くまがえ先陣問答 ①
国を治め、家を安泰にするということは、君主次第のことです。君主が、賢聖であれ
ば、国は治まり、君主が邪欲であれば、民は苦しみます。でありますから、「君、君た
らずといえども、臣、臣たらざるべからず」(古文孝経:君主に徳が無く、君主として
の道を尽くさなくても、臣下は臣下としての道を守って忠節を尽くさなければならな
い。)と言うのです。
ここに、本朝八十二代、後鳥羽院(在位1183年~1198年)の御代、坂東武蔵
の国、熊谷次郎直実(くまがえじろうなおざね)とて、弓取りが一人おりました。先年、
悪源太義平(あくげんたよしひら:源義平)の配下として活躍され、悪源太十六騎に選
ばれました。この度、平家の合戦では、頼朝公の味方として一の谷の先陣を切り、武勇
の誉れ高き侍です。
嫡子は、小次郎直家(こじろうなおいえ)十七歳。父と共に一の谷にて高名を極めて、
天下にその名を轟かしました。次ぎは、桂の前という姫で、十五歳。この兄弟は、先妻
の子供で、幼少の折、母と死別しています。
さて、後妻の北の方は、平山の武者所季重(すえしげ)の妹で、その腹違いの兄弟に、
十三歳の玉鶴姫がおります。兄弟共に、容儀優れて、直実の寵愛を深く受けておりまし
た。
さてまた、家の家臣には、木村の五藤太高安(ごとうだたかやす)という、上を敬い
下に優しい、仁義正しい勇者がおり、内外になんお不足もなく暮らしておりました。
さて、その頃、鎌倉では、頼朝公の御前に諸大名が集められ、平家との合戦でのそれ
ぞれの手柄によって、恩賞が与えられました。ところが、平山の武者所季重は、頼朝公
の前に罷り出ると、一の谷の先陣は自分であると言い出したのでした。これを聞いた頼
朝公は、
「それは、熊谷が先陣であると、既に軍調(ぐんちょう)にも明白である。さりながら、
これより直実を召して、両方の是非を正せ。」
と、言いました。やがて、直実が、御前に上がると、頼朝公が、
「如何に、直実。一の谷の先陣を争う者があるので、その時のあらましを詳しく報告せ
よ。」
と、言うと、直実は、
「一の谷、二月七日の落城の折、六日の夜まで、それがし親子は、九郎義経の
配下にあって、山の手に待機しておりましたが、明くる日の先陣を心がけ、密かに陣中
を忍び出で、波打ち際に降り、土肥の次郎実平(どいのじろうさねひら)が七千余騎の
陣前を通り、一の谷の西の木戸に押し寄せました。夜中なれば、門は開かず、いたずら
に時は過ごしましたが、平山の季重が、遅ればせにやって来たので、一の谷の先陣は直
実であると、名乗ったことは、間違いもございません。」
と、申し上げました。すると、季重は、こう突っかかりました。
「それは、ごもっとも、確かに、御辺はそれがしより先に詰めておられた。しかし、木
戸は開かなかったので、それがしが遅れて到着した時には、まだ、門外に居たではない
か。木戸が開いて城中に入ったは同時、そして一番に敵と遭遇したのは、それがしの方
だった。」
これを聞いて、直実は、
「何を、季重。御前にて、そのような虚言は許されませぬぞ。先陣を心がけて、木戸口
に詰めていたそれがしが、後から来た御辺に、先を越されるわけがない。開門と同時に
一番に駆け入って、敵は、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)、越中前司盛俊
(えっちゅうぜんじもりとし)、同じく次郎兵衛盛嗣(じろうびょうえもりつぐ)、かれ
これ二十三騎をひとまず追い散らし、続く味方が無かったので、御辺とそれがし、互い
に馬を休めながら、交代しながら戦ったことを忘れたのか。」
季重は、涼しい顔をして、
「それは、その後の話で、まず、一番に敵と対峙したのは、それがしでござる。」
と言い張りました。直実は、怒って、
「そのような僻事(ひがごと)を言われるいわれは無い。」
と、こっちがこそが一番と、互いに口論となりました。とうとう、太刀の柄に手をかけ
て、互いに刃傷に及ぶ所を、一座の皆で取り押さえました。頼朝公は、
「いかに、両人、心を静めてよく聞け。まず、一番に寄せたのは、熊谷に紛れなし。
門が開いた時に、両人が一緒に駆け入り、どちらが、一足速いか遅いか、互いに証拠と
なるものも無い。しかし、直実が、敦盛公(あつもり)の首を討ったことは、これ抜群
の功績である。この度の顕彰には、直実に、武蔵の国長井の庄(旧妻沼町)を給わる。」
と、御判を下されました。
直実は、有り難くこれを頂戴し、季重にはこれといった功績も無かったので、なん
の恩賞も無く、すごすごと退散したのでした。直実の威勢の程、あっぱれ弓矢の面目で
あると、誉めぬ者はありませんでした。
つづく