随分と間合いがありましたが、今回は吉本隆明の詩シリーズの最終版です。この詩は素直に発想されていてきわめて平易な内容、一見、労働者が描いたようにみえる詩です。日々のこまごまとした暮らしの事象から思惟的に幻想の世界に広がり、深まっていく。日常の感覚から鉛直的に体内感覚へ思考とイマジネーションが展開する、あるいはひとことで生理感覚と言えばいいのかな。わたしとしてはわりかし好きなセンテンスとフレーズのつらなりです。
<われわれはいまーーー>
われわれはいま平穏な日々を生きている
きょう一と月の給料が支払われたということは
すくなくともここ数日の平和である
その先にある日々に小銭がもたされるということも平和である
父が心臓の発作で臥せたり起きたり
ときに電話口にききなれたアクセントを響かせることも
母が老いて寝こんだり起きたりして
ときにその涙を電話口の声にきかせることも
孤独な娘が背たけを毎夜すこしづつふやしてゆくことも
時が流れるようにしずかに平和である
すぎた日の恋唄が
鋭い口をきらりとみせながら
冬の果実のように実のってゆくことも平和である
ところでわたしのこころよ
あるかないかの白い毛髪を
一本一本と道標にたてて
歳ごとに重さをくわえてゆく頭骸のなかで
それは内臓されているか?
もうすこし下の心臓のどっくという轟きのなかに
秘されているか?
またそれは
ひとつの事件の記憶のなかに
ゆきつもどりつして去りがてにしている思想のなかに
白い花を投げ入れるほどの
余裕をもっているか
われわれはいま深い井戸の底にいるようである
わたしのこころはそのなかで一段と無口のようである
<きみ Beispiele 1 は Epoxid harz のことかな>
<ああそうです>
これが日々の職業だ
ああそうだ
すべての生活というものは無言を包括するために
拡大してゆく容器をもっている
彼女がわたしにたのんだ
京葉の漬物とさと芋と人参と豚肉を買うことを
そこでわたしが出掛けた
ひとつの冒険へだ
わたしの手のなかにはすぐ空になるほどの小銭と
ヴィニールのふろしきがあるだけだ
けれどいつかの日かとおなじように今日
わたしあるいはわたしの骨になった幻は
そのようにさりげなく深い拠点から
出発する
「模写と鏡」 (昭和39年) 所収
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