御伽草子や浄瑠璃等、様々なジャンルで取り扱われた人気の題材である。説経独自の物語
とは言えないだろうが、かなり古い年代から古説経に取り上げられていたことは、間違い無い。説経正本集第3(44)に収録された本正本は、所属も刊期も不明で有る。
こあつもり ①
源氏と平家の両家というものは、鳥の二つの羽交いのようなものであり、又、車の両輪
が回る様に天下を治めて来ました。一度は、源氏が打ち負けて、平家統一の世の中となり、
源氏の八男、九郎判官義経は、奥州の秀衡(ひでひら)を頼みとして、逃れていました。
しかし、今度は源氏方が、とうとう都を撃ち破ったので、平家の人々は、哀れにも、一ノ谷
へと落ち延びて行ったのでした。義経は、この様子を見て、
「平家の奴らめ。高麗(こうらい)、契丹(きったん)まで逃げても、攻め殺してくれる。」
と思い。元暦元年(寿永3年:1184年)二月七日に、一ノ谷の鉄拐山(てっかいさん)を
攻略したのでした。平家の人々は、ひとたまりもなく、皆、屋島へと落ちて行きました。
その日に落ちていった部隊は十六組と伝わっていますが、その中でも、特に哀れだったのは、
平清盛の弟である経盛のご子息、無冠の大夫敦盛殿でした。
敦盛の北の方は、二条の按察使(あぜち)大納言資賢(すけかた)の姫君でありました。
何時のことでしたか、御室の御所(仁和寺:京都市右京区)にて、毎月の管弦が行われる時、
敦盛は笛を勤め、姫君は、御簾の中で琴をお弾きになりました。敦盛は、その姿をつくづく
とご覧になって、文を通わせ、恋文を遣って、遂に夫婦となったのでした。この二人のご様
子を例えるなら、天においては比翼の鳥、地にあっては連理の枝。偕老同穴の語らいも、こ
の二人の睦まじさには、かなうものではありませんでした。
敦盛は、西国へと下り行く時に、姫君に近付いて、
「御台よ。私は、これから西国へと落ち延びる。屋島にまで下るならば、討ち死には、必定
である。お前の胎内には、七ヶ月半の嬰児がいるが、もし男子ならが、この黄金造りの佩刀
(はかせ)を取らせよ。又、女子ならば、十一面観音を肌の守りとして残し置く。形見など
残すと、亡き後に思いの種を残すとも言うけれど、父の形見として、見せる様に頼んだぞ。
名残は惜しいけれど、お暇申す。さらば。」
と言い残して、ご一門と共に、落ち延びて行かれたのでした。
さて、話を一ノ谷の合戦に戻します。奇襲に圧倒されて、落ち行く時に敦盛は、一ノ谷
の内裏に、笛を忘れてきたことに気が付きました。笛など捨てておけば、このようなことに
は、ならなかったのでしょうが、ご運が尽きてしまった悲しさでしょうか。そのまま捨て置
いては、一門の名折れとお思いになって、笛を取りに戻ったのでした。さて、平家方の御座
船は、その間に、遙かの沖へと漕ぎだしてしまいました。仕方無く敦盛は、塩屋の方を目指
して、波打ち際を、駒に乗って落ちて行くのでした。
そこに通り掛かったのは、武蔵国の住人、熊谷次郎直実でした。直実は、一ノ谷の先陣
を切りながらも、大した高名も上げぬままでしたので、大変残念がっていました。もし、
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