毘沙門の本地 ④
哀れなことに、姫宮は、金色太子のことを、片時も忘れず、明け暮れ太子の帰りを待ち続
けています。しかし、波濤を隔てる遠い国への旅ですから、便りもありません。余りの悲し
さに姫宮は、女房達を伴って、南面に出て空を見上げるばかりです。すると、どこからとも
なく、一群の渡り鳥が飛んで行くのが見えました。姫君は、つくづくとご覧になり、
「あれを、ご覧なさい。今、飛んで行く渡り鳥は、風に誘われて、万里の距離を、思うまま
に飛び回ります。なんと、恨めしいことに、私は女として生まれ、只、後宮の中で、心の
慰める事もないままに、物思いに沈む毎日を過ごす外ありません。ああ、あの鳥が羨ましい。
私も、摩耶国へ飛んで行き、恋しい人に逢うことができたなら、こんなに苦しむこともないのに。
ああ、懐かしの金色太子様。」
と嘆くのでした。女房達は、承り、
「仰ることは分かりますが、太子と交わされた兼ね言を信じて、今の苦しい時をお忍び下さい。」
と、励ますのでした。姫宮は、涙を抑えて、
「そうではありますが、交わした約束は、三年目には帰るということでした。もう四年目の
夏を迎えるというのに、太子はまだ、帰りません。最早、討たれて、お亡くなりになってし
まったのかもしれません。」
と言うと、法華経の転読をなされ、頓証菩提(とんしょうぼだい)と回向すると、虚空に
向かって礼拝するのでした。すると、俄に紫雲が棚引いて、異香が漂いました。若い男を
先立てて、菩薩の主従が、東を指して通って行ったのでした。姫君は、不思議に思って、
明王鏡(めいおうきょう)を取り出して見ると、若い男は、金色太子ではありませんか。
姫君は、驚いて、
「のうのう、皆の者、見てご覧なさい。ここに映っているのは、恋しき人の姿です。きっと
私を恋しく思って、鏡に映ったに違いありません。しかし、これは、後世へと飛んで行く
とのお知らせなのでしょうか。もし、そうであるなら、このお姿を消さないでおいて下さい。」
と、鏡を抱きしめましたが、やがて、その姿は、紫雲と共に消えて行きました。すると今度
は、鏡の裏に施してあった、鶴亀の彫り物が、外れ落ちると、天へと飛び去って行ってしま
ったのでした。これを見た姫君は、もう太子は死んでしまったのだと思い込み、天を仰ぎ、
地に伏して、消え入る様に泣くばかりです。女房達も、姫宮と共に悲しみに暮れて泣くほか
ありません。そうして、積もる思いは、とうとう姫宮を病に落として行ったのでした。王様
もお后様も、必死の看病に当たり医術を尽くしましたが、容体は重くなるばかりです。とう
とう、最期の時がやってきました。姫宮は、
「父母様、お聞き下さい。私は、重い病のため、これから冥途へと旅立ちます。私こそ、
後に残って、父母の菩提と弔うべきなのに、老少不定(ろうしょうふじょう)の現世ですか
ら、残念ながら、私が先に行くことをお許し下さい。逆縁とはなりますが、亡き後の弔い
を宜しくお願いいたします。名残惜しい、父母様。女房達よ、お暇申し上げます。ああ、
恋しい太子は、何処に居るのですか。」
と、言い残すと、十七歳の生涯を閉じたのでした。王様もお后様も、姫宮の死骸に取り付いて、
「これは、なんということか。百歳にも近い我々を残して、どうしろというのか。どうせ
行く道ならば、どうして一緒に連れて行ってくれないのだ。」
と、姫の顔に顔を押し当て、死骸を押し動かして、嘆き悲しむのでした。やがて、家臣達は、
「どんなに嘆かれても、姫宮はお帰りにはなりません。さあ、早く供養をしてあげましょう。」
と、集まって、姫宮の遺体を抱き上げると、野辺の送りをしたのでした。兎にも角にも、
姫君の御最期は、哀れと言うも、まったく言葉もありません。
つづく