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【書評】福沢幸雄事件

2021-12-29 | 事故と事件
【書評】福沢幸雄事件
 この本だが、ついぞ最近まで知らなかった。同本が存在したことを知り、古書も含め多くがヒットするアマゾンでもなし、ヤフオクでは1点のみ出品があるが14千円超と、稀少価値を示すが如くの値付けがされている。そういう本だが、月に3度は訪れてる市立図書館で検索するとあるではないか。この年末もしくは正月は寝正月になるだろうからと、昨日の図書館後よ納めの日に、すかさず借りて来たのだが、早々に読み下してしまったので、書評と云うより、どういうことが記してあるのかという記録的視点で本書を書き留めてみたい。

 まず、福沢幸雄(さちお)とは、1948年生まれだから現存していたら78になるが、彼は1669年2月12日、落成して間もないヤマハテストコース(袋井市)で、トヨタ7(3L)の試験走行中の事故で亡くなっている。享年30だったという。

 この福沢幸雄氏だが、父親が大学生で仏パリに留学中に知り合ったギリシア人と母と結婚し、パリで生誕している。その後、日本は敗戦となり、帰国するのだが、父親の福沢進太郎氏は、福沢諭吉の孫に当たる。と云うことは、幸雄氏はひ孫ということと、ギリシャ人とのハーフと云うことだ。帰国後、父の進太郎氏は、フランス文学者かつ慶應義塾大学の教授だったそうだ。

 本書だが出版社には詳しくないが、汐文社(ちょうぶんしゃ)とは聞いたこともないが、Net検索すると同名で存在がある。元来、京都で立ち上げられているが、一度休眠などを経ているのだろうか、1976年に東京本社して再度設立と記されている。現在は、主に絵本とか児童文学を中心にした出版をしており、KADOKAWAの連結子会社だというが、近年の出版不況で経営もそれ程に快調と云う訳にはいくまい。また、著者は、元ジャーナリストだった様だが、Netなどでもヒットする作品はないので、そもそも現存するかも不明だ。

 幸雄氏の事故は、どうやら午前中に生じた様で、事故から2時間を経て、トヨタの東京支社を経て、福沢家(進太郎氏)に伝えられる。当時、福沢家の居宅は鎌倉だった様だが、何をおいてもということで、タクシーで新横経由と思ったが、運転手の進めもあり小田原経由で浜松に行き、そこから迎えに来ていたトヨタの担当者の案内で、亡き幸雄氏と対面が敵ったのが同日夕刻を過ぎていたという。

 この時点で、既に新太郎氏とトヨタ側(主に第7技術部の最高責任者だった河野二郎氏(当時45才・2004年80で死没)との、企業秘密を優先する意識との苛立ちが生じていた様だ。)

 この事件後の警察の調査のことを、当時の磐田署は臨場するも、既に現場から片付けられていた事故車両のことをほんとど追求もせず、トヨタの言い分のみ聞いて早々に不起訴とすることを決めている。これに怒りを表したのが新太郎氏で、大学での様々な法令に詳しい者との意見により、検察審査会に再審査を行うことと、トヨタ自動車およびヤマハ発動機を告訴することになる。また、この刑事告訴と合わせて、東京でトヨタ相手に民事賠償訴訟の提訴も行うに至ったのだった。

 刑事事件の方は新太郎氏の懸念の如く2度の検察審査会を経ても、不起訴となるり、爾来民事賠償訴訟が続けられ、この本の上梓が1979年10月で未だ未決だったが、1981年に事故から12年を経て、トヨタが遺族側に6100万円を支払う和解が成立したという。

 しかし、著者は冷静に筆を進めているが、トヨタの自分本位な事後対応について、繰り返し批判的な論理立てを記している。それと、警察もそうで、現在ではますます酷くなるトヨタ様々の特別待遇は、これでは事実関係は置いてきぼりにされてしまう。例えメーカーの機密がどうのこうのと云っても、戦争における国家機密の問題ならまだ判るが、たかが一私企業の機密ごときと人1人の価値を考えれば、事故車および事故状況は徹底的に警察もしくはそれで不足なら、それなりの第三者を守秘義務宣誓させた上で立ち会わせて、事実確認と真実の解明に最大限の配慮を払うのが民主主義の使命だろう。

 今年になって、トヨタディーラーの不正車検が問題になったが、途中から不正工場が続出したとき、トヨタは自ら内部調査したとして国交省に調査結果を報告したが、こういうとたぶん国交省やトヨタは顔をしかめるだろうが、国交省はトヨタの内部調査結果を押し頂く様に受け取り、ほぼそれに沿って決着が図られたという感を持つが如何だろうか。本当に、犯罪者自らが調べた結果が妥当性があるかどうかを前提にすること自体が、あまりに客観性を欠く民主主義の原則に外れた行為であることを、誰も指摘しないという異常しか感じられない。








追記
 およそ当時のトヨタのレース活動は日産に比べると、見劣りすること甚だしいものだった。トヨタは、ツーリングカーレースでは到底日産のスカイラインには対抗できないと諦め、グループ7仕様を作り出すが、当初のトヨタ7は後年写真などで如何にも走りそうな姿を多く見てせる最終型(5L・V8ターボ)でなく(最終型は1度も実践を走らずレース活動を撤退)、V8・3Lのオープンボデーの仕様が基本で走りだしていた。なお、本書によるとだが、ル・マンでのポルシェのロングテールが最高速を伸ばすポテンシャルがあると見て、やっつけ1品仕様のクローズドボデーに改造した仕様を、この福沢幸雄死亡では、主に空力面に主眼を置いた評価テスト中であった様だ。






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