昨日の日曜日は気温が30度以上になるような真夏を思わせるような高温でした。暑い中、思い立って、大阪天満宮まで自転車で向かい、お参りしてきました。
母が入院して1か月以上経ちました。母の大切なものが何だったんだろうとタンスの引き出しやいろいろ家の中を探してみました。母は物欲がなく、ネックレスや指輪などの装飾品がほとんど見つかりませんでした。普段も装飾品はほとんど付けない人でした。引き出しの中に、大切にしまってあったのは、私たち家族で今まで旅したときに私がいつも手書きで書いていた旅行の予定表や旅した場所でのいろいろな施設のパンフレットや半券、買ってきたキーホルダーなどのお土産、誕生日にいつもメッセージを書いて渡していた誕生日カードなどでした。母は、子どもの頃、実の母と実の弟を二人とも相次いで亡くすというこども時代を送っていたと父から聞いたことがあります。父と母の父親は親友同士で、父と母は幼いころに遊んでいたことあった時期もあったそうです。父も子どものころ、実の母を亡くしていて、二人とも義理の母がまもなくできて、その後に兄弟も何人かできるという二人とも同じような境遇のもとで育っていました。私が小学生の頃、母の実家に私を連れて帰っていたときに、義理の母親が当時お店をしていて、そのお客さんに「また、帰ってきてるのよ。」「大変ね。」という話をしていたのを母が聞いていたのを同じその場にいたのでしっかりと覚えていました。そのときの母の本当に悲しいような顔をしていたのもはっきり覚えています。母の実家には1年に1回くらいしか帰ったことがないはずなのに、変なこというなあとこどもながらにずっと思っていました。そのときに母の気持ちを考えたら、こどものときから母が背負ってきたいろいろな悲しみを知りました。父と結婚して、私が生まれても、父方の義理の母との関係が大変だったこと、父は母を一生懸命かばっていたことなど、母にとって父は本当に頼りになる優しい人だったのと思います。また、40年くらい前に、母は父の妹に当たる叔母からとても悲しい目に合されました。それ以来、私は母が悲しみを忘れるようにこれでもかというほど旅に連れて行くことにしました。母はいつもそれなりに楽しく一緒にいつも旅行についてきてくれました。母の生きてきた道のりはとても辛いことがいっぱいあったはずなのに、私は祖母や叔母などの悪口を聞いたことは一度もありませんでした。もちろんそのほかの人々の悪口も聞いたことはありませんでした。母が病床でしんどくても絶対にしんどいと言わないほど辛坊強いのは母の生きてきた人生そのものだったと思います。昔、今の家が1戸建てではないので、隣家の騒音が激しいので、もう少し大きくて静かな家を買って住まないかと提案したところ、今の家から動きたくないという気持ちを聞き、父と一緒に自分たちだけで貯めて買った家に対する愛着というか大切にしてきたことを知り、それ以来、家を買う話はしないようになりました。母にとって、私たち家族となにげない毎日を送ったことが一番の大切なものだったのかもしれないなあと思いました。母がケアマネージャーさんにいつも家族で一緒に行ってきた旅行のことを本当に楽しそうに話していたということを聞きました。本当に楽しく過ごしてくれたのかは母に聞いてみないとわからないけれど、幸せな日々だったと私は信じたいと思います。