私の思いと技術的覚え書き

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プリンスというメーカー

2019-10-13 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 マニアでもない若い方にクルマでプリンスを問えば、ディーラー名称(それも昨今はレッド、ブルーの各ステージも自然消滅した感がある)と思っている方もいるだろう。しかし、歴とした日本第3位の車両メーカーたる「プリンス自動車工業」だったことはことは周知のことなのだ。惜しくも1966年8月1日に日産自動車と合併(実態は吸収合併だという)となり、メーカーは消滅してしまった。

 しかし、旧車マニアなら、R380から始まるレーシングカーとか、初代GTR(箱スカ)に搭載されたS20エンジンは、R380のエンジンを基本にディチューンドされていると知っている。それと、天皇の御料車は今はトヨタだが、先代の御料車は日産プリンスロイヤルという名称であったが、開発は総てプリンスで、納車は日産との合併後になった故、日産プリンスロイヤルになったという曰く付きのクルマだった。このことは、天皇用のおよそ最上級のクルマを宮内庁は御用達した訳だが、国産第3位のメーカーに発注しているということこそ、如何にプリンスというメーカーが皇室の信頼たるブランド力を持っていたかを証明するものだと思う。

 ところで、愚人はプリンスのことの始めは中島飛行機オンリーだと思い込んでいたのだが、実は立川飛行機も絡んで立ち上げられたということを今更知った。ご存じの通り中島飛行機は、先の大戦時に日本最大の航空機メーカーであり、幾多の航空機を作って来た。そもそも、かつての日本の航空機として誰もが知る「セロ戦」は三菱製だが、エンジンは中島製だし、機体本体としても三菱のライセンスを受け、製造機数は中島製の方が多かったという。そして、敗戦になり米軍の日本戦闘機の最高評価を受けたとされる機体は、中島製四式戦「疾風」(はやて)だったという。何れにせよ、中島というメーカーは、機体も作るがエンジンを作れる大メーカーだったということだろう。

 一方の立川飛行機は、エンジンも僅かに作った様だが、主力は機体の量産だったという。このことは、F1レーシングにおける、シャシは各コンストラクターで独自に設計製造できるが、ことエンジンはそれなりの大資本メーカーの供給とならざるを得ないことと同意たることだろう。

 ということで、エンジン屋たる元中島飛行機と、ボデー屋たる元立川飛行機が合体した技術力では日本最大のメーカーの素養があったということだと思っている。この辺りの、中島と立川がどの様にプリンス自工に至ったかの変遷は、写真5を参照して欲しい。

 さて、プリンスをいうメーカーを語るとき、どのクルマを引き合いに出すべきかは各人の趣向や考え方にもよるだろうが、愚人はグロリア(それもスーパー6)1962-1967 を思い浮かべる。同時代のトヨタのライバル車はクラウン(S40)、日産は初代セドリック(初期は縦目4灯ヘッドライト、マイナー後は横目4灯ヘッドライト)だった。資料を当たると、この三車でフレームレスのモノコックはセドリックのみで、クラウンもグロリアもフレーム付きだったことが判る。サスペンションは、何れも前輪はダブルウィッシュボーン独立、後輪はリーフリジットだったが、グロリアはリーフリジットではあるが、デフがバネ上にあり、左右後輪を繋ぐリジット軸(ドディオンチューブと呼ぶ)を持つ、通称ドディオンアクスルという上等なメカニズムを持っていた。つまり、リジットアクスルで左右後輪は独立せず剛結されているが、デフという重い機構をバネ上に設置し、デフから左右輪の動力伝達はユニバーサルジョイント2つと軸の伸縮機構を有したドライブシャフトを使用していたということになる。FF全盛の今でこそ、この様なドライブシャフトは安価に作れるが、当時はかなりコスト高になった訳だろうが、軽いバネ下により良好なロードホイールディングと乗り心地を生み出せたものと思う。なお、先のドライブシャフトの伸縮機構だが、デフを経て、およそ駆動トルクが4倍程に増大しているので、単純なスプライン機構だと、駆動力が働いた状態での伸縮にスムーズネスさがなくなってしまう。その為、スプラインのドライブ&ドリブン間にボールを介在させたボールスプラインを開発したという。このことは、日産合併後、当時のベンツやBMWが徐々に後輪リジットからセミトレーリング(斜め)アーム式独立式になったのに追随して日産は、510ブル(1967年)辺りでいち早く後輪独立懸架(IRS)を採用したが、トヨタがIRSを初採用したのは、マークⅡ(X40・1977年)だから10年先んじた訳であるが、このボールスプラインによる伸縮機構がものを云ったとは愚人の想像だ。なお、トヨタのX40系の頃は、既にFF技術と進展と共に、バーフィールド型(固定長)とかダブルオフセット型(可変長)の等速ジョイントが作り出せる時代になっての採用だったと記憶している。これをトヨタの堅実主義と見るのか、日産の先進性を評価するのか、意見は分かれる訳だが、現在はともかく、昔の「技術の日産」というテーゼは間違いなく、走りは日産(内実はプリンスの技術が多く)だったと思うところだ。

 最後に当時の生産ラインの姿を伝える僅かな資料として写真4について若干補足したい。写真4で4枚の写真から、完成検査場面以外は、板金工程(溶接ライン)と艤装工程だが、板金工程は今やロボットだけで組み立てる自動化ラインが当たり前だが、この当時は人がスポット溶接機を使用して作業していたのが判る。そして、現代日本車のボデーの寸法精度は、およそ世界最高を通常のこととして達成しているのだが、これは各パネル部材を正確な位置に仮固定する治具にあると理解している。それが、この写真には見当たらない。それどころか、被せたルーフの周りに、街の板金工場が今でも常用するバイスプライヤで仮固定している姿が読み取れる。設備投資額は跳ね上がっただろうが、およそ人の手間が違うから、車両当りの人件費コストの違いを理解できるシーンだろう。なお、これら板金工程および艤装工程、そして天井に吊り下がったボデーなど、未だフレームとドッキング前のものだと判る。別ラインでフレームにエンジンおよびドライブトレーンやサスペンションを組み付け、艤装をほぼ終了したボデーを上から載せて、車両組立の終了となる訳だろう。







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