の為の駐車場へ車をむりくり駐車させた。
海岸から一番近いところにある家から、おじさんが一人出てきて。
「あんだら、海水浴客だったら、ちゃんと止めねぐてだめなんでねぇか」
と言われた。
「すみません、すぐ出ます」
あの家は確実に流されている。
泳ぎを練習した、菖蒲田浜、外人浜であった。
秋、花渕漁港、要害漁港では「ハゼ釣り」を楽しんだ。
特に、花渕漁港は港内とはいえ、当時大きなハゼが釣れた。
冬、自転車のトレーニングコースは七ヶ浜一周であった。
偵山橋を越えて、亦楽小学校まで一気に上がる。そして火力発電所までの下り。
吉田浜までの上り、菖蒲田浜までの直線は海風との戦い。
アップダウンが激しく、風も強い。
しかし、その辛さを回りの風景が癒してくれた。
七ヶ浜の全容が分かった昨日。
写真を見ながら、多くの事を思い出した。
「何も残されてはいない」
泣いた。
昨日、NHKを見ていたら「松ケ浜小学校避難所」が映されていた。
「被災地からメッセージ『今何が必要か』」
遠縁が映っていた。安心した。
中で、八十を過ぎた老夫婦の言葉。
埼玉に住む孫を心配してのものだった。
「避難所にいて無事。あんだは、体が弱いんだから風邪なんかひかないように」
この場で孫を心配する。
そう言えばこの手のメッセージが多いことに気づいた。
「もっと必要な物とか訴えないのか」とも思う。
しかし、こうなのだろう。
東北らしいのか。
七ヶ浜の避難所には、ボランティアとして従弟の細君が奮闘している。
保健室の先生である彼女は子供を家に残して(母妹→おばあちゃんの家にいる)地震のあの日から家に帰っていない。
彼女の身体も案ずる。
全景の写真。昨日の河北新聞夕刊WEBより。(断りなく掲載しました。ご容赦下さい)
菖蒲田浜が失われている。
回りの残骸。悲惨としか言いようがない。
道幅が狭く、大型車両が通れないのかと推察する。
海上から物資を運べられないのか。
そしてふと思う。
このような風景が青森近くまで延々続いているのだ。
気の遠くなる距離である。
津波の恐ろしさを再び感じる。
祖父が、曽祖父が、叔父が、叔母が、そして父が見たら・・。
どんな言葉を発するのだろうか。
酔漢幼稚園くらいの時の記憶。
祖父、祖母とも七ヶ浜花渕の出身であった。
海軍を志した祖父は、祖母を連れて横須賀へと向かった。
祖父の事は「くだまき」で語ってきた。
その祖父は、七ヶ浜花渕 同性寺に眠っている。
祖母と墓参りであった。
祖母は花渕に行く際、舟を使う事が多かった。
当時の観光桟橋から乗船。そして、記憶だが、東宮浜着だったか。
そこから歩いて、バス。
花渕漁港より少し先の停留所で降りた。
今年は寒いのであろうか。暖かい春の日が多かったと思う。
田植え前の田を右に見ながら、墓前。手を合わせた。
子どもにとって案外退屈な「墓参り」である。酔漢は、行く際の舟と、帰りのお駄賃が楽しみで付いて行ったようなものだ。
同性寺方面への道は狭いが、その角に一件の雑貨屋さんがあって、祖母の姉妹の家だったと聞いた(だと思う)。(店は昨年夏もあった)
帰りに寄る。
「今日は、おらいのやろっこさぁ、連れて来たべ」
祖母は店側に座るとお茶を頂いていた。
「んで、なんでも好きなもの一つやっから」
待ってた言葉であった。
チョコレートを頂いた。
夏、菖蒲田海岸へは海水浴へ行った。
昨年夏、朝早く菖蒲田へ息子二人を連れて立ち寄る。
海水浴客の為の駐車場へ車をむりくり駐車させた。
海岸から一番近いところにある家から、おじさんが一人出てきて。
「あんだら、海水浴客だったら、ちゃんと止めねぐてだめなんでねぇか」
と言われた。
「すみません、すぐ出ます」
あの家は確実に流されている。
泳ぎを練習した、菖蒲田浜、外人浜であった。
秋、花渕漁港、要害漁港では「ハゼ釣り」を楽しんだ。
特に、花渕漁港は港内とはいえ、当時大きなハゼが釣れた。
冬、自転車のトレーニングコースは七ヶ浜一周であった。
偵山橋を越えて、亦楽小学校まで一気に上がる。そして火力発電所までの下り。
吉田浜までの上り、菖蒲田浜までの直線は海風との戦い。
アップダウンが激しく、風も強い。
しかし、その辛さを回りの風景が癒してくれた。
七ヶ浜の全容が分かった昨日。
写真を見ながら、多くの事を思い出した。
「何も残されてはいない」
泣いた。
昨日、NHKを見ていたら「松ケ浜小学校避難所」が映されていた。
「被災地からメッセージ『今何が必要か』」
遠縁が映っていた。安心した。
中で、八十を過ぎた老夫婦の言葉。
埼玉に住む孫を心配してのものだった。
「避難所にいて無事。あんだは、体が弱いんだから風邪なんかひかないように」
この場で孫を心配する。
そう言えばこの手のメッセージが多いことに気づいた。
「もっと必要な物とか訴えないのか」とも思う。
しかし、こうなのだろう。
東北らしいのか。
七ヶ浜の避難所には、ボランティアとして従弟の細君が奮闘している。
保健室の先生である彼女は子供を家に残して(母妹→おばあちゃんの家にいる)地震のあの日から家に帰っていない。
彼女の身体も案ずる。
全景の写真。昨日の河北新聞夕刊WEBより。(断りなく掲載しました。ご容赦下さい)
菖蒲田浜が失われている。
回りの残骸。悲惨としか言いようがない。
道幅が狭く、大型車両が通れないのかと推察する。
海上から物資を運べられないのか。
そしてふと思う。
このような風景が青森近くまで延々続いているのだ。
気の遠くなる距離である。
津波の恐ろしさを再び感じる。
祖父が、曽祖父が、叔父が、叔母が、そして父が見たら・・。
どんな言葉を発するのだろうか。
多賀城は八幡まで水がきていました。
多賀城は産業道路、国道45号線、仙石線が
防波堤のような水の流れでした。
七ヶ浜のことは私も気になっており、町のホームページを見て、心痛めていました。
私ども家族は幸いにも命も家も無事で、
ご自宅をなくされた方へ何かお手伝いと
思うところですが、自転車生活での食料品の
入手など、1日がすぎています。
時間も曜日も、感覚も麻痺したような
一週間でした。
お母様の無事、よかったですね。
道路はだいぶ片付いていましたが、
やはり津波が上がった場所は目を覆いたくなる風景に…
のどかだった砂浜や田畑が根こそぎなくなっていました。
これが現実なのですね。
酔漢さんの系列事業所は今、休業中だそうです。
近くのスーパーも同じくで、ドラッグストアのみ営業。
今日はお肉屋さんが売り出しするとのこと。
浜の買い出しはかなり大変な状況のようです。
ご無事、何よりでございました。
ご自宅もご無事とのこと。
ライフラインも徐々に復旧していると聞きました。
故郷の惨状に、まだ自分の気持ちが落ち着かない酔漢でございます。
迷ったのですが、公開を避けました。
本堂は一見無事に見えますが、地震と津波で相当な被害があるようです。
通行禁止状態はどうでしょう。
浜の様子。今後もアップお願いします。
酷いものですね。
これは時間がかかりますね。
地震だけだったらなんとかなったのに、そして犠牲者も少なくて済んだことでしょう。
残念で悔しくも悲しくもありますね。
計り知れない時間を要するのでしょうね。
七ヶ浜が日常に戻るまでの時間。
津波の被害。
この日は、永遠に語られるのでしょう。