帽子をとばして力投する小林繁さん(1981年)
甘いマスクで女性ファンも多かった小林繁さん
華麗なサイドスローで活躍した小林繁さん
小林繁さん
プロ野球の巨人、阪神で投手として活躍した現日本ハム投手コーチの小林繁(こばやし・しげる)さんが17日、心不全のため福井市内で死去した。57歳 だった。通夜は19日午後6時、葬儀は20日正午から福井市松本4の8の7の千福寺りんどうホールで。喪主は妻静子(しずこ)さん。
鳥取県赤碕町(現琴浦町)出身。由良育英高(現鳥取中央育英高)から社会人の全大丸へ。大丸百貨店では呉服売り場で働いた。1971年秋に巨人か らドラフト6位指名を受けて翌年オフに入団。独特のサイドスローから繰り出す鋭い変化球を武器に、76年から2年連続18勝を挙げるなど活躍し、77年に は沢村賞を受賞した。しかし、78年オフに起きた「空白の1日」として知られる江川卓投手のドラフト騒動に巻き込まれ、江川氏との交換トレードで79年1 月末に阪神へ移籍。その年に22勝を挙げて最多勝利、沢村賞を獲得した。83年に引退するまで通算139勝95敗17セーブだった。
引退後は野球解説者、テレビキャスターなどを務め、95年の参院選ではさわやか新党代表として比例区に出馬したが落選。97年から近鉄などでコー チを務め、09年に日本ハムの2軍投手コーチに就任。今季から1軍投手コーチとなった。16日には東京都内で開かれた日本ハム本社のイベントに出席してい た。17日午前中に福井市内の自宅で具合が悪くなり、救急車で福井県立病院に搬送されたが、そのまま亡くなったという。
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〈江川卓さんの話〉突然のことでびっくりしています。2007年にCMでお会いしたときは、お元気そうだったので、安心していたのですが。あまりにも早すぎるお別れに言葉もありません
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〈「空白の1日」〉 1978年秋のドラフト会議前日、巨人は浪人中の江川卓投手と契約。江川の交渉権は前年のドラフトで指名したクラウン(現西 武)にあったが、当時の野球協約ではドラフト前々日に交渉期限が切れるため、巨人は会議前日を「空白の1日」としてどの球団とも契約可能と主張した。これ は無効とされ、巨人が欠席したドラフトで阪神が江川を1位で指名。巨人はドラフトの無効を訴えるなど混乱が続いたが、当時の金子コミッショナーが「強い要 望」として、阪神がいったん江川と契約して巨人へトレードする案を提示。両球団が応じ、巨人から小林投手が阪神へ移籍した。
野球愛し、人に愛され/桑田真澄氏の父悲報
2010年01月18日
桑田真澄さんの父、泰次さんの遺体が見つかった火災現場=浜松市中区上島7丁目 |
泰次さんの遺体と対面した桑田真澄さん。「おやじがいたから、ここまでやってこられた」と話した=浜松市内の葬祭場、馬場由美子撮影 |
元プロ野球巨人の桑田真澄さん(41)の父、泰次(たいじ)さん(67)=浜松市中区上島7丁目=が17日未明、自宅兼店舗の火災で亡くなった。
プロ野球を代表する名選手を育てた指導力で地域の子どもたちを導く一方で、仲間や近所の人たちの良き相談相手でもあった。あまりに突然の悲報に、関係者ら
は、一様に肩を落とした。
全焼した店舗兼住宅では17日、警察などによる実況見分があった。外観は辛うじて保っているものの、真っ黒に焼け焦げた内部が、火勢の強さを物語っていた。
「早すぎるよ。まだ、やらなきゃいけないことが、いっぱいあるじゃないか」
泰次さんが会長を務める少年野球チーム「浜松ジャイアンツ」の父母会会長、落合一正さん(65)は、同日午前、病院で悲しみの対面をした。
仕事の関係で14年前に浜松に移り住んだ泰次さんが、10年前に立ち上げたチームを、一緒に盛り上げてきた。
17日は、泰次さんの67回目の誕生日だった。落合さんら指導者仲間の呼びかけで、前夜、誕生パーティーが開かれた。「今年はチーム結成10周年。記念試合をやらねば」。泰次さんは、上機嫌で話していたという。
パーティーは、出火場所とみられる1階の店舗で開かれた。チームの事務所も兼ねていた店は、近所の人たちの憩いの場でもあった。店の名前
は、真澄さんの現役時代の背番号と同じ「18」。泰次さんは代金も取らずに客をもてなし、近所のお年寄りに料理を届けることもあったという。
「おおらかで、優しい人でした。だから、みんなが自然と集まった」
野球以外にも、子育てや、時には仕事の悩みにも耳を傾け、励ましてくれたという。「私たち大人の保護者のような人でした。もっと話を聞いてもらいたかった」。保護者の一人は肩を落とした。
少年時代の真澄さんを指導し、野球選手としての基礎を作った泰次さん。「技術より大切なことがいっぱいある」と、礼儀や基本動作の反復を何より重視した。
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