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保守記事.391-7 想定外の対応

2011-04-11 13:14:38 | 記事保守

「高台へ避難中に津波」=被害状況で保護者説明会-児童74人死亡・不明の大川小

  東日本大震災の大津波で全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の校長らが9日夜、同市内の別の小学校で、被災当 時の状況に関する保護者説明会を開催した。市教委によると、児童の多くは教職員らとともに学校から高台へ避難中に津波に巻き込まれたという。
 保護者からは「助かる方法は他になかったのか」などと学校側の対応を批判する発言が相次いだといい、当初の予定時間を上回る1時間半に及んだ。
 説明会は、保護者から「当時の状況を知りたい」との要望が相次いだことを受け開かれた。報道陣には非公開で行われ、保護者ら97人が出席した。
 市教委によると、冒頭に黙とうした後、今野慶正教育長代行が「安全であるはずの学校で多くの尊い命が失われたことに、心よりお悔やみ申し上げる」とあいさつ。その後、大川小の柏葉照幸校長や、現場にいた教職員で唯一生還した40代の男性教諭が当時の状況を説明した。
  3月11日の大地震発生直後、同校教諭は児童に校庭への避難を指示し、誘導点呼を行った。その後、迎えに来た保護者に児童を引き渡している途中、津波の危 険があると判断。地域住民と教頭らが相談の上、高台となっている新北上大橋傍らの三角地帯に避難することを決めた。津波は三角地帯への移動中に児童や教職員を襲った。
 学校のすぐ裏に山があるが、地震による倒木の危険があったため、避難場所に適さないと判断されたという。
 保護者の一人は終了後、「納得のいく説明ではなかった」と肩を落とした。
 市教委は今後、児童らからの聞き取りも行った上で、改めて詳細について記者会見するとしている。(2011/04/09-22:01)

 

石巻・大川小の悲劇、被災時の詳細明らかに
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多くの児童が北上川(上)を逆流した津波に襲われて亡くなった大川小(9日午前、宮城県石巻市で)=冨田大介撮影
 東日本大震災で全校児童108人のうち7割が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小で、被災時の状況が目撃者の証言などから明らかになった。

 児童は集団で高台へ避難する途中、すぐそばを流れる北上川からあふれた津波にのみ込まれた。当時の様子が知りたいという保護者の要望に応えて学校側は9日夜、説明の場を設ける。

          ◇河口から4キロ◇

 大川小は東北最大の大河、北上川右岸の釜谷地区にあり、太平洋に北上川が注ぐ追波湾の河口から4キロ上流に位置する。同県教委によると大川小の児童は 56人が死亡、18人が行方不明。また教諭については当時、校内にいた11人のうち9人が死亡、1人が行方不明になった。校長は震災当時、外出して不在 だった。

 保護者や住民らの証言では、児童は11日午後2時46分の地震直後、教諭らの誘導で校舎から校庭へ移動した。ヘルメット姿や上履きのままの子もいた。保護者の迎えの車が5、6台来ており、「早く帰りたい」と、泣きながら母親にしがみつく子もいた。

 同49分、大津波警報が出た。教諭らは校庭で対応を検討。校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。学校南側の裏山は急斜面で足場が悪 い。そうした状況から、約200メートル西側にある新北上大橋のたもとを目指すことになった。そこは周囲の堤防より小高くなっていた。市の防災マニュアル は、津波対策を「高台に上る」とだけ記しており、具体的な避難場所の選択は各校に委ねられていた。

          ◇想定外◇ 

 午後3時10分過ぎ、現場に居合わせた男性(70)は、児童らが列を作って校庭から歩き出すのを目撃した。「教諭に先導され、おびえた様子で目の前を通り過ぎた」

 その直後だった。「ゴーッ」とすさまじい音がした。男性は児童らとは逆方向に走り出した。堤防を乗り越えて北上川からあふれ出した巨大な波が、学校を含む地区全体に襲いかかった。住民や男性の証言を総合すると、津波は児童の列を前方からのみ込んでいったという。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて男性と同様に裏山を駆け上がるなどし、一部は助かった。

 宮城県沖で二つの断層が連動した地震が発生した場合を想定した津波浸水予測によると、河口付近の高さ5~10メートルに対し、小学校周辺は1メートル未満。だが、今回の津波は2階建ての同校校舎の屋根まで乗り越え、裏山のふもとから約10メートルも駆け上がった。また児童らが避難しようとした新北上大橋 のたもとでも、電柱や街灯がなぎ倒されるなど津波の被害を受けた。

 「ここまで来るとは誰も思わなかった」。同地区の住民は口をそろえる。同市河北総合支所によると、防災無線の避難呼びかけは一度きり。同支所によると、 釜谷地区全体での死者・行方不明者は住民の約4割の189人。津波を見ようと堤防に行ってさらわれたり、自宅にとどまり犠牲になった人も多かったという。

          ◇保護者の思い◇

 県教委によると地震と津波で死亡した同県の小学生は127人で、4割以上が大川小の児童だ。8日には行方不明児童の1人とみられる遺体が見つかった。学 校の周辺は今も我が子の手がかりを追い求める親の姿が絶えない。「当時の状況を知りたい」という保護者らの思いは切実だ。

 3年生の孫を亡くした男性(61)は遺体発見まで3週間を要した。「せめて何年生が、どの方角に逃げたのかだけでも知りたい。捜索にもある程度の目星が必要。みんな早く見つけてやりたい一心なんです」と語る。

 関係者から避難状況を聞き取った同市教委は「想像を絶する大津波だった。学校の判断は致し方なかったと思う」とする。市教委によると、校長が9日夜、生還した教諭から状況を聞き取った結果を保護者に伝えるという。(佐々木栄、羽尻拓史、石坂麻子)

108人中残った34児童登校生きてたんだぁ

被災後初の登校日で抱き合って再会を喜ぶ児童たち(撮影・下田雄一)
被災後初の登校日で抱き合って再会を喜ぶ児童たち(撮影・下田雄一)

 震災から半月以上たっても、厳しい現実でさまよい続ける人たちがいる。11日の東日本大震災の津波被害に遭い、全校児童108人のうち約7割が死亡か、行方不明となっている宮城県石巻市立大川小学校が29日、地震後初めてとなる登校日を設け、全校集会を開いた。生存者は34人で、うち28人が、同校から10キロ離れた石巻市立飯野川第一小学校に登校。多くの学友を失った悲しみに直面した。

 大川小の子供たちは、あまりに寂しすぎる現実を、真正面から受け止めることはできなかったのかもしれない。お互いの安否も不明のままに迎えた登校 日。「おーっ、生きてたんだぁ」。「良かったぁ」。親や知人に連れられ登校した28人は、いつも通りの笑顔とはしゃいだ声で、級友との再会を喜んだ。女子 同士は抱き合い、男子は校庭で駆けっこやブランコで遊んだ。

 全校児童108人中、生存者はわずか34人。死者56人、行方不明者18人となった。児童を迎えたのも柏葉照幸校長(57)ただ1人。13人の教 職員も、生き残れたのは3人だけ。やりたくてもできない卒業式と修了式の代わりの登校日は、全員での黙とうと、柏葉校長の話だけだった。同校長は「6年生 21人で、今日来られたのは3人。生徒さんを亡くされた保護者のお気持ちなども考えると、今すぐの卒業式は無理でした」。金庫に保管していた卒業証書が流 されたことだけが、無期延期の理由ではなかった。

 大川小の周辺には、逃げ場などなかった。北上川と丘陵に挟まれた堤防沿いだが、河口からは約3キロも上流。津波の危険は感じにくい土地だった。震災直後に家族が迎えに来た児童以外は、町の避難場所が大川小だったために、全員で校庭に避難した。津波警報に別の避難場所も模索したが、隣の杉山は急勾配 で登れない。堤防を突き破ってきた津波に、一瞬で校舎の屋根までのみこまれた。

 大川小は土砂に埋もれ、周辺一帯は、今でも湖のように約4平方キロメートルが水没したまま。子どもたちが行方不明のままのお母さん5人は「毎日捜しに来ています」と疲れ切った顔で話す。西村清彦さん(73)は「小2の孫みつきを火葬してきた。孫の持ち物が何かあるかと思って来てみた」と、ランドセ ルや文具などが集められた遺留品置き場を「悔しい、悔しい」と泣きながら捜していた。

 柏葉校長は「子どもたちが幾分明るくて安心した。でも、久々に友達に会えたからでしょう。心には重いものがのしかかっている。我々周囲の者で、乗 り越えさせないといけない」。来月からの新年度は、飯野川第一小を間借りさせてもらう予定。教育委員会と相談して、カウンセラーを招きたいという。「生き残った皆で、笑顔いっぱいの学校をまたつくろう」と説くと、児童たちは悲しい顔をしても、泣かなかった。【瀬津真也】

 

「死にものぐるいで上に行け」津波被害の大川小 「あの日」教員は叫んだ
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一面のがれきと泥の中に残った大川小学校の門柱。女性が花を手向けた=宮城県石巻市(矢島康弘撮影)(写真:産経新聞)
 海抜ほぼ0メートルにその学校はあった。北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で74人が死亡・行方不明と なった。学校にいて生還した教員は教務主任の男性1人。石巻市教育委員会が聞き取りを行ったこの教諭や関係者の証言から当時の状況が明らかになりつつあ る。あの日、何があったのか。“その時”を検証する。(桜井紀雄、荒船清太)

【写真】映像がとらえた大川小周辺を襲った津波

 ≪列の前から波来た≫

 5時間目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちは机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。

 泣き出す子供もいたが、女性教諭らが付き添った。学校前に自宅があり、同校に通う2人の孫を亡くした阿部文子さん(59)は「校庭に子供たちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

 校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「今、校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性 運転手(63)は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。男性運転手も津波で死亡した。会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としてい る。市教委は「津波の際、どこに避難するか特に決められていなかった」という。

 男性教諭は校舎内を確認しに向かった。ガラスが散らばり、児童が入れる状況ではなかった。校庭に戻ると、子供たちは他の教員に誘導され、裏山脇の細い農 道を列を組んで歩き出していた。坂道を行くと校庭より7~8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。

 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。

 気づくと、裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。

 「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の男児だった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。車のライトが見えた。助けられた。

 ≪農道以外選択肢は≫

 被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子供だった。しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児も2人いる。

 「山の中で『おーい』と捜していると、弱々しい声で『おーい』と聞こえた。髪までぬれた男の子2人が斜面に横たわっていた」。裏山の反対側から駆け付けた石巻市河北総合支所の佐藤幸徳さん(51)は振り返る。

 「歩けるか」と声を掛けると、2人は「大丈夫です」と答えた。開けた場所まで行き、他の避難者たちとたき火をして一夜を過ごした。2人は「誰かに大声で『山に逃げろ』と言われた」と説明したが、言葉は少なく、ずっとうつむいていたという。

 行方不明の子供の捜索中、作業着姿の男性(44)が泥まみれの赤いランドセルを抱き、突っ伏してむせび泣いた。「見つかったんだ!」。不明の小1の長女(7)のもの。つぶれ、茶色く変色したノートが残されていた。

 小4の次男(10)も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続ける。「あの日、本当に何があったのか、知りたい」

 震災当時、学校を不在にして助かった柏葉照幸校長(57)も捜索を続ける。男性は裏山を指して柏葉校長に疑問をぶつけた。「ここに登れば助かったんじゃないですか」。男性によると、柏葉校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。

 市教委は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。

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