猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑨

2011年12月02日 22時23分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑨

 そうして、道元禅師は、洛中洛外の老若男女の病苦を救い、仏法を説き聞かせたので、人々は、道元禅師を、釈尊のご出世であると、大変に尊敬されました。しかし、道元は、それで満足したわけではありませんでした。ある時、道元は道正に、こう言いました。

「かねてから、お前には話してきたが、これで修業が終わったわけでは無い。愚僧はこれより修業に出るが、お前は、ここに残って、衆生済度を続けなさい。」

 そうして、道元は、諸国修行の旅に出たのでした。誠に有り難い限りです。道元は、東に下りました。宿場、宿場で布教を行い、様々な利益を与えながら、やがて鎌倉にやってきました。それは、もう日暮れ時のことでした。さて、ここらで宿でも借りるかと、宿を乞いますが、貸す所がありません。一人法師の宿泊は御禁制だというのです。道元は、

「よし、よし、このような邪険な国こそ、修業にはもってこいじゃわい。是非、ここで仏法を広めよう。」

と考え、由比ヶ浜の辻堂に籠もることにしました。

 さて、その夜半のこと、そばにある井戸の中から炎が、ぱあっと上がると、二十歳ばかりの足の無い女が現れたのでした。女の幽霊は、辻堂で瞑想していた道元の前にふっと立ちました。道元禅師はそれをご覧になり、

「これは、不思議な有様かな。いかなる者であるか。」

と、問いました。女は、こう答えました。

「私は、笹目ヶ谷(ささめがやつ:鎌倉文学館付近)の者ですが、嫉妬の心が深かったので、夫に騙されて、この井戸へ真っ逆さまに落とされて、未だに成仏できません。二六時中に暇無く、身体より炎が出でて、五臓六腑を焼き払い、死ぬかと思えば、また生き返り、一時として安らぐことがありません。どうか、この苦しみから逃れさせてください。」

と、涙に暮れているのでした。道元は、不憫とお思いになり、

「さらば、お助けいたそう。」

と、法華経の開経を授けると、提婆品にて、懇ろに弔いました。すると、不思議なことに、明星天子(金星:太白星:虚空菩薩)が空より降りてきて、井戸の中に光線を放つと、幽霊は、たちまちに仏体となり、雲井遙かに昇天していったのでした。まったくもって有り難いことです。この井戸が、今でも「鎌倉の星井戸」と呼ばれるのは、この時が初めなのです。

(※星月夜の井又は星の井:鎌倉市坂ノ下、虚空菩薩堂)

 道元は、幽霊女の成仏のため、虚空を拝んで猶も読経を続けていました。やがて、夜が白々と明けてきました。道元は、朝日を浴びて立ち上がると、すっくと立ち上がり、鶴ヶ岡に向かいました。

 鶴ヶ岡に高僧が来て、尊い説法をしているという評判が、時の鎌倉副将軍時頼公の耳に入りました。時頼は、波多野出雲守義重(はたのいずものかみよししげ)を呼ぶと、

「聞くところによると、都より尊き沙門が来て、衆生に説法を広めているということじゃが、その教下別伝の志というものを聞いて見たい。すぐに、その修行者を連れて参れ。」

と、命じました。

 やがて、道元がやってくると、時頼は、

「いかに、修行者。教下別伝の道理とはなんであるか。」

と、聞きました。道元は、

「言語、筆紙に述べ難し。瞼を閉じて、我と悟りを開くが故に禅法とは申すなり。悟る時は仏体。迷うが故に六道界。よくよく御思案あれ。」

と、はばかりも無く、ずばりと答えました。時頼は、その一言で、尊敬の念を抱きました。上座を立つと、道元の手を取って、道元を上座に座らせました。誠に驚きいったる計らいです。時頼は、

「今より御弟子となり申さん。開経、お授け給え。」

と、平伏しました。道元は、しからばと、菩薩戒(大乗戒)を授けると、そのまま御髪を下ろされ、戒名を最明寺と拝受しました。誠に殊勝なことです。

(※北条時頼:戒名 最明寺道崇 :墓 伊豆長岡 如意山最明寺)

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑧

2011年12月02日 12時21分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑧

 貧女と老女を連れ帰った道正は、道元に事と次第を物語りました。道元は、それを聞いて、

「親孝行の志、誠に殊勝なり。教化(きょうげ)してあげましょう。」

と、一家の秘密の開経(※法華経の序説:無量義経)を授けました。貧女は、あまりの有り難さに、肌の守りを取り出すと、

「この守りは、私の父上様、最期の時に、私に給わりました形見ですが、只今の御説法の御礼に、お坊様に献げます。」

と、言いました。道元が、受け取って開いてみると、守りではなく家の系図でした。はっと驚いた道元は、

「この守りは、あなたの父上様から譲り受けたのですね。」

と、確かめました。貧女は、

「はい、そうです。私はまだ二歳の頃でしたから、何も覚えてはいませんが、これなる母上から聞かされてきた話です。」

と、答えました。道元は、

「そうであれば、あなた方は、中納言道忠公の御台と姫なのですね。私こそ、かつての神道丸ですよ。」

と、駆け寄りました。貧女親子は驚いて、

「ええ、それでは、あなたは兄上様。私は松代の姫、これは母上様です。」

と、期せずして、涙、涙の親子、主従のご対面。喜び合うこと限りもありません。

 ようやく涙を押しとどめて、道元は、

「これまでのお嘆きは無理も無いことです。しかしながら、ここで巡り会うことも、仏菩薩のお恵です。この上は、御台様は御髪を下ろされ出家なされ、姫君は、御門へ奏聞して、どこか良い家にお輿入れできるようにいたしましょう。なによりも、この再会よりも嬉しいことはありません。」

と言うのでした。

 ところが、母上は、返事も無く、今度は押し黙って俯いたままです。正気に戻った途端に、また悪心の炎(ほむら)がめらめらと立ちのぼってきたのでした。

「恨めしの道元。これほど近くに有りながら、我が身の栄華に昔を忘れ、姫やわらわを打ち捨てたままにして、私たちは、こんな浅ましいことになっているというのに。我が子、金若があるならば、こんなことにならずに済んだのに。思えば思えば道元は、我が金若の敵なり。」

と、思うと、もう我慢ができません。道元の胸元を食いちぎって、昔の無念を晴らしてやると、いきなり道元に飛びかかろうとしました。と、その時です。晴れ渡る空が一天俄に掻き曇って、黒雲が舞い降りると、御台を包み込み、その姿は見えなくなってしまいました。道元、道正は、少しも騒がず、天に向かって、

「おのれが心、おのれを知る。喝、喝。」

と、唱えると、払子を投げつけました。すると、不思議なことに雲間に文字が顕れ、雲は晴れ、御台の姿が地上に戻ってきました。驚くべき仏力です。

 道元は母上に、こう言いました。

「只今の有様は、あなたのお心より起こる所の悪心そのものです。直ちに懺悔しなさい。そうすれば、罪は消えることでしょう。」

母は、これを聞いて、ようやく得心し、

「ああ、恥ずかしい。昔の心が忘れられず、また悪心が起こってしまった。」

と、素直に懺悔をすることができました。道元は、更に喜んで、

「それでよいのです。一念発起菩提心、成仏を疑ってはいけません。姫と一緒に出家をし、それから、しっかりと修業なされなさい。」

と、優しく勧めるのでした。

 その後、松代姫と御台は、出家して、諸国を修業した後、鎌倉松が岡に尼寺を建てました。この寺も代々、今の世に続きますが、これも又、道元禅師の法力によって始まったことです。

(※松岡山東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内)臨済宗円覚寺派のことと思われる。開基北条貞時、開山覚山尼:有名な縁切り寺)

つづく


忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑦

2011年12月02日 10時42分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

永平寺開山記 ⑦

 無事に日本に戻った道元、道正が、京の都に到着されたのは、安貞(あんてい)元年丁亥(ひのとい)(1227年鎌倉時代)の年のことでした。道元は、帰朝の報告をするために、装束を改めて参内されました。禁裏において諸々の奏聞をすると、御門よりの宣旨に、

「いかに道元、この度の入唐、衆生利益の勧めは如何に。」

と問われました。道元は謹んで承り、

「元より、愚魂の僧ですから、なんとも、申し上げることもできませんが、この碧巌録は、長く衆生済度のために、大変有益な有り難い宝経であります。」

と、達磨の三祖(道信)、六祖(慧能)の大事の秘事、悟るところの妙典を、謹んで差し上げました。

 御門を初め、公卿、大臣。各々が開いて見てみると、成る程博学、叡智に溢れて言葉に尽くすこともできないすばらしさです。一同、誠に道元禅師こそ、達磨の二度目の出世であり、日本の宝であると感歎しました。そして、御門より、

「さても道元禅師、曹洞一宗の開山たるべし。」

という宣旨を頂き、併せて、紫の玉衣を拝受しました。そして、道正には、一宗の官位を給わり、宇治の里に寺を建立するように仰せつけられました。

 さて、御前を罷り立つと、早速に宇治の里へ行き、天童八景を映して「興聖寺(こうしょうじ)」を建立なされました。(※実際の興聖寺は伏見区深草)道元、道正は、日々行い澄まして修業を重ね過ごしておられましたが、ある時道元は、

「今、濁世(じょくせ)の衆生は、病苦に責め苦しめられ、苦悩を悲しむばかりで、仏道に帰依しようとする者は少ない。衆生を化度するために、神仙解毒を慈悲に施して、病苦を救い、重ねて仏道を説き聞かせて、成仏の本懐を遂げさせるための布教をしよう。」

と、考え、京洛中に高札を立て、近隣諸国に触れを出して、貧民救済に乗り出しました。貧なる者には食物を、病者には解毒を与えて救済し、いかなる病も、平癒しないということはありませんでした。

 さて、ここに又、哀れをとどめしは、小原という山奥に、貧女の親子がおりました。いたわしいことにこの貧女は、幼い時に父を失い、母と伴に十八年の春秋を、あなたこなたと流浪しながら過ごしたのでした。その心の内こそいたわしい限りです。憂きことばかりの生活に、母親は、三年以前より足腰も立たず寝たきりになっていました。なんの生業も無く、貧女は、里田におりては、落ち穂を拾い、作物を盗んでは母親を養ってきました。貧女はある日、母親にこう話ました。

「この頃、都には、尊いお坊様が御説法をされ、その上名誉のお薬を慈悲に施すと聞きました。私は、都へ行ってそのお薬をもらってこようと思います。すぐに戻ってきますから、寂しくとも待っていてくださいね。」

母上は、これを聞いて、

「それは、よいことを聞いてきた。わしも一緒に都へ行き、御説法も聴聞して、菩提の種ともしたいものじゃが、少しの道も歩まれぬことの悲しやな。」

と、嘆き悲しみました。親孝行な貧女は、

「それほどに願われるのなら、私が連れて行ってあげましょう。」

と、なんとか、母を都まで連れて行く手立てはないものかと思案していますと、道端に捨て置かれたの土車が目に留まりました。

 貧女は、母を土車に乗せると、縄を肩に掛けて、小原の山奥から引き出しました。しかし、ボロボロの土車は言うことを聞きません。あっちで休み、こっちで休みして、ようやく東寺あたりまで来ましたが、あまりも揺られ過ぎた母親は、疲労のあまり意識不明の重体となってしまいました。貧女が呼べど叫べど答えません。せっかく都までやって来たのに、母を死なせてしまったと、貧女は、車に取り付いて泣くばかりです。

 そこに通りかかったのは、神仙解毒を広めるために布教をしていた道正でした。道正は、泣いている貧女を見ると、声を掛けました。

「いったいどうして泣いておられるのですか。」

途方に暮れていた貧女は、喜んで、

「のう、お坊様、これは私の母上ですが、今、亡くなってしまったのです。」

と、道正に取りすがって泣き崩れました。道正が母の容体を見ると、虫の息とはいえまだ生きているようです。さっそく神仙解毒を取り出すと、口でかみ砕き、老女に与えました。すると、たちまちにほっと息をつき、意識を取り戻すと目を開けました。

「ああ、苦しい、苦しい。私はどうしたのじゃ。このお坊様は?」

と、起きあがりました。喜んだ貧女は、母に飛びついて、

「母上様、御身は、一度お亡くなりになったのですが、お坊様のお慈悲で、蘇えられたのです。」

と、泣きながら語りました。母上は、

「これは、有り難い、有り難い。」

と、道正に手を合わせて拝まれました。道正は、

「何事も、宿業なれば是非もなし、ただただ念仏を唱えなさい。それにしても、娘の母孝行の志、あまりに不憫なことである。愚僧が庵に来て、我れらが教化を受けなさい。」

と仰りました。貧女はこれを聞いて、

「誠に、有り難き仰せですが、車にて母を曳けば、また容体が悪くなってしまいます。今夜は、ここにて休み、明日尋ねることにいたします。」

と、答えましたが、道正は、お供の者に母を担がせて、貧女を伴って庵にもどったのでした。

つづく