猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 31 古浄瑠璃 大橋の中将 ②

2014年05月31日 11時47分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ちゅうじょう ②

  梶原源太景季は、中将殿を連れて、鎌倉へと向かうことに成功したのでした。

以下道行き》

 今ぞ、心を筑紫潟(有明海)

 名残の舟に取り乗り

 春風に帆を上げ

 浦々島々、打ち眺め

 波風に漂いて

 堺の浦に着き給う(大阪湾)

 堺、久しき、住吉の(住吉大社)

 松も昔と、打ち眺め

刧は経るとも尽きずまじ

亀井の水の流れ絶えぬぞ(天王寺七名水のひとつ)

尊っとかりけると、天王寺を伏し拝み

名所旧跡、里々を

打ち過ぎ行けば、これやこの

実に誠、世の中の

濁り無き身を石清水(石清水八幡宮)

神ものうじゅうしませと(?)

八幡の山を伏し拝み

時雨に染むる秋の山

急がせ給いける程に

 早や九重(京都)に入りぬれば

 はくしゅのちんしゅ(?)をふし拝み

 又、憂き事に粟田口(京都市東山区)

 大津の浦を早や過ぎて(滋賀県大津市)

 瀬田の唐橋、打ち渡り

 消ゆる思いは、草津の宿(滋賀県草津市)

 番場、醒ヶ井、柏原

 垂井、赤坂、打ち過ぎて(岐阜県大垣市)

 尾張の国に聞こえたる

 熱田の宮に祈誓を掛け(熱田神宮)

 憂き身は、何と鳴海潟(名古屋市緑区)

 三河の国や遠江(愛知県東部)

 尚、憂き旅を駿河なる(静岡県)

 富士の煙と余所に見て

 月も雲間を伊豆の国

 足柄、箱根、早や過ぎて

 急ぐに程無く、鎌倉にこそ、着かれけれ
Tyuu3

 さて、源太は鎌倉に着くと直ぐに父景時に、報告しました。喜んだ景時は、急いで御前に飛んで出ると、中将捕縛の報告をしましたが、頼朝は、

 「対面するまでの事も無い。そちに任せる。」

 と、だけでした。梶原は、急遽、牢屋を造らせると、そこに中将を押し込めておくことにしました。中将の牢生活は、その後十二年にも及ぶのでした。

  さて、一方、哀れだったのは、筑紫に残された御台所です。御台所は、中将殿の近況を風の便りに聞いて、悲しみに暮れる毎日でしたが、いよいよ、十月十日を迎えて、ご出産なされました。生まれたのは玉の様な男の子でした。名前は、摩尼王(まにおう)殿と言います。

Tyuu4

 摩尼王が七歳になった時、御台様は、

 『中将殿はが、鎌倉へ行かれる時に、言い残したことは、生まれた子が、男子であるなら出家させて、菩提を弔わせよということで会った。』

、思い出して、摩尼王を寺入りさせることにしたのでした。御台様は、九州で一番の学者が居るとされた鹿児島の光雲寺を選ぶと、下人の子ではありましたが、同年の「松若」をお供として付けて、送り出したのでした。

Tyuu5

  そうして寺入りした摩尼王殿は、まじめに学問に励んでおりましたが、その寺に居る沢山の稚児達は、摩尼王のことを、「親無し子」と指差して、何かに付けていじめるのでした。可哀想に摩尼王殿は、とうとう堪りかねて、里に戻りました。摩尼王殿は、母上に、

 「天地は陰陽和合と習いました。父と母が無くては、私は生まれません。私の父は、どこにいらっしゃるのですか。」

 と、流涕焦がれて縋り付くのでした。御台様は、何とも言葉に窮して、只泣くばかりでしたが、やがてこう話すのでした。

 「おお、その不審は、もっともじゃ。お前の父親というのは、この国を治めていた大橋の中将という、それはそれは立派な武将なのですよ。しかし、中将殿は、鎌倉殿の御機嫌を損じて、鎌倉へ送られました。もう死んでしまったのか、未だ生きていらっしゃるのかすら分からないのです。お前を寺に上がらせたのも、良く良く学問を究めて、お経を覚えて、父の菩提を弔う為なのですよ。」

 御台様の心の哀れさは、申し上げる言葉もありません。

 つづく

 


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