ソルジェニーツィン氏死去 ロシアのノーベル賞作家
2007年6月12日、当時のプーチン大統領をモスクワの自宅に迎え、握手を交わすソルジェニーツィン氏(手前左)=ロイター
【モスクワ=大野正美】大作「収容所群島」などでソ連の全体主義体制による民衆抑圧を告発したロシアのノーベル賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィ ン氏が3日午後11時45分(日本時間4日午前4時45分)、急性心不全のため、モスクワ郊外の自宅で死去した。89歳だった。
子息のステパン氏が、イタル・タス通信などに明らかにした。
ロシア革命の翌1918年、ロシア南部キスロボツクに生まれ、ロストフ大物理・数学科を卒業直後に独ソ戦に招集された。45年にスターリンを批判 した疑いで告発され、8年の収容所生活を送った。フルシチョフによるスターリン批判の翌57年に名誉回復し、「雪解け」の自由化政策に乗って62年にデ ビュー作「イワン・デニーソビッチの一日」を発表。ソ連の強制収容所の実態を生々しく描いて世界的なベストセラーとなった。
しかし、67年にソ連作家同盟大会に書簡を送って検閲の廃止を求めてから当局と激しく対立。長編「ガン病棟」などの発表を国内で許されないまま、70年にノーベル文学賞を受賞。その後、74年に逮捕、国外追放された。
76年から米バーモント州に家を構え、20世紀のロシアの運命を扱った歴史小説「赤い車輪」の執筆に打ち込む一方、評論や講演で「合理主義に毒さ れた」西欧世界を激しく批判した。90年には、翌年のソ連崩壊を先取りする形でソ連を解体しロシアなどスラブ系3国による同盟を提案、大きな議論を巻き起 こした。
20年の亡命生活を終えて94年にロシアに帰国後は、回想録などの執筆を続ける一方、評論やインタビューで、ソ連崩壊後の急速な市場経済化やチェチェン戦争でロシアが陥った荒廃に警鐘を鳴らした。
ここ数年は高齢と体調不良のため自宅にこもり、新作の発表もまれになっていた。ただ、05年には「1917年の革命前と同様、国家と社会の対立が深まっている」と民主主義の現状を批判したインタビューが反響を呼んだ。
07年6月には文学上の功績に当時のプーチン大統領(現首相)からロシアの国家賞を贈られ、「わが国が20世紀におかした自滅から教訓をくみ取り、それを繰り返さないことへの希望につながる」との談話を出していた。
◇
〈亀山郁夫・東京外国語大学学長(ロシア文学・ロシア文化論)の話〉 ソ連崩壊をだれよりも早く見通した偉大なる予言者だった。
もともとは社会主義を「健康的に」支持する若者だったが、収容所体験などを経て、ロシアの暗部を暴露していくことになる。スターリン時代の反省なくして国家は成り立たないと考え、歴史作家として歩んでいった。
しかし、ソ連崩壊がもたらした社会は望んだものではなく、彼はがくぜんとし、ある種の反省も生まれた。プーチン時代に入り、民族が精神的に大きくまとまることに期待をかけようとしたところで、死を迎えた。
文学者としては20世紀後半のロシアを代表する作家であり、「20世紀のドストエフスキー」と言っていい。総じて、全体主義に絡め取られない人間の自由を古典的なヒューマニズムの精神において描いた。

順天堂医院で死去した。72歳。旧満州(現中国東北部)生まれ。自宅は東京都新宿区中落合1ノ3ノ15。
葬儀・告別式の日取りなどは未定。喪主は長女りえ子さん。
終戦後、旧満州から引き揚げ奈良、新潟で少年時代を過ごした。
1956年「嵐をこえて」でデビュー、60年代以降「ひみつのアッコちゃん」
「おそ松くん」「天才バカボン」などのヒット作を連発。「シェーッ」
「これでいいのだ」など数々の流行語を生み出した。
98年に食道がんの手術を受けたが、その後も療養のための入退院を
繰り返しながら週刊誌の連載、絵本の制作など精力的に創作活動を続けた。
2002年4月、検査のための入院中に脳内出血で緊急手術、闘病生活が続いていた。
妻真知子さんは献身的な看護をしたが、06年7月くも膜下出血のため急死した。
http://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack_s.cgi?s_main+CN2008080201000716_3
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます