猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(3)

2014年03月22日 21時54分35秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(3)

  その日の夜更け、人々の物音も静まりました。姫御前は、山田の教えに従って、馬屋の忠太の所へ落ち延びて、その戸をとんとんと叩きました。内より、

 「誰ぞ。」

 とあれば、姫君は、

 「村松の姫です。どうかお助け下さい。」

 と、頼みました。ところが、忠太は、戸を開けもせず、

 「何、忌まわしい姫御前か。大納言や中納言が流されたのも、お前のせいじゃ。二人の親が死んだのもお前のせいじゃぞ。ここに入れる訳にはいかん。どこにでも落ちて行け。」

 と、情け容赦も無く、追い払うのでした。

  可哀想に姫御前は、都は西の方と思い定めると、一若を抱いてとぼとぼと、山の中へと分け入りました。それと見ると、忠太は情け無くも、曾我の陣営に走り行き、

 「村松の娘が、私を頼みに落ち延びてきましたが、追い払いました。まだ、大山(おおやま:神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市)の辺りをうろうろしていると思いますので、姫が欲しいのなら、追っ手をお掛けなさい。」

 と、密告するのでした。曾我は、これを聞いて、早速に追っ手を差し向けました。すぐに、追っ手は姫を追い詰めました。追っ手の声を聞いた姫御前は、驚いて逃げ回りますが、三昧原(さんまいばら:墓場)に紛れ込んでしまいました。そこには、新しい棺桶がひとつあるのが見えました。急いで、棺桶を開けてみると、死人が一人入っています。外に隠れるところもありません。姫君は一若を抱いて棺桶に隠れました。息を潜めて、耳を澄ませておりますと、追っ手の者共がばらばらとやってきました。

 「きっと、この墓場辺りに隠れているに違い無い。」

 「この棺桶が怪しいぞ。」

 追っ手の者が、棺桶の蓋を開けようと近付くと、一若が目を醒ましてむずかり、泣き出しました。

 「やはりここだ。」

 と、棺桶の回りに、皆が集まりました。その中に以前は村松の家来だった金八と言う者は、

 『ここで、姫君が見つかっては、可哀想だ。なんとか落としてやりたい。』と思い、とっさにこう言いました。

 「いやいや、お待ちなさい。皆さん良く聞いて下さいよ。只今の一声の泣き声は、姑獲鳥(うぶめ)が泣いた声ではありませんか。気をつけた方がいいですよ。姑獲鳥が人に取り憑けば、三日の内には、命がありません。その上、死人に触るならば、七日の汚れとなります。この正月の初めから、人に忌まれてはしょうがありませんよ。さあさあ、皆さん。離れて下さい。危ない。危ない。」

 これを聞いた人々は、怖ろしくなって、我も我もと、逃げ去って行ったのでした。やがて辺りは又、静かになりました。

 難を逃れた姫御前は、棺桶から出ると、再び都を指して歩き始めました。七日目に、清見関(きよみがせき:静岡県静岡市清水区)まで辿り着きました。姫御前は、

 「ああ、父母が亡くなってから、今日でもう七日。なんと哀れなことでしょう。」

 と言うと、近くの寺を訪ねて、小袖の褄に

 『玉手箱 蓋、身は失せて 哀れにも 甲斐無く残る 掛け子ばかりぞ』

 と書き記すと、御僧に献上し、供養を願いました。やがて、初七日の法要を済ませると、姫御前は、泣く泣く寺を出立し、それから三十日めには、大津の浦(滋賀県大津市)で有名な長太の宿に着いたのでした。宿の女房が、

 「何処においでだね。」

 と尋ねれば、姫君は、

 「私は、相模の者。以前、国司として下向された御方がこの子の父です。その父に会うために、都に上がるのです。」

 と、正直にも答えるのでした。長太は、これを聞くとにやりとし、

 「関山三里と言いまして、逢坂は、大変な難所ですぜ。どうです、舟で送ってあげましょうか。」

 と、騙しました。道を知らない姫君は、喜んで舟を頼みました。なんと労しいことでしょう。さて、明けて七つの鐘(午前4時)が鳴る時分のことでした。姫御前達は、浜地に降りて、恋しき都とは、別の方向へと、湖に漕ぎ出して行ったのでした。長太は、海津の浦へと漕ぎ付けると(滋賀県高島市)、今度は馬に乗せて、敦賀まで連れて行きました。(福井県敦賀市)長太は、敦賀の人買い源三の宿に姫御前を降ろすと、値踏みを始めました。源三は、

 「むう、見目形はよろしいが、ガキが余計だな。そんなに高くは売れまい。」

 と言います。長太はこれを聞くと、

 「そんなら、舟に乗せる時に、海へ捨ててしまえ。」

 と、情けのかけらもありません。これを、聞き付けた姫御前は、間の障子をからりと開けて、

 「ええ、なんと情け無い。都へ送ると偽って、人売りに売り渡すのですか、恨めしい。売るなら二人一緒に、何処へでも売って下さい。しかし、若を殺すなら、私も生きてはいません。」

 と、涙ながらに訴えるのでした。二人は、それは道理だと納得し、絹十疋で手を打ちました。それから、長太は大津に帰りましたが、姫御前は、三国(福井県坂井市)に連れて行かれて、更に絹十五疋で売られました。その次は、宮越(石川県金沢市金石町)、あちらこちらと売られ買われて、越中の六渡寺(ろくどうじ:富山県射水市)へと売られました。六渡寺の七郎は、越後の国に連れて行き、直井の次郎に売った時には、絹五十疋になっていました。

  姫御前は、過酷な生活の中で、こう考えて耐えて居ました。

 『一若がせめて、七歳になるまで、我慢して生きて行こう。七歳になったなら、出家をさせ父母の菩提を弔わせ、私はどうなろうとも一若は、父の中納言と、再び巡り逢う日もあるのに違い無い。』

 直井の次郎は、人売りにしては、情け深い人でした。姫御前の様子を見ると、心の中で、こう思いました。

 『むう、この姿は、普通の人とも思えない。又、重ねてその辺の人売りに売るのなら、どこまでも流れて行くことだろう。それでは、あまりに可哀想だ。そうだ、陸奥の国の武井殿は、有徳な方と聞く。美しい女を買い留めて、情けを掛けて遣っているとのことじゃ。よし、武井殿の所に売ることにしよう。』

  直井の次郎は、姫御前に美しい小袖を着せると、馬に乗せ、一若は、男に背負わせて、陸奥の国へと向かいました。武井の館に着くと、直井の次郎は、

 「私は、直井の者ですが、武井殿の家は、大変目出度い家であり、美しい女を買い留めて召し遣われると聞きましたので、女をこれまで連れて参りました。ご覧下さい。」

 と、言いました。武井はこれを聞いて、

 「越後の国から、遙々と、この国まで尋ねてくれたのですか。有り難い事です。」

 と、見れば、たいした美人です。武井は、

 「長旅で、お疲れでしょう。内へ入れて、おもてなしをしなさい。」

 と言うと、武井は、直井の次郎を呼び寄せて、当座の褒美として、野取りの馬を十匹。上々の絹二百疋を与えたので、直井の次郎は、喜んで飛び上がり、そのまま越後へと跳んで帰ったのでした。

 つづく

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忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(2)

2014年03月22日 19時23分29秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 むらまつ(2)

 さて、相模の国には、曾我の四郎介又という武士が居ました。介又は、妻に先立たれて、荒んだ生活をするようになっていました。一門の人々は心配して、こんな事を言いました。

村松殿の娘は、大変美しいと聞きます。この姫を後添えとされては如何ですか。そうすれば、心も慰められるでしょう。」

 これを聞いた介又は、それは良いと思い、文を書いて、村松に送りました。村松が、この文を開いてみると、姫が欲しいと書いてあります。村松は、大変立腹して、文を引きちぎって捨てました。村松はこの事を姫御前には知らせませんでした。介又からの手紙は七回に及びましたが、村松は、一度も返事をしませんでした。業を煮やした介又は、一門を集めると、

 「村松へ押し掛けて、姫を奪い取ることにする。」

 と、言いました。文の返事も来ないと聞いた一門の人々は、

 「それは、尤もだ。にっくき村松。」

 と言うと、土井、土屋、岡崎、真田、安達を先頭に、その総勢千五百が、十二月の大晦日に、村松館へと押し寄せたのでした。寄せ手の軍勢の中で、一際華やかな鎧を着た介又は、馬に跨がり、門外に駆け寄せると、

 「ここまで来た強者を誰と思うか。曾我の四郎介又であるぞ。姫をいただきたいと、何度もお願いしたが、返事も無し。どうしても、姫を下さらないならば、攻め込んで奪い取る。」

 と、大音上げて呼ばわりました。城内からは、

 「にっくきものの言い様だな。姫が欲しいなら、もっと近くに寄ってみろ。介又の細首を射切ってやるから、あの世で待っておれ。」

 との返答です。寄せ手の軍勢は、何をこしゃくなと、ここを先途と四方より揉み合い、攻め込みますが、櫓より狙い撃ちに射られて、あっという間に十三騎が落とされ、怪我人は夥しい数です。そうして、その日が暮れましたが、城内の負傷者はゼロでした。やがて明ければ正月元旦。介又は、新たな軍勢五百余騎を引き具して、攻め続けましたが、この日も大勢が討たれて、敗退するのでした。しかし、中村、早川、安達など、更に新手の軍勢を投入して、正月五日まで攻め続けたので、流石の村松軍も、六十三騎が討ち死にし、次第に劣勢に傾きました。そこで、村松殿の弟で、心も剛で大力の山田の七郎家季(いえすえ)は、

 「いざいざ、勝負してくれん。」

 と立ち上がりました。その山田の装束は、先ず白綾の肌着をひと重ね着て、緋精好(ひせいごう)の大口袴をはいています。褐(かちん)の直垂に括り(くくり)を結って、梅の腹巻きに黒糸縅の大鎧を二重に重ねて、はらりと着て、五枚兜の緒をしめるのでした。背には四十二に裂いた矢を背負い、塗り籠め籐の弓は五人張りです。四尺五寸の太刀を差して、大薙刀を杖に突くのでした。山田家季は、広縁にずんと立つと、

 「わしが、ひと合戦いたす。橋を渡せ。」

 と、下知しました。城内の軍兵は、えいとばかりに橋を打ち渡しました。しかし、寄せ手の軍勢も、これ幸いと、乱入してきます。山田は、これを見るなり、五人張りの弓で、十四束(約120センチ)の矢を、次から次へと射放って、あっという間に、四十六騎を討ち落としました。しかし、寄せ手の軍勢は、怯みもせずに押し寄せます。これを見た山田は、大薙刀を手にして、いよいよ橋の上に飛んで降りました。山田が大薙刀をぶんまわして、はらり、はらりと切り伏せたので、さすがの寄せ手もたまりません。どっと、退却したのでした。山田も一旦城内に戻り、一息つきました。その時、村松は櫓の上で、四方の様子を覗っていたのですが、一本の矢が、狭間をくぐり、村松殿にはっしと突き刺さったのでした。村松殿は、あっとばかりにもんどり打って倒れました。村松は、山田を近くに呼び、

 「最早、腹を切るぞ。防ぎ矢をいたせ。」

 と、命じました。嘆き悲しむ姫君に向かって、村松が、

 「姫よ。これから、都へ行き、五条の大納言を訪ねよ。大納言の御台様に会って、この事をしかと伝え、父母の菩提を弔ってもらいたい。宜しく頼む。」

 と言うと、母上は、

 「のう、姫君よ。父の仰せに従って、五条壬生に行き、一若をしっかりと育てなさい。そうすれば、きっと恋しき中納言殿とも、いつかは会うことができるでしょう。さあ、名残は惜しいが、親子の別れの時です。一若を今一度、この世の名残に見せておくれ。」

 と、言って一若を抱き寄せました。母上は、一若の後れの髪を掻き撫でて、

 「後世を頼みますよ。一若。」

 と言って泣き崩れました。村松は、山田に、

 「さあ、姫を、乾(北北西)の隅の深い茂みの中に隠してくれ。」

 と頼むと、山田は、姫を小脇に抱えて、小深い茂みの中に隠しに行きました。山田は、

 「姫君、よくお聞き下さい。これから、この城に火を掛けて、全員切腹いたします。そうすれば、敵は、ここまでは来ない事でしょう。夜も更け、人々の物音も静まりましたら、忍び出て、城外の馬屋に住む、忠太をお訪ね下さい。」

 と、丁寧に落ち延び先を教えると、山田は城へと戻りました。姫を無事に隠したことを確認した村松夫婦は、

 「よし、それでは、腹を切る」

 と、西に向かって手を合わせて祈りました。

 「南無や西方、弥陀如来。この世の縁は薄くても、同じ蓮の蓮台にお迎え下さい。南無阿弥陀仏。」

 そして村松は、刀をするりと抜き放って、左の脇にぐっと突き立てました。村松が、右に刀を、ぐぐっと引き回すと、女房は、

 「極楽へ行かれたようですね。村松殿。しばらくお待ち下さい。三途の川を一緒に渡りましょう。」

 と、自分も胸元に刀を突き立てて、明日の露と消えたのでした。山田は、これを見届けると、

 屏風や障子に火を付け、腹を十文字に掻き切りました。その上、念仏を唱えながら、臓物を手で引き出して、ぶちまけましたが、ほんとに剛胆な者というのは、それでも死なないものです。乱入してきた寄せ手の軍勢の中に割ってはいると、武者二人を引っ掴み、両脇に掻い込んで、そのまま炎の中へと飛び込んで行ったのでした。最後の最期まで戦い抜いた山田の姿に、目を驚かさない者はありませんでした。

 つづく

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忘れ去られた物語 28 古浄瑠璃 村松(1)

2014年03月22日 12時09分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 古浄瑠璃正本集第1(6)として収録されているのは、「むらまつ」である。寛永十四年(1637年)に、京都の草紙屋太郎左衛門から出版されている。内容的には、既に流布していた説経のモチーフを散りばめているが、全体に言葉遣いや話の展開がぞんざいに感じる。その太夫は不明である。

  ところで、この物語には、おそらく元になったと思われる伝説がある。宮城県気仙沼の羽黒神社(宮城県気仙沼市後九条271)を中心とした伝説を先に見ておこう。

 今からおよそ千百六十年前、嵯峨天皇の弘仁年間、五條民部中納言菅原昭次卿が行くえ知れずとなった妻子(玉姫と一若)を捜し求めて、陸奥の国にやってきた。そこで、神頼みをしたのが、羽黒権現だった。すると二羽の霊鳥が導案内に飛び立ち、今の 陸前高田市米崎町あたりに着くことになる。そこでなれない田植え仕事をしている妻子とめぐり逢えたという話だ。 昭次卿は羽黒権現の神恩に感謝し、当時は 小さな祠であったのをりっぱな社殿とし、 玉姫の守り本尊であった聖観世音像をお祀りして神社を中心に地域の発展に尽くしたのだという。現気仙沼高校付近は昭次卿のやしき趾であったといわれ、卿を祀る祠があるとのことである。また羽黒神社の南西にある 大塚神社は昭次卿の墓所といわれており、この辺一帯を中納言原と呼んだということである。つまり、現在の気仙沼の発祥の伝説が、この中納言伝説である。

 むらまつ(1)

   五条壬生(京都市下京区)の大納言は、中納言殿をお育てになられました。その乳母である蔵人というのは、この私です。

  実は大納言殿は、嵯峨天皇にお仕えになられ、津の国(大阪:兵庫)播磨(兵庫)近江(滋賀)の三カ国を知行されて、何の不自由もありませんでしたが、三十路になられてもまだ、お子様が一人もおいでになりませんでした。そこで、大納言殿は、日吉大社(滋賀県大津市坂本)に参籠されて申し子をなされたのです。深く祈誓なされたので、その霊験が現れて授かった御子が、今の中納言殿なのです。

  さて、この中納言の后として、四条大宮(下京区)の大臣に娘を迎えることになりました。ところが、どういう訳か、中納言は気に入らず、すぐに大宮へ送り返えしてしまったのでした。そして、出家をしたいと言い出しました。ようやく授かった跡取りを出家にする訳には行きません。困った父の大納言は、様々と手を尽くして、なだめますが、中納言はにこりともしません。この事を聞き及んだ御門は哀れんで、

 「人の心を、慰めるのであれば、国司にさせるのが一番良いであろう。東にある相模の国は、心の優しい国であると聞いておる。中納言には相模の国、大納言には、武蔵の国の国司をそれぞれ三年の間、任命するから、向こうでゆっくりして参れ。」

 との宣旨をくだされたのでした。そこで、大納言、中納言親子は、相模と武蔵に下向されたのでした。

  さて、相模の国の住人に、村松という家がありました。その家には、都でも見つからない程大変美しい娘が居りました。やがて娘は、中納言と仲良くなり、子供ができました。この子の名を一若と言います。中納言の御寵愛は、ますます深くなりましたが、三年の任期は既に過ぎ、もう五年もの月日が流れてしまったのでした。都からは、早く上洛せよとの勅使が何度も来ましたが、大納言だけを上洛させて、中納言は尚も相模に留まったので、とうとう御門の逆鱗に触れてしまいました。

  大納言は既に、沖の嶋(福岡県)に流罪となり、今は、中納言を連行するために、都より梶原判官家末と館の判官満弘が、三百余騎を引き連れて、相模の国へ押し寄せていました。

 「御上洛なさらない科により、お迎えにあがりました。」

 これを聞いた中納言は、御台所に向かって、

 「私が、都へ戻らないので、父大納言は、沖の嶋へ流罪となられた。私も同じ島へ流罪となる。もう、おまえと話すことも、一若を可愛がることもできない。手紙を出すことすらできない離れ小島だ。悲しいことだが、なんとも、もう逃れようも無い。」

 と言うと、一若を膝に抱き上げ、

 「父が姿を、よっく見よ。」

 と、涙に暮れるのでした。いじらしいことに一若殿は、何のことかは分かりませんでしたが、

 「父上、のう。」

 と言って、一緒に泣くのでした。御台所は、これを見て、

 「これは、なんと情け無い事になったのでしょうか。都へ帰られることすら、悲しいことなのに、聞いたことも無い離れ小島に流されるとは、その沖の嶋とやらに、私も一緒にお供いたします。虎伏す野辺の果てまでも付いて行きます。」

 と、泣き崩れました。村松夫婦も涙に暮れる外はありません。中納言は、

 「おお、なんと頼もしい言葉であろうか。しかし、流罪とは、単なる旅とは違うのだぞ。家族連れで流罪ということは許されることでは無い。もしも、都へ戻ることがあれば、又必ず巡り逢うことだろう。お前の心が変わらなければ、一若を形見と思って、七歳になるまでは待っていてくれ。さて、村松夫婦よ。一若が育ったならば、出家をさせて、私の弔いをさせて下さい。」

 と頼むのでした。その時、迎えの人々が、縁先まで来て、

 「早く、おいで下さい。」

 と催促するので、中納言は涙と共に立ち上がりました。可哀想に御台所は、多くの武士に連れられた中納言の袂に縋り付いて、泣きじゃくるのでした。やがて、武士達が中納言を馬に乗せますと、名残の一首を詠みました。

 『命あらば またもや君に 逢うべきと 思うからにこそ 惜しき玉の緒』 玉の緒=命)

御台所は、

『慰めに 命あらばの 言の葉を 答えん隙も 無き涙かな』

と返歌したのでした。互いに見つめ合う内にやがて、馬は門外に引き出されました。人々は別れを惜しむ涙に咽ぶのでした。

さて、村松殿は、小田原まで送り別れました。それから一行は駒を速め、十三日目には、大津の浦に到着したのでした。すると、都からの勅使が来ました。勅諚は、

「これより、伏見へ行き、そのまま舟に乗せ、沖の嶋に流罪とせよ。」

と、いうことでした。宣旨に従って、中納言は、伏見から舟に乗せられ、とうとう大納言の居る沖の嶋へと流されたのでした。島の粗末な伏屋で、親子は手を取り合って泣くより外はありません。大納言は、

「もうこうなっては、一度は捨てられた神や仏に、再び祈りを掛ける外はあるまい。」

と言うと、山王権現(日吉大社の神)の神像を作り上げ、毎日、体を清めては、

「都に帰して下さい。」

と、伏し拝み祈るのでした。なんとも哀れな次第です。

つづく

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