真宗のご本家、東本願寺は、親鸞伝の最高峰である「親鸞伝絵」以外の親鸞伝を、極力排斥した。親鸞に関する人形操りの上演中止どころか、正本の出版すら禁止したのである。これは、説経が寺社仏閣と仲良しなのと対照的なことである。説経者は、例えば関蝉丸神社に身分的に属していて、上納金も納めていた。納めなければ、興行は出来なかったからである。説経者はその点、定められたメッセンジャーであったのかもしれない。これは、単なる想像だが、浄瑠璃者は、そういう意味で自由者だったのかもしれない。東本願寺は、神聖な親鸞伝が、文芸的に書き替えられて行くのも我慢できなかったし、有料のありがたい『親鸞伝絵』を自分たちで、独占しなければならなかった。しかし、親鸞記物は、名を変え、品を変えて次々と世に送り出されたようである。裏を返せば、親鸞上人には絶大な人気があって、ドル箱だったということが言えるのだろう。
古浄瑠璃正本集第1の13には、版元も刊期も太夫も不明の古活字本「しんらんき」(龍谷大学蔵)が収録されている。古活字であることから、寛永年間(1630年代)の作品と推定されている。
しんらんき①
天竺(インド)では天親(てんしん)菩薩、唐土(中国)においては、曇鸞(どんらん)がいらっしゃいますが、日本では、天親の親と、曇鸞の鸞とを合わせて、親鸞上人がお生まれになったのです。その由来を詳しく尋ねることにいたしましょう。
さて、神武天皇より七十七代、後白河の院の御代のことです。天児屋命(あめのこやね)の末裔で、大織冠鎌足より二十一代、皇太后宮大進(こうたいごうぐうだいじん)日野有範(ありのり)という公卿がありました。有範卿には、子供が一人おりました。松若丸と言います。松若丸が九才の春のことです。有範卿は、こう考えました。
『さて、比丘(びく)は、洛陽の風の前で、生死の境を滅却するのだという。それに比べて、私は貪瞋痴(とんじんち)の三毒に迷い、煩悩に捕らわれて、彼岸へ到達することなど、覚束ない。我が子を慈鎮和尚(じちんかしょう:慈円)の弟子にすることで、これを菩提の種として、後世の成仏を願うことにしよう。』
そして、松若丸は、叡山へと送られることになったのでした。慈鎮和尚は、松若丸にご対面なされると、
「おお、なんと容顔美麗の子供であることか。どう見ても、只人には見えない。おそらくは、菩薩の再誕であろう。」
と、感嘆して、その場で出家させると、お名前を、善信房とお付けになったのでした。
ある時、慈鎮和尚のお歌が、都の噂となりました。その歌というのは、こうです。
「我が恋は 松の時雨の 染めかねて 真葛が原に 風騒ぐらん(なり)」(新古今和歌集1030)
あまりに評判になったので、御門までも、
「そもそも、知識の大僧正が、恋をすることがあるのか。それ、勅使を立てて、子細を聞いてまいれ。」
と、言う程です。その時、三条右大将が進み出でて、
「お言葉ですが、歌人というものは、『行かずして名所を知る』と言う喩えもありますので、一先ずは、座主(ざす)のお心を、お試しあってはいかがでしょうか。」
と進言しました。御門も、尤もお考えになり、「雪中の鷹」というお題を出されて、叡山へと送ることになったのでした。
慈鎮和尚は、「雪中の鷹」の題をご覧になると、すぐに一首、お詠みになりました。慈鎮和尚は、その一首を善信房に持たせ、勅使と共に内裏に向かわせました。さて、内裏では三条の右大臣が、慈鎮和尚の御歌を吟じました。
「雪降れば 身に引き添うる 鷂の(はしたかの) 手先(たなさき)の早や 白うなるらん」
この返歌に、宮中の人々は、大変感心し、御門は、遣いの善信にも、一首を所望したのでした。突然の勅宣に、善信は驚きましたが、即座に、
「鷂の 身よりの羽風 吹き立てて 己と払う 袖の白雪」
とお詠みになったのでした。御門は、この歌にも大変感心されて、善信の氏を問いました。善信坊は、若狭の守と答えたので、御門は
「おお、それでは、そのような立派な歌が詠めるのも尤もなこと。そなたの祖父も師匠も、世に抜きんでた歌人じゃからな。」
と、勿体なくも、身につけていた白い御衣を善信房に下されたのでした。有り難しと喜んだ善信坊は、その白い御衣を、襟巻きにされると、御前を下がったのでした。今日に至るまで御開山大上人の御襟巻きと言うのは、この襟巻きなのです(正しくは帽子(もうす))。誠に、仏様の化身であると、善信房を拝まない者はありませんでした。
つづく
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