猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑥

2011年12月01日 21時59分58秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑥

 道元、道正の二人は、偉大なる達磨大師の座禅の姿を心にしっかりと刻むと、急ぎ帰朝をしようと、天童山を下り始めました。達磨大師より頂いた有り難い柱杖を突きつつ、元の山道を辿って、谷よ峰よと越えて行きました。

 しかし、どうも様子が、変です。いつの間にか、見たことも無い、広い野原に出てしまいました。

「どうも、おかしい。道正よ。ここで、道が途絶えたぞ。どこで道を間違えたのだろうか。方角も分からない。どうするか。」

 二人は、道は一本道で、間違えるはずもないと、不思議に思われましたが、慌てる様子も無く。草むらにどっかと座して瞑想を初めました。ところが、さすがに山道の疲れから、二人ともとろとろと眠り始め、とうとう前後不覚に眠りに落ちてしましました。

 すると、どこからともなく、悪虎が一匹飛び出してきました。悪虎は、牙を鳴らして、二人に近づくと、只一口に食らわんと飛びかかりました。眠り込んでいる二人は絶体絶命の危機です。ところが、不思議にもその刹那、道元が突く柱杖が、たちまち大蛇と変化して、悪虎の前に立ちはだかり、かっぱと口を開けて悪虎に襲いかかりました。竜虎血みどろの戦いは、凄まじいばかりです。さらに、道正の小刀が、おのれとばかりに飛び出したかと思うと、たちまち巨大な剣となりました。剣は虚空を飛び回り、周囲の山をかち割りながら、猛然と悪虎目がけて突きさそうとします。悪虎は、怒り心頭に発して暴れまくりましたので、二人も目を醒まし、この有様を目撃しました。大蛇が悪虎の平首に食らいつくと、剣は、虚空より悪虎の腹のまっただ中を貫き通しました。大蛇が、悪虎の首を食いちぎると、巨大な剣は、すうっと草叢に下りて、剣の先を上にして止まりました。すると今度は、大蛇がするすると太刀に巻き付き、剣の切っ先を飲み込むよと見えたその途端に、元の手杖と小刀に戻って、地に落ちました。不動明王が右手に持つ倶利伽羅剣(くりからけん)とは、この時に始まったのです。

 両僧は、奇異の思いをしながらも、諸天のご加護に礼拝し、天童山を伏し拝みました。その後道元は、この柱杖を決して手放すことはありませんでした。これが、永平寺の重物である「虎食み(とらばみ)の柱杖」であります。(※永平寺蔵:虎刎の柱杖(とらはねのしゅじょう))

 それから、苦節十三年。両僧は、霊地霊物を残らず修業するまで、帰朝することはできませんでした。十三年目にして、ようやく南京に辿りついたのは、すべて仏神の定められたことだったのです。(実際には4年間)丁度、日本向けの商船がありました。早速に船に乗り込んだ二人は、順風満帆の航海に、これまでの苦労が夢のようでした。三日三夜を安寧に過ごしましたが、唐と高麗の境にある「モメイ島」(不明)の辺りまで来た時、海上、俄に掻き曇り始めました。ひどい嵐となったのです。浪は世界を洗い、船を翻弄しました。船はいつ転覆するかわかりません。あまりのひどい揺れで、とうとう道正は、患い倒れてしまいました。道元は、ひたすら祈祷を続けましたが、嵐はいつまでたっても収まりません。道元は、舳先につつっと立ち上がると、こう大音しました。

「いかに、八大龍王。情けに聞け。入唐の沙門道元が、ただ今祈祷いたす所に、何とて浪風荒く患わすか。早、疾く浪風静めよ。」

 すると、浪風が弱まったかと思うと、不思議にも忽然と龍女が一人現れました。

「我は、シャカラ龍王(娑伽羅:サーガラ、竜宮王)が娘、豊玉姫。竜宮城と申すのは、六道界のそのひとつ、三熱の苦しみあり。」

(※龍は、六道の内の畜生道にあって、毎日、熱風に焼かれ、悪風に吹き飛ばされ、金翅鳥(こんじちょう:かるら)に喰われる。)

「仏の済世の時、文殊菩薩が、竜宮にお入りになられて、法華経の利益(りやく)によって八歳の龍女を天王如来として成仏され喜悦しました。今また、道元のお通りあるは、一重に仏の御来臨と思い、御血脈(師弟の法統の意)を与えていただきたく、船を止めたのです。」

と、涙を流して訴えました。

 道元は、これを不憫に思って、

「これこそ、一家血脈の初めなり。」

と、法華経一巻を取り出すと、龍女に与えました。喜んだ龍女は、瑠璃の壺から薬を取り出すと、道正に与えました。すると道正は、たちまち生気を取り戻し元気になりました。道元が不思議に思っていると、龍女は、

「この薬と申しまするは、浄瑠璃浄土の瑠璃仙人(薬師如来)より伝わる竜宮の重宝です。秘密の薬方ですが、只今の御法施に、その薬方をお教えいたしましょう。衆生の病苦を救って下さい。」

と、神仙解毒万病円(しんせんげどくなんびょうえん)の処方を道元に献げました。

神仙解毒が、永平寺から出るのもこの時が始まりです。(※永平寺「神仙解毒万病内(しんせんげどくまんびょうえ)」 

 そこで、道元が、龍女に向かって、 

「慈眼視衆生福聚海無量(じげんじしゅじょうふくじゅかいむりょう)(観音経) 

と唱えると、龍女は、たちまち男子に生まれ変わり、観音の姿と顕れたのでした。すると不思議にも、波間より、一葉の蓮華が浮かび上がりました。龍女が化身した観音菩薩が、この蓮華に乗り移ると、白波は、紫雲となって雲井遙かに上昇して行きました。(一葉観音)道元、道正は歓喜のあまり、爪でその姿を船板に彫りつけました。これを、今の世までも「船板爪つき一葉の観音」と呼ぶのです。(熊本県川尻:観音寺南望山慈眼院の船板観音) 

 それからというもの、ようやく春風が吹き、七日の後には、いよいよ祖国の地を踏むことができたのです。道元、道正の御姿、有り難いとも、なかなか申すばかりもありません。 

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑤

2011年12月01日 15時54分51秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑤

さて、哀れにも比叡山に落ち延びた神道丸と梅王は、慣れぬ山住まいに、都の方を眺めては、

「遙かの雲井のその下は、恋しい父のいらっしゃる都だが、また、恨めしき都でもある。」と、語り嘆いて過ごしておりました。

 そんな時、ようやく神道丸の行方を突き止めた、譜代の家臣「田代の源内」が、訪れました。源内は、早速に御前に罷り出ると、道忠卿の最期と、その後の一家離散の顛末について語りました。

「このことを知らせんため、彼方此方と、探し回りましたが、ようやくお会いでき本望です。これにて使命は果たしました。これ以上、何の役にも立たぬこの命、譜代の主を見捨てて出奔したからは、お暇申して、いざさらば。」

と言うと、ふっつと舌を噛みきって、その場で命を絶ちました。

 二人は、あっと驚き、詰めよりましたが、時既に遅し。呼べど叫べど、源内は、帰らぬ人となりました。二人は、密かに源内を葬ると、ある決断をしました。

 二人は、僧都(そうず)に、これまでのことの次第を全て語り、出家を願い出たのでした。僧都はこれを聞いて、

「そうであれば、髪を下ろし給え。」

と、血筋と撫でた御髪(おぐし)を四方浄土にお剃りになりました。二人は、墨の衣に着替えると、改めて僧都から、戒名を受けました。神道丸は、道元(どうげん)、梅王丸は、道正(どうしょう)と授かったのでした。

 それからというもの、二人は、宝蔵に籠もって、昼夜と問わず学問に精を出しました。

窓の前には、蛍を集め灯火として、天台経典の円頓(えんどん:悟り)止観(しかん:正しい智慧)を修めますが、道元には、納得できないことがありました。ある時、道元は、道正にこう言うのでした。

「いかに、道正。わたしは、天台の諸経を通貫したが、現世末世の衆生成仏の願いを実現するためには、「禅法」の外に道は無いと考えている。しかし、日本は小国であり、「禅法」の極意を全うすることができない。私は、末世の衆生済度のため、命を賭けて入唐(にっとう)して、禅宗六祖(慧能大師)より直に禅法の極意を学びたいと思う。」

 二人は、僧都に暇乞いをすると、旅の装束を調えて、菅笠で顔を隠し、竹の杖だけを頼りとして、まだ世も明けぬうちに比叡山を後にしました。道元は、この修業の旅立ちに、こう一首を詠みました。

「今日出でて いつかきて(来て・着て)みん 唐衣 我が立つ山の 雪の白雲」

「衆生済度の旅ではあるが、再び帰れるかどうかも分からない。」

と、振り返ると、比良の高嶺の残雪が目に焼き付いたのでした。

 さて、それより二人は、京都を離れ、大阪、兵庫と、旅路を重ねて行きました。

やがて、淡路島が見えてきました。浜には、塩屋の煙がたなびいています。道元は、その煙を眺めながらも、こう詠嘆するのでした。

「浪間浪間の塩釜に

炊くや憂き身を焦がすらん

煙と消えし我々も

かかる憂き目に遭うまじと

身を恨み、世を疎み」

ここは、松の浦という浜辺です。二人は、ここで唐船が出るのを待つことにしました。 二人は、唐船は無いかと方々尋ねましたが、そう簡単にあるものではございません。道元と道正が、浜辺で休んでいますと、沖より一艘の小舟が近づいてきました。やがて、二人の前に舟を着けると、舟の老人がこう問いかけました。

「御僧達は、どこまで渡る方々ですか。もし、唐船(もろこしぶね)をお待ちの様であるならば、乗せてあげますよ。」

 喜んだ二人は、二つ返事で舟に乗り込みました。すると不思議なことに、夢か現かと思う内に、唐の明星津に着いていたのです。すると老人は、

「いかに、道元、道正。我はこれ、加賀の国、白山大権現なり。御身、禅法を極めて、必ず日本に戻りなさい。その時は、私が守り神になるであろう。」

と言い残すと、光を放って忽然と消えたのでした。

         (※伏線:後に道元が世話になる吉峰寺が、白山信仰の寺である)

 あら有り難やと、いよいよ行く末頼もしく思った二人が、深く祈誓を掛けて礼拝していると、一人の通行人がありました。道元は、禅の霊場天童山への道を尋ねてみようと、その老人を呼び止めました。

「われわれは、粟散国(ぞくさんこく:小国の意)の者であるが、これより天童山へ上がろうと思っております。道をご存じであればお教えください。」

老人は、立ち止まると、

「なに、方々は、日本よりの僧と仰るか。天童山に上がるとは、さぞや深い願いがあるようじゃの。大変、殊勝なる志じゃ。よしよし、道しるべをいたそう。」

と、先に立って歩き始めました。老人は、歩きながらも、やれ、天童山は中国禅宗四山のひとつだとか、やれ、禅法を究むるには、天童山より外は無いなどと様々に話しをして、多くの谷、峰を越えたにも関わらず、二人は飽きる間もなく、天童山に到着しました。

老人は、

「さて、これこそ天童山。ようく拝みなされ。霊窟が沢山あり、岩滑らかに苔深く、谷は峙ち(そばだち)雲が立ちこめ、巌(いわお)からは水が滴る。八葉の峰は、八相の浄土をかたどり、月は、真如の影を映す。八つの谷には、八功徳水(はっくどくすい)。

晴嵐(せいらん)が梢を吹けば、法性、懺悔の声がする。されば、使命の第一は、心静かに拝むことじゃ。」

と、言いました。これを聞いた二人は、痛く感動して、信心を肝に銘じて感涙の涙を絞りました。すると、老人は、いきなりこう問いかけてきました。

「日本の僧よ、それ、禅法に工夫あり、座禅の公案を何と心得る。」

道元は、こう答えました。

「そこに入れば、幽玄に同じ、そこを出れば、三昧の門に遊ぶ。」

さらに、老人が、

「自身の仏とは、さて如何に。」

と問うと、

「雲深き所、金竜が踊る。」

と答えます。すると老人は、

「生死を離れるなら。」

と、聞き返しました。道元はすかさず、

「輪廻の如し。」

と、答えると、老人は、重ねて道元に向かって、同じ問いをしました。

「生死を離れるなら。」

道元は、

「潭月長閑(たんげつのどか:水面に映る月のように静かである)」

と答えました。老人は、矢継ぎ早にこう問いました。

「それで、これから、どうするつもりだ。」

そこで、道元は、問答から離れて、静かにこう答えました。

「柳は緑、花は紅の色々。」(蘇東坡の詩)

 老人は、にっこりと微笑むと、

「おお、良きかな、良きかな道元。則ち、教下別伝(きょうげべつでん)の理体をよくよく悟っておるわい。」

と、呵々と大笑すると、巻物一巻と払子、柱杖(しゅじょう:正しくは手偏の主)を取り出して道元に与えました。

 老人は、突然にそばの岩に上に飛び上がると、たちまち達磨大師に化身して、

「いかに、道元、道正よ。それなる巻物は、碧巌録(へきがんろく)なり。

(一夜碧巌録:石川県金沢市東光山大乗寺を指す)急ぎ日本へ帰島いたし、末世衆生を引導いたせ。さてさて、我が有様をよっく目に焼き付け、下根蚰蜒(げこんげじ:無能な)なる僧共に、よく学ばせよ。」

と、言うなり、最後に座禅の姿をお示しになって、やがて巌の向こうに消えて行きました。まったくもって、有り難い次第です。

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ④

2011年12月01日 12時08分28秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ④

 やがて、父の生首を抱きしめた金若丸は、呆然として神道丸の御前に上がりました。神道丸の驚きは尋常ではありません。将監の生首に抱きつくと

「なんという無惨な。木下将監よ。私たち兄弟を愛おしみくだされたのに、主命に仕方なく、我を討ったと思いつつ、金若を討ってしまったのか。おお、将監よ。我を殺せば、二人も命を失わずに済んだものを。不憫なことをした。」

と、しばし涙に暮れていましたが、やおら懐剣を抜くと、自害を図ろうとしました。はっと、我に返った梅王が、慌てて押しとどめ、

「お待ちなされ、不覚なり神道丸様。三つ目の命失うことなりませぬ。お命、全うされ、行く末目出度くあれば、母上様のお恨みも、いつかは晴れることがあるでしょう。」

と、説得しますが、神道丸は、

「いいや、母上のご立腹。とてものことでは逃れることは出来ない我が命。いずれ刺客を放つに違いない。卑しき者の手にかかって殺されるのは無念。最早思い切ったぞ。梅王丸、放せ。」

放せ、いや放さじと、主従がもみ合ううちに、互いに目と目を見合わせて、どっとばかりに泣き崩れてしまいました。やがて、梅王は、

「仰せはごもっともながら、神道丸様が御自害なされては、あなた様に科(とが)が無いことを、誰が父上様に申し上げるのですか。金若丸の事件は、神道丸の仕業と、無実の罪を着されることには耐えられません。」

と、ますます力を込めて抱き留めました。神道丸は、つくづくと考えて、

「梅王の申すこと、確かに神妙である。よし、よし、分かったから、もうよい放せ。最早、この館に居ることは叶わぬ。」

と、観念しました。ようやく力を弱めた梅王は、ほっとしてこう言いました。

「分かりました。それでは、私の叔父の寺が、比叡山にありますので、ひとまず、そこへ落ちのびましょう。お供いたします。」

 

 神道丸は、浅ましい身の上を嘆きながらも、父宛の書き置きを残して、梅王を唯一の共として、比叡山へと落ち延びたのでした。

 一方、父中納言道忠は、金若のことを片時も忘れる事なく、世の無常を嘆いて、とうとう病み伏せってしましました。そんな時、道忠の元に、神道丸の逐電の報と伴に、一通の書き置きが届きました。驚いた道忠が、急いで開いてみると、神道丸遁世の書き置きです。道忠は、

「花のような若を、一人ならず二人まで失うとは、もう生きる甲斐も無い、身の果てじゃ。」

と、がっくりとうなだれました。その落胆に追い打ちを掛けるように、続けて木下将監自害の報が届きました。もう、道忠には怒る力もありません。

「なんということだ。全ては御台の仕業なり。よしよし、成さぬ仲なれば、憎しと思うもことわりながら、それ程までに憎いと言っても、外にしようもあるものを、女の心のはかなさで、死なせてしまったとは、恨めしい限りじゃ。しかし、それとても我が悪業(あくごう)のなせる業(わざ)。ああ、只恨めしいばかりの浮き世やなあ。」

と、口説き嘆くばかりです。やがて、

「おお、恋しの子ども達。やれ、神道か、やれ金若か。」

と、おそば近くの人々に向かって手を伸ばすと、ばったりと目を閉じ、もう既にご臨終かと思われました。近習の者どもが驚いて、気付けの水を注ぎますと、なんとか意識が戻りました。急いで御台に知らせが走ると、驚いた御台は、松代姫を抱いて駆けつけました。御台は、

「のういかに、我が夫(つま)様。どうかお心取り直して、姫君をご覧下さい。松代がここに来ていますよ。」

と、泣く泣く、道忠に取り付きますと、道忠は、

「なに、姫か、これへ。」

と、目を開き、

「ああ、さても不憫なこの姫よ。父の命もこれまでぞ。我が露命が消えても、二人の兄があるならば、なんの心配も無いけれど、こうなってしまっては、明日よりは、誰を頼りに生きて行くのか。孤児と呼ばれ、侮られる不憫さよ。もしも命長らえ成長できたなら、二人の兄や、我の後を良きに弔ってくれ。」

と、もう既に、声に力も無く、段々に意識も遠のいて行くようです。しかし、また、最後の力を振り絞るようにして、目を開けると、

「やれ、松代、父が最期の言葉をよっく覚えよ。是は、家の系図である。お前が成長し、嫁ぐことができたなら、お前の子供に伝えるのだ。また、神道丸と生きて名乗り合うことができたなら、是を証拠として名乗り合うのだぞ。この伝来の系図は、お前の守り神ともなるはずじゃ。必ず大事にするのだぞ。」

と、松代姫の首に掛けると、後を頼むと言い残して、とうとう中納言道忠卿はお亡くなりになられました。

 それからというもの、御台の悪心はますます増長して、家中の面々、女、童にいたるまで、故も無い無理難題、無実の罪を着せられる始末。家人達は、居るにも居られず、二人三人と逃げ出して、とうとう、栄華を誇った立派な館に、人の姿も無くなり、やがて、蔵の宝も消え果ててしまいました。やがて御台は、姫を抱いて何処とも無く、彷徨い出て行ってしまいますが、心の鬼が身を責めて、浅ましいばかりの業であると、憎まない人はありませんでした。

つづく

 


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ③

2011年12月01日 08時38分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ③

 さて、何も知らない神道丸が、父の元を尋ねますと、特段の用事も無く、せっかく来たのだからと、諸々話し込んでいましたが、金若が自室で待っているのでと、早々に退出すると、金若丸と今宵は語り明かそうと、急いで寝所に戻りました。

 ところが、目に飛び込んだ有様は、朱(あけ)に染まった金若丸のいたわしい姿でした。驚いた神道丸は、

「これは、いったい、何者の仕業。出合え出合え、者ども、敵を討ち取れ。」

と、郎党どもに辺りを探索させますが、既に人影もありません。神道丸は、あまりの悲しさに、首の無い死骸に抱きついて、

「金若丸。いかなる者の仕業ぞ。いったいどんな恨みがあって、まだいとけなき弟を殺したのだ。このような邪険な仕業は、人間のすることとも思えない。」

と、流涕焦がれて泣き崩れるのでした。

 直ちに、使者が立って、父道忠卿に知らせが入りました。突然の事に驚いた道忠と御台は、急いで神道丸の寝所に駆けつけました。夫婦諸共に死骸に抱きつき、呼べど、叫べど、首の無い金若は答えません。自分の誤りに気が付いた将監は、ぶるぶると震えるしかありませんでした。

 やがて、金若の野辺送りが営まれました。御台は木下将監を呼びつけると、

「いかに、将監。なんの遺恨で、金若を討ったのだ。我が子返せ木下。金若返せ将監。」と、泣き崩れました。答えるすべも無い将監です。やがて、御台はきっと顔を上げると、

「憎っくきは、神道丸。神道丸こそ敵。今宵の内に神道丸が首討って見せよ。早く、早く。」

と、噛みつかんばかりの血相です。ははっとばかりに、飛び上がった将監は、そのまま家に立ち帰ると、覚悟を決めました。

「さて、是非もない次第。道にもあらぬ宮仕え。いかに、御主(ごしゅう)の御意(ぎょい)とは言え、なかなか、思いも寄らざること。さりながら、命惜しみては、末代の恥辱。よしよし、浮き世もこれまで。」

と、思い切り、一子、梅王を呼ぶと、

「梅王、よっく聞け。我は、誤って金若殿の首を落としてしまった。これは、天命であるから是非もない。只今これにて、自害いたす。介錯いたせ。その後、この首を神道丸殿へ持参し、ことの次第を、全て報告いたすのじゃ。父に代わり、主君に忠孝いたすのじゃぞ。悪事をなしたる将監行正の子の行く末見よと、人に後ろ指を指されるなよ。それから、父の死骸を他人の手にかけて、後を見苦しくしてはならぬぞ。よいな、早、早、用意いたされよ。」

と、潔く言い渡しましたが、これが、我が子の見納めかと、さすが勇猛血気の将監正行も、涙を流して無念の歯がみをしました。梅王は事の重大さに驚きながらも、

「仰せはごもっとは存じますが、昔より今に至るまで、親の首を、子が切る例(ためし)はありません、それだけは、ご勘弁下さい。」

と、涙をながして懇願しました。将監はこれを聞いて、

「いやいや、よっく聞け、梅王。金若殿を手に掛け、討ってしまった以上、冥途の責め苦もさぞやあること、今、お前の手に掛かるなら、少しは罪の贖い(あがない)じゃ。介錯いたせ。」

と、許しません。梅王が、重ねて辞退すると、将監は怒って、

「何を情けない、物の道理も分からぬか。班足太子(はんぞくたいし)は千人の首を取る。(九尾狐伝説:インドのマカダ国の王子は、九尾狐が化けた華陽夫人に操られて、千人の首を刎ねた。)その時、一人足りなかったので、父、大王の首を切り、近くでは、源義朝は、父為義の首を切る。(保元の乱)かかる例は数多くあるのだ。これでも、嫌だと言うのなら、今生、後生の勘当言い渡す。」

と、無理矢理に介錯を迫りました。道理に詰められた梅王は、返す言葉もなく、仕方なく父に従うことにしました。

 怒りを収めた将監は、直ぐさま切腹の用意をすると、大肌脱いで、脇差しを取り直すと、心を静め、しばし瞑想していました。やがて、観念すると、左の脇にさっと脇差しを突き立て、やっとばかりに突き刺し、右手にきりきりと引き回してから、顔を上げ、

「早、首取れ、梅王丸」

と、叫びました。梅王は、

「心得ました。」

と、太刀を振り上げたものの、どうして親の首が討てましょう。目は眩み、心は消え果て、わなわなと、座り込んでしまいました。将監は、きっと、振りあおのくと、苦しい息をつぎながら、

「ええ、こりゃ、梅王。しっかりせよ。最早、名残もこれまでぞ。ええ、早、早、首を取らぬか。梅王丸。」

と、必死の形相です。梅王は、泣く泣く立ち上がると、南無阿弥陀仏と父の首を落とし、わっとばかりに、父の首を拾い上げました。繋げても繋がらない首を抱きしめて、梅王は、

「父上、父上。」

と、叫びつづけるのでした。

つづく