その頃の天皇は、第109代太上皇帝(明正天皇)でした。帝は、先帝の菩提を篤く
弔う為に、日本の名僧を集めるようにとのお触れを出したのでした。そんな折り、宮中
に百色の冥鳥が飛んで来て、
『ぶっぽうめいしそう』
と鳴いて飛び去ったのでした。帝は、不思議に思って、陰陽の博士に占わせました。
陰陽の博士、阿倍の望月は、参内すると、暫く考えてこう言いました。
「これは、宮中より、東の方向に、ろうれつという名の者がおり、この者は、文殊菩薩
の化身であるから、法要に呼び出すようにとのお告げです。かつて、弘法大師、性空上
人、法然や親鸞が世に出る時も、この鳥が舞い降りております。その鳴き声を文字に表
すならば、「仏の法、明かなり、使いの僧」となります。この僧をお召しになり、追善
法要を致すのがよかろうと存じます。」
帝は、この占いに従って、ろうれつを召し出したのでした。やがて、ろうれつは参内し
ましたが、そこには、嘗て、霊巌寺に於いて、ろうれつを殺そうとした「かい月」も
来ていました。帝の宣旨を受けると、かい月は、憎々しげに、ろうれつの前に出て、
「おぬしは、このような大事の御法事に、何の心得も無いままに来たのであろう。どの
ような有り難い法要をするつもりか。」
と、言い寄りました。ろうれつは、
「お前は、知らないのか。往生極楽の回向の外に、秘術などは無いのだよ。」
かい月は、これを聞くと、
「それでは、どんな回向をするのか。」
と問い詰めました。ろうれつは、
「それ、回向には四種あり。第一に「ぢきしゅつ回向」(不明)第二に「くんほつ回向」(不明)
第三に「往相回向」第四に「そんそう回向」(還相回向カ)。この中で、最も助かり易い
回向は、「ぢきしゅつ回向」である。」
と、答えます。聞いたかい月は、
「その回向では、どのような経を読むのか。」
と更に問い詰めました。ろうれつは、
「おうおう、何ということだ。六字の名号の外に、唱えるべき文言などありはしない。
六字の名号こそが、第一の回向である。」
と言い切りましたが、かい月は食い下がって、
「すべての諸経は、釈迦一代のお示しであるのに、念仏とは何事だ。」
と、怒鳴りました。ろうれつは、少しも騒がず、からからと笑うと、
「よっく聞けよ。六字の名号の「阿」の字一字に、十万の三世の諸佛。「弥」の字には、
一切の諸菩薩が。「蛇」の字には、八万諸正経が封じ込まれているのだぞ。どうだ、どうだ。」
と説くのでした。しかし、かい月は、しつこくも、
「やあ、ろうれつ。この生道心め。念仏の六字ぐらい知ってるおるわい。諸々の諸経を
広めた釈迦如来は、一切の事物の父母ではないか。阿弥陀仏ばかりを頼んでいたのでは、
成仏などできっこあるまい。」
とたたみ掛けます。ろうれつは呆れて、
「お前は、くだらないこと言うな。私は、釈迦を捨てる等と言った覚えは無い。六字の
名号には、釈迦諸菩薩も籠もっているのだ。大乗の心は、三神一仏を崇め申し上げるのだ。
三神とは、弥陀、釈迦、大日であり、この三仏を一仏と見るのだから、お前のように、
阿弥陀仏を遠ざけては、釈迦をも遠ざけることになるではないか。さあ、今からは、強
情なことはやめにして、愚僧の教えに従いなさい。」
と、諭すのでした。すると、弁舌盛んなかい月も、とうとう言葉に詰まって、
「ええ、お前のような悪僧は、仏法の外道だ。その首、捻切ってやる。」
と、ろうれつに飛びかかりましたが、その場の公家大臣が、取り押さえました。
ろうれつが、
「如何に、かい月。このような大事の御法事に当たって、埒もない言い争いは、慎みなさい。
先ずは、御法事をしっかり勤め、それからは、好きなようにしなさい。諸佛の目の前に、
大仏法に悪を為すような外道を、どうして諸佛が許し置くことがあろうか。よっく観念
しなさい。」
と言うと、突然、御殿が振動し、黒雲が辺りを覆いました。すると、金色の名号が、燦
然と顕れたのでした。今度は、その名号が、忽ち六色の悪鬼に化身すると、かい月に向かって、
「如何に、かい月。お前は、道者を嫉む悪人。今現在、六道の苦しみを見せてやる。」
と、その場で地獄の猛火を吹きかけました。猛火に包まれたかい月は、苦しみの余り、
「この悪い口の為に、あなたを誹ってしまいました。どうぞ、お助けを。」
と、血の涙を流して謝るのでした。ろうれつは、哀れに思って、
「只、南無阿弥陀仏えお唱えなさい。」
と諭しました。かい月が、必死に南無阿弥陀仏を唱えると、どうでしょう。猛火は忽ち
に消え去り、悪鬼は元の六字に戻って、再び燦然と輝くのでした。やがて六字の名号が
消え去ると、今度は、かい月が、無碍光如来に変じて、光明を放ち始めたのでした。
かい月が仏になったと、皆一同に驚き、帝、ろうれつを初めとして、皆、礼拝をされた
のでした。帝は、ろうれつの働きに感心して、
「この度の奇特の勤めは、大変ご苦労でした。今より、あなたの名を、崙山上人と改め
なさい。寺を建立してあげましょう。」
と、有り難いお言葉を下されました。そこに、稲垣與一が参内して、崙山上人の出自や
玉若殿の事等を奏聞しますと、帝は叡覧なされて、玉若も参内させました。そして、
玉若を日向の三郎元義と名付けて、大和の国に七万町をお与えになったのでした。
こうして、人々は、老母を伴って、大和の国に帰ることとなりました。かの崙山の
有様は、前代未聞の知識の誉れであると、有り難いとの何とも、申し様も無い次第です。
つづく