【書評】日本を捨てよ
著者は「苫米地英人」氏(62才)だが、同氏の本を読むのは2書目なのだが、実は1書目は「イヤな気持ちを消す技術」という本だったのだが、読み始めて、脳の働きがどうだからこうだみたいな自説にちょっと付いて行けなくて、1/3程のところで読むのを諦めていた本だ。その同じ著者で表題の「日本を捨てよ」(初版2012年)を読み始めたところで、未だ1/3程度しか読んでおらず、完読していないながら、現在読む中で、なるほどと気付かされる問題を書き留めてみたい。
本書は初版本が2012年というところで、2011年の東北大震災と東電福島の国家緊急事態がやっと一段落したというところの記述なので、そんな災害の風景のことから書き始めている。
日本人は大災害にときも、さほど治安は乱れないで過ごしていることを、東北震災の被災者から引いている。つまり、他国だと、大災害の地は、無人化した商店などからの略奪などが当たり前だが、日本はそれが起きないことなのだ。その理由と、そのことが良い面と悪い面をそれぞれ持っていることを著者は述べている。もう少し具体的に記すと、被災地で、食糧不足だとか赤子のミルクもなく死の危険が迫っている中で、被災民は近くのスーパーの商品を略奪することは、緊急避難として法的には許されるはずなのにも関わらず、それをしないで、援助隊の来るのを待っている風景を異常ではないかと記しているのだ。
その理由として、日本は強い儒教に影響された社会だということを説として述べている。そして、儒教とは、君子(強いリーダーもしくは権力者)にかしずく、縦の社会だと述べている。また、日本は仏教の影響も受けているが、日本への仏教伝来は中国および韓国を経由した中で、オリジナル仏教は多分に儒教の要素が取り込まれた、儒教仏教となっており、本来の仏教とは相当に変移しているという説を述べている。この変形仏教は、日本だけでなく、中国や韓国など東アジア全域に影響を与えている。
次に、中国や韓国とさらに国民性を変えたのは、日本の山谷川などの地形からくる人流の少なさを上げている。その人流の少なさが与える効果の一つが方言というものだが、それはコンピュータシミュレーションしてみると、人口の30%を超える人流があれば、方言というのは生じないという説を上げる。つまり、現在は交通が発達したが、江戸時代以前は、大部分の村落民は、一生その生まれた地で過ごすことが、その地形などから極当たり前だったということを示している。そんな村民の自治意識の中で、村の掟を破った者には、村八分ということになるのだと説を上げている。この村八分という掟は、噛み砕いて見れば、相互監視社会だと云え、村民は、常に周辺の目を気にしながら、飛び出た行動を自制せざるを得ないのだと結論付けている。
もう一つ、先の大戦で特攻作戦が行われたことに触れ、欧米人は驚いているのだが、これも特攻兵に選ばれて、それを拒否したら、終生親子親類まで、引き続く一族の恥になると云う意識が強く生じていたのでないかと説を上げている。
と、この程度の段階までを読み進めているのだが、なるほどと私と同様に頷く方も多いのではないかと思える。未だ、完読した訳ではないけど、著者の「日本を捨てよ」とは日本を見限って他国へ移住せよと云うことではなく、その儒教と相互監視というべき因習に取り込まれた日本人の心を捨てよと結論付けたいということが予想できる。
完読の上で、再度この本の書評を改めて記す予定としたい。
著者は「苫米地英人」氏(62才)だが、同氏の本を読むのは2書目なのだが、実は1書目は「イヤな気持ちを消す技術」という本だったのだが、読み始めて、脳の働きがどうだからこうだみたいな自説にちょっと付いて行けなくて、1/3程のところで読むのを諦めていた本だ。その同じ著者で表題の「日本を捨てよ」(初版2012年)を読み始めたところで、未だ1/3程度しか読んでおらず、完読していないながら、現在読む中で、なるほどと気付かされる問題を書き留めてみたい。
本書は初版本が2012年というところで、2011年の東北大震災と東電福島の国家緊急事態がやっと一段落したというところの記述なので、そんな災害の風景のことから書き始めている。
日本人は大災害にときも、さほど治安は乱れないで過ごしていることを、東北震災の被災者から引いている。つまり、他国だと、大災害の地は、無人化した商店などからの略奪などが当たり前だが、日本はそれが起きないことなのだ。その理由と、そのことが良い面と悪い面をそれぞれ持っていることを著者は述べている。もう少し具体的に記すと、被災地で、食糧不足だとか赤子のミルクもなく死の危険が迫っている中で、被災民は近くのスーパーの商品を略奪することは、緊急避難として法的には許されるはずなのにも関わらず、それをしないで、援助隊の来るのを待っている風景を異常ではないかと記しているのだ。
その理由として、日本は強い儒教に影響された社会だということを説として述べている。そして、儒教とは、君子(強いリーダーもしくは権力者)にかしずく、縦の社会だと述べている。また、日本は仏教の影響も受けているが、日本への仏教伝来は中国および韓国を経由した中で、オリジナル仏教は多分に儒教の要素が取り込まれた、儒教仏教となっており、本来の仏教とは相当に変移しているという説を述べている。この変形仏教は、日本だけでなく、中国や韓国など東アジア全域に影響を与えている。
次に、中国や韓国とさらに国民性を変えたのは、日本の山谷川などの地形からくる人流の少なさを上げている。その人流の少なさが与える効果の一つが方言というものだが、それはコンピュータシミュレーションしてみると、人口の30%を超える人流があれば、方言というのは生じないという説を上げる。つまり、現在は交通が発達したが、江戸時代以前は、大部分の村落民は、一生その生まれた地で過ごすことが、その地形などから極当たり前だったということを示している。そんな村民の自治意識の中で、村の掟を破った者には、村八分ということになるのだと説を上げている。この村八分という掟は、噛み砕いて見れば、相互監視社会だと云え、村民は、常に周辺の目を気にしながら、飛び出た行動を自制せざるを得ないのだと結論付けている。
もう一つ、先の大戦で特攻作戦が行われたことに触れ、欧米人は驚いているのだが、これも特攻兵に選ばれて、それを拒否したら、終生親子親類まで、引き続く一族の恥になると云う意識が強く生じていたのでないかと説を上げている。
と、この程度の段階までを読み進めているのだが、なるほどと私と同様に頷く方も多いのではないかと思える。未だ、完読した訳ではないけど、著者の「日本を捨てよ」とは日本を見限って他国へ移住せよと云うことではなく、その儒教と相互監視というべき因習に取り込まれた日本人の心を捨てよと結論付けたいということが予想できる。
完読の上で、再度この本の書評を改めて記す予定としたい。