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【書評】コロナ後の世界を語る・20名の識者の言葉

2022-11-24 | 論評、書評、映画評など
【書評】コロナ後の世界を語る・20名の識者の言葉
 現コロナ病変だが、始まりは2019年12月頃中国武漢市で奇妙な病変が人知れず始まっていたのだという。そして年が明けた2020年1月、中国で猛烈な発症拡大が続くと共に、2、3月頃には全世界でも発症が広がり、日本でも急激に認知されることになった。

 この中で、当時の安倍総理は2020年4月7日に東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県に緊急事態宣言を行い、4月16日に対象を全国に拡大しました。この時の政府の発表報道を伝えるマスゴミは、「緊急事態宣言の発出」がなされたと伝えた。

 この本(私たちはどう生きるか・コロナ後の世界を語る)は2021年8月初版だが、2022年11月末となる現在でもコロナの先行き見通しは定かでないが、まだまだ続く感は今よりさらに強い時点での、20名の内外識者の言葉がそれぞれ2ページぐらいの短い言葉として集められている。どれも、異論は感じないし、もっともだと頷ける文章の数々だ。この本で、拙人として最も印象に残った言語学者の話しから引用したい。

表題:日本語という「不思議な」言葉は緊急事態に向かない 金田一秀穂(言語学者)
 政府から「緊急事態宣言の発出」ということがマスコミ報として報じられたが、よく判らない。通常なら「緊急事態宣言を発令」となるなら判るが「発出」とは引っ掛かる感を持つ。この発出と聞き慣れない言葉の背景に何があるのだろうか?

 金田一氏は、おそらく重々しく云いたかった(権威付と私は理解した)のだろうという。さらに、「緊急事態だ」と云えば済むのに、「緊急事態宣言を~する」というワンクッションある云い方をする。つまり宣言というものが、とても偉いものだという風に聞かされている。このことの例として「昔おじいいさんとおばあさんがいました」と云うと、そのおじいさんとおばあさんに真偽も含めいろいろ考える余地が生まれるのだが、「おじいいさんとおばあさんがいましたと宣言します」となると、その真偽は確定できなくなる。宣言そのものが行為となって、宣言の内容は問われないことになる。

 「緊急事態になった」と云うと、今がホントに緊急事態なのか議論する余地が生まれるが、「緊急事態宣言を発出する」となると、はいと云うしかなくなる。

 日本人はAとBの意見があると、その中間で落とし所を探す論議をする。経済が動かなくて困る一方で、命も守らなければならない。本来は24時間外出を極力控える良い訳だが、飲食店の方が困るのでそうは云えない。だから、午後8時以降の自粛要請と云わねばならない。

 これはAとBのどちらの賛成する案と云うより、どちらからも文句の出ない案を探している姿だろう。AとBの意見をぶつけて、まったく違うCという解決策を作る西洋の弁証法の考え方とは正反対なのだ。「和をもって貴(とおと)しとなす」とは、全員が賛成するのではなく誰からも文句の出ない意見を採用すると云うことだろう。

 僕らは直接知らないけれど、今は太平洋戦争のころとよく似ている思えます。人がどんどん死んで行き、戦争を止めよう(たい)と思う人も大勢いたに違いありませんが、やめるというと何処からも文句が出たのでしょう。だからずるずると判断が遅くなった。

 日本は八百万の神がいて、それぞれ違いがあって、それで良いという国。それぐらいいいかげんで、有り様としては本来どちらに付かずくだぐだしているのが良いんだろう。だから強力なリーダーシップを発揮するのに向いていない。何より人を説得するのが不得手だ。

 日本政治で緊急時に目指すとしたらどうすべきかと問われ、回答は場当たり的にならざるを得ない。ポリシーがあると必ず衝突する。政治的な発信は、あまり日本人に向いていない。変幻自在、融通無碍(考え方や行動が何物にもとらわれず自由でのびのびしている)、それは良さでもありだらしないといえばだらしない。


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