私の思いと技術的覚え書き

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丹那トンネルのこと

2008-02-17 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険

Tannat  東海道本線の熱海駅と函南駅間に総延長7800mの丹那トンネルがあります。このトンネルが完成する以前は、東海道本線は現在の御殿場線(沼津駅から国府津駅間)を通過していたのでした。この御殿場線は、急な勾配が続く難路であり、沼津駅および国府津駅では全列車が一旦停止し、増結用の蒸気機関車の連結および解除の作業を行っていたのです。この輸送上のネックを解消し、東海道線の高速化を進める目的として丹那トンネルの工事が着手されたのです。
 丹那トンネルの工事は1918年(大正7年)に工期7年の計画で着手されました。しかし、予想に反する凄まじい大量湧水に難航し、トンネル落盤等の大事故も6回を数え、着工から足かけ16年ともなる1934年(昭和9年)に完成開通したのです。この工事期間に殉職した方は67名、重傷者は610名を数えたといいます。正に多大の犠牲の上に誕生したトンネルであるといえます。現在であれば、工事に際しこの様な多大の人命が失われたとすれば、工事自体の中止も検討せざるを得なかったものとも想像されます。しかし、当時の工事技術の未熟さもあったのだと思いますが、国を上げての成長への情熱が果たした成果であるのだと感じるのです。
 この丹那トンネルの数百メートル上方には、丹那盆地という地があります。吉村昭著の「闇を裂く道」を読むと、トンネル掘削前は、豊かな湧き水に恵まれ、ワサビの栽培等が盛んであったと云います。しかし、トンネルの工事の進捗と共に湧き水は減少し、怒った住民は工事の中止を求めて何度も抗議を繰り返したと云います。現在の丹那盆地は、酪農等が行われておりますが、この様な地元民への環境的な犠牲の上で、成立したトンネルであることも忘れてはならないことと感じます。
 それと、「闇を裂く道」の内容で知ったのですが、トンネル工事中の1930年(昭和5年)に工事中の最先端の切端で北伊豆地震が発生し、丹那断層が大きく動いた際の記述に驚きます。トンネル切端の右側にあった支持柱が左側に移動していたというのです。正に、切端が断層鏡面であったという訳です。この丹那断層は、現在でも丹那盆地内で「丹那断層の跡」という地があり見学できますが、この丹那断層がまた何時動くのかと思うと、恐ろしいものと感じざるを得ません。


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