私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

修理費の決定権は誰にあるのか?

2019-11-25 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険
 昨今は自整業や板金業社と触れあう機会が、10数年前と比べ大幅に少なくなっているのだが、それでも時々は触れあうことがある。また、機会は少ないが、修理費に関し、名も知らぬ息子の様な若い損保調査員(アジャスターと呼ばれる)と話しをする機会もある。そんな中で感じるのだが、本格的に取り組んでいた過去のことを前提とすると、他の様々なものごとでも同様だが、時代の流れを感じさせるが如く、随分と上滑りしたやりとりが行われていると感じてしまうところだ。

 この上滑りしたやりとりとは、ものごとの表層だけで話しが進み、一見すると誠にスマートに見えるのだろうが、本質が置いてきぼりにされてしまっているのではないかということなのだ。もっと端的に記せば、修理を実施する工場と損保担当者の間が、愚人に云わせりゃ仮想の世界の会話であり、泥臭くものごとの本質に踏み込まないという感じと云えばよいのだろうか・・・。

 もう少し具体的な事例を記してみよう。我が国の場合は、事故修理については、その脱着だとか取替という定型的な作業の工数(作業時間)に、損保で作られた、いや正確には全損害保険会社が共同出資で設立運営されている自研センターという研究機関を名乗る一民間企業が策定した損保指数というものの占有力が著しく大きい。流石は大企業の保険会社だけあって、零細弱小な修理業界に先んじて、手回し良く指数を策定している訳なのだ。世の正義とか公平性を重んじるなら、損保および修理業界が共同参画する第三者機関において指数なりを策定し、公平性を担保する必用があるのだろうと感じる。しかし、そうはなっていないということが、そもそも現代的なことなのだ。

 このことは、何も板金修理に限らず、自動車メーカーのサプライチェーンにおいても、余程特殊な部品でない限り、事実上の価格の支配権は自動車メーカーが保持しており、その受発注や納期、数量などは、協力工場は従うしかないのが現実なのだ。ただし、自動車メーカーのサプライチェーンにおいては、サプライチェーンの破滅が、すなわち自動車メーカーの命運を握る訳だからして、あまりも独断専横した価格決定を行うと自動車メーカー自身が自滅するという宿命があるからして、一定のガバナーが働くといえるだろう。

 一方損保と修理工場の場合は、自動車メーカーの様なサプライチェーンまでの価格支配権はないと考えられる。しかし、修理費を保険契約者に成り代わって支払う以上、その修理費にもの申す権利を損保が持つのは当然のことであり、そもそも見積段階で意見の相違が大きければ、損保としては施行工場での修理実施を断る権利さえ有していると解釈されるのだろう。しかし、現実には、修理以前の見積額で修理費が決定なされるというケースは少なくとも我が国では希であり、予めの全損判断でもない限り、修理に着手がなされ、その請求書としての見積という形で請求書が作成されるか、修理の様子を確認した損保の提示する見積と云う名の形で最終金額が決定(協定と呼んでいる)される訳なのだ。

 愚人として思うに、本来は修理着手前の見積において協定という段取りが理想と考えるのだが(実際米国などでは損保が決定した見積を修理の実施に関わらず契約者もしくは保険金受け取り者に支払う)、我が国の場合は修理工場側がリスク回避をしたいのか、損保側が過剰な修理費を認めたくないのか必ずしも理由は定かではないが、なし崩しに修理の着工がなされ、事後の問題として修理費の争い(まで至らなくても工場側の不満)が生じる訳なのだ。

 この辺りは、米国と異なり如何にも日本的というか、一見修理工場側に有利な対応を日本の損保は行っていると見えてしまうところだが・・・。しかし、先に述べた様に、修理工場側の検証なしに作られた指数と称する工賃に直結する数値を事実上握られ、協定できない場合は、訴訟でも起こさない限り払えないと突っぱねるまで価格的な支配権を握られている修理工場は弱い立場にあると云えるだろう。なお、ここにおいては、自動車メーカーのサプライチェーンの様な個別専従的な上下関係は損保と修理工場間にはないので、一修理工場の命運が損保に影響を及ぼすなどと云うことは、ディーラー工場などの損害保険代理店業としての収入保険料のパワーを持たぬ限りあり得ないこととなる。

 複雑雑多な事故車の復元修理費を統計的に分類すると、修理費の内訳は部品代50%、工賃(塗装以外)25%、塗装費25%と程度となるのが平均的な割合だ。この内、部品代についても、取替か修理かという争いはあるのであろうが、幾ら技術が未熟な故に取替となっても、実際に取替となったものを認めないとまで言い張る損保は希だろう。だから、部品粗利が大きくサービス売上重視のディーラー工場などでは、こんな僅かな損傷で替えるのかと驚くぐらい部品を取り替える。その上で、下取り査定においては、部品が取り替えられているから事故車だと査定し、価格を低下させるという非倫理を恒常的に続けているのだ。

 しかし、大きな問題は工賃にあると云えるのだろう。というのは、ディーラー以外の一般修理工場にとっては、部品の粗利はあっても10%が良いところで、部品商などを通じて入手した場合、5%とか部品粗利なしという場合もある。つまり一般修理工場にとって、企業の売上利益を支配しているのは、ほとんど工賃となるのだ。その工賃を、損保側だけの指数で仕切られ、工賃単価(対応単価)も事実上ディーラーが最上位で、その下位にあるという論理で仕切られている環境は一般修理工場にとって苦境となる訳だ。しかも、近年、樹脂部品が増えたことにより、いわゆる産業廃棄物処理費も値上がりしている訳だが、損保の調査員に問うと、対応単価つまりレバーレートに相当する単価に工場経費として含んでいると説明する訳なのだが・・・。なお、ここまでの説明を行う調査員は良い方で、「良く判らないけど、そう説明しろと会社に云われている」かの意味合いを述べる者さえいると聞くと、一体自らの業務を自らの判断で行っているんじゃなく、会社の指示命令で活動しているということになる訳だが、愚人の経験では信じかねる神経だと思わざるを得ないのだ。つまり、何事か対峙する交渉において、自らの納得する知識を前提とする判断から正しいという信念なくして交渉が成立するのだろうか。それは交渉人とは呼ばず、単なるメッセンジャーボーイという者だろうと思うのだが・・・。これが現世の実態だと知る時、現在感じる世の様々な限界感とか行き詰まりも正にここに原点があると思える。つまり、個々人がものを思考せず、一部の権力者の意に従うだけが総ての世となってしまった。一見綺麗で何の汚れもなく、汗も油も深い苦悩もない時代・・・。誠に恐ろしい時代に入り込んでしまったと感じるのだ。

追記
 今日のこと、指数策定を行っている自研センターに電話を入れ、指数について、これは時間なのか指数なのかと質してみた。その返答は、あいまいではあるが、これはあくまで自研センターの決めた前提条件(標準条件)における数値だからして、個別工場に対し強要できるものではないし、あくまで参考値として使ってもらうことを説明しているとの回答であった。なお、10数年前より、指数値は基表という作業要素の最小単位の積算により組み立てられてることを知る愚人は、「最新型車は超高張力鋼板だとか線溶接(レーザービーム溶接)など新しい工法のものがあるが?」と投げかけてみたところ、新しい工法や素材については基表値そのものがなく、あくまで実作業において検証しているとの説明であった。なお、何れにしても愚人の意見としては、「透明性がないよね」と述べた訳であるが、このことは修理工場としての愚人の立場だけでなく、指数を実運用する損保調査員にも強く持ってもらいたい問題意識なのだが・・・。


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