この本は、先日図書館の書棚から、他の本を探す中で表題に関心を抱いて抜き出し、借り出した本の書評として書き留めたい。
同書の概要としては、検札事務官という交通事故の専門家の一人が、当時大学生の我が息子の被疑死亡交通事故に遭遇し、自ら信じる事故調査の業としての常識からは到底信じられない杜撰な調査の実態を知り、悲憤しつつ、そのことを糾弾する過程を記したものだ。
この本を読了して思うことは、警察や検札に高知白バイ事件ほどの恣意的な捏造ではないが、ある意味共通する欠陥を感じざるを得ない。
同書で、著者は日常の業たる検察事務官として、交通被疑事件の実況見分調書の作成にあたり、事故現場の記録だとか関係者の聴取内容の求められるべき姿を知りつつ、被疑者として死亡した息子の過失だけを視野に置いて、一方確認すべき事故相手となるバス側の検証や聴取がほとんど抜け落ちたまま検察に送致されている実態を知る。こんな杜撰な調査での事故処理が許されるべきではないと、担当調査警察官に対する国家賠償訴訟を提起している。なお、被告訴人に検察も含めたい思いはあったが、自らの業として検察に関わることから、「検察官同一体の原則」という理念に反することから断念している。
その後、著者は、検察事務官という現場の検事補佐の業から離れ、総務事務の部署に配転となったことを機会に、改めて調査担当警察官および担当検事を告訴までしている。
ここまでのことを著者は義憤に駆られつつ行ったのだが、ほぼ著者の訴えは否定され、この様なことが続くことがない様にという著者の無念の思いと共に物語は終わっている。
先にも触れているが、本書を読みつつ、常に高知白バイ事件のことが、頭の中をよぎりつつ読み進めたのだった。以下、改めて高知白バイ事件について、拙人の思いを記しておきたい。
予て、高知白バイ事件については、被疑者となったバス運転手となったのが、仮に我が身だったらどう対応しただろうと云うことを思い続けていた。かなり高慢な意見と思われるだろうが、40年を越えて主に保険調査員として各種事故の調査や解決に活動して来た者としては、これは当たり前にことだが一般の運転者ならムリもないことだが、バス運転者の伝え方の未熟とか思考の不足と云うことが頭の中に渦巻いていた。もっと云えば、当初の担当弁護士に対する依存しかなく、弁護士自体が正直程度が低すぎるという意見すら持って来たのだ。
例えば、この高知白バイ事故では、バスのスリップ痕だけが捏造ではないかと大きく報じられた訳だが、どうも戦い方としての戦略不足を感じつつ眺めて来たと云うことがある。具体的に記せば、被告弁護士は当然のこととして、白バイが制限速度を大幅に超過して走行してきたということを主張はしているのだが、そこに主張を補佐すべき何ら具体的な客観性ある証拠の提示はない。一方、警察(検察)側は、白バイは制限速度の60km/hで走行していたと云う主張をしており、裁判官もそれを何ら疑義も呈さず認容している訳だ。しかし、弁護士だったら、白バイが制限速度の60km/hで走行していたと云う根拠の求釈明を何故求めなかったのだろうか。
また、事故現場の道路では事故以前に地元民の証言では、白バイの高速走行の練習場と化していたというマスコミの伝える情報があったが、何故かそこを地元民の証言者を得る等してもっと強調できなかったのだろう。
さらに、今回読了の「欠陥捜査」と同じく、警察および検察では、バスの動静ばかりに調査の視点を置いて主張しているのだが、果たして白バイのスリップ痕を含め、衝突速度を含め事故前の速度についての調査不足を強く感じる。
そもそも、事故の類型別に当事者それぞれの過失を平準化して表した「判例タイムス」という裁判所が作成した資料があり、保険事故でもほとんどの事故において、この類型に近い事故形態に当てはめて過失割合を斟酌している。つまり具体的に云えば、本件事故は路外進入車と道路通行車との事故であり、判例タイムスの類型に当てはめれば、路外侵入のバスの過失は80%、道路走行の白バイは20%と云うのが基本過失割合と明示しているのだ。ただし、これも道路走行車が制限速度で走行しているという前提であって、仮に制限速度の2倍を超える速度が想定されたとしたら、そもそもバスが右方向を十分安全確認したところで、白バイがバスを認識して急制動しても止まりきれない訳で、根底とする前提条件から不適当という意見も出ることだろう。
そんな、私がバス運転手だったら、ここまでの一方的な事故判決にはさせないと高慢な思いを持ち続けていたのだが、冒頭に記した通り、検察事務官というその道の専門家が疑問を持ち、種々挑んだ結果でも、警察、検察、裁判官という壁を前に真実を究明することはできなかったという本書の中身を知ると、思い上がった私の信念も揺らぐところだ。
しかし、高知白バイ事件では、事故直後の事故処置に集結した警察官は30~40名という私の知る一般的な交通事故では考えられない程の人数が投入されている訳だが、この中には実情を知り、調査の不適当を知り、幾ら宮仕えと云えども、これで良いのかと悔やんでいる警察官もいることを信じたい。
それと、神奈川県警が今でも過去の不適切捜査の結果、市民の信頼を得られなくなったが、高知県警も同様の効果が現れて来ないはずはないと感じている。つまり、市民の信頼を得られなくなった警察は、ただ権力だけで、その使命が全うできるとは思えず、後世に大きな影響を与えることを忘れてはならないだろう。
つまり、江戸時代に実際にあったと云う忠臣蔵と同じで、喧嘩両成敗という天下の暗黙的な良識をないがしろにした幕府は、赤穂浪士に吉良を討ち果たさせることによって、それから200年を超えた後世にも、その醜聞が伝え続けられるというのが世の歴史というものだということだ。今後、何かの際は、高知県警だけでなく、検察庁や法務省など、足元をすくわれる要因の一つとなるだろうとも思えているのだ。
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同書の概要としては、検札事務官という交通事故の専門家の一人が、当時大学生の我が息子の被疑死亡交通事故に遭遇し、自ら信じる事故調査の業としての常識からは到底信じられない杜撰な調査の実態を知り、悲憤しつつ、そのことを糾弾する過程を記したものだ。
この本を読了して思うことは、警察や検札に高知白バイ事件ほどの恣意的な捏造ではないが、ある意味共通する欠陥を感じざるを得ない。
同書で、著者は日常の業たる検察事務官として、交通被疑事件の実況見分調書の作成にあたり、事故現場の記録だとか関係者の聴取内容の求められるべき姿を知りつつ、被疑者として死亡した息子の過失だけを視野に置いて、一方確認すべき事故相手となるバス側の検証や聴取がほとんど抜け落ちたまま検察に送致されている実態を知る。こんな杜撰な調査での事故処理が許されるべきではないと、担当調査警察官に対する国家賠償訴訟を提起している。なお、被告訴人に検察も含めたい思いはあったが、自らの業として検察に関わることから、「検察官同一体の原則」という理念に反することから断念している。
その後、著者は、検察事務官という現場の検事補佐の業から離れ、総務事務の部署に配転となったことを機会に、改めて調査担当警察官および担当検事を告訴までしている。
ここまでのことを著者は義憤に駆られつつ行ったのだが、ほぼ著者の訴えは否定され、この様なことが続くことがない様にという著者の無念の思いと共に物語は終わっている。
先にも触れているが、本書を読みつつ、常に高知白バイ事件のことが、頭の中をよぎりつつ読み進めたのだった。以下、改めて高知白バイ事件について、拙人の思いを記しておきたい。
予て、高知白バイ事件については、被疑者となったバス運転手となったのが、仮に我が身だったらどう対応しただろうと云うことを思い続けていた。かなり高慢な意見と思われるだろうが、40年を越えて主に保険調査員として各種事故の調査や解決に活動して来た者としては、これは当たり前にことだが一般の運転者ならムリもないことだが、バス運転者の伝え方の未熟とか思考の不足と云うことが頭の中に渦巻いていた。もっと云えば、当初の担当弁護士に対する依存しかなく、弁護士自体が正直程度が低すぎるという意見すら持って来たのだ。
例えば、この高知白バイ事故では、バスのスリップ痕だけが捏造ではないかと大きく報じられた訳だが、どうも戦い方としての戦略不足を感じつつ眺めて来たと云うことがある。具体的に記せば、被告弁護士は当然のこととして、白バイが制限速度を大幅に超過して走行してきたということを主張はしているのだが、そこに主張を補佐すべき何ら具体的な客観性ある証拠の提示はない。一方、警察(検察)側は、白バイは制限速度の60km/hで走行していたと云う主張をしており、裁判官もそれを何ら疑義も呈さず認容している訳だ。しかし、弁護士だったら、白バイが制限速度の60km/hで走行していたと云う根拠の求釈明を何故求めなかったのだろうか。
また、事故現場の道路では事故以前に地元民の証言では、白バイの高速走行の練習場と化していたというマスコミの伝える情報があったが、何故かそこを地元民の証言者を得る等してもっと強調できなかったのだろう。
さらに、今回読了の「欠陥捜査」と同じく、警察および検察では、バスの動静ばかりに調査の視点を置いて主張しているのだが、果たして白バイのスリップ痕を含め、衝突速度を含め事故前の速度についての調査不足を強く感じる。
そもそも、事故の類型別に当事者それぞれの過失を平準化して表した「判例タイムス」という裁判所が作成した資料があり、保険事故でもほとんどの事故において、この類型に近い事故形態に当てはめて過失割合を斟酌している。つまり具体的に云えば、本件事故は路外進入車と道路通行車との事故であり、判例タイムスの類型に当てはめれば、路外侵入のバスの過失は80%、道路走行の白バイは20%と云うのが基本過失割合と明示しているのだ。ただし、これも道路走行車が制限速度で走行しているという前提であって、仮に制限速度の2倍を超える速度が想定されたとしたら、そもそもバスが右方向を十分安全確認したところで、白バイがバスを認識して急制動しても止まりきれない訳で、根底とする前提条件から不適当という意見も出ることだろう。
そんな、私がバス運転手だったら、ここまでの一方的な事故判決にはさせないと高慢な思いを持ち続けていたのだが、冒頭に記した通り、検察事務官というその道の専門家が疑問を持ち、種々挑んだ結果でも、警察、検察、裁判官という壁を前に真実を究明することはできなかったという本書の中身を知ると、思い上がった私の信念も揺らぐところだ。
しかし、高知白バイ事件では、事故直後の事故処置に集結した警察官は30~40名という私の知る一般的な交通事故では考えられない程の人数が投入されている訳だが、この中には実情を知り、調査の不適当を知り、幾ら宮仕えと云えども、これで良いのかと悔やんでいる警察官もいることを信じたい。
それと、神奈川県警が今でも過去の不適切捜査の結果、市民の信頼を得られなくなったが、高知県警も同様の効果が現れて来ないはずはないと感じている。つまり、市民の信頼を得られなくなった警察は、ただ権力だけで、その使命が全うできるとは思えず、後世に大きな影響を与えることを忘れてはならないだろう。
つまり、江戸時代に実際にあったと云う忠臣蔵と同じで、喧嘩両成敗という天下の暗黙的な良識をないがしろにした幕府は、赤穂浪士に吉良を討ち果たさせることによって、それから200年を超えた後世にも、その醜聞が伝え続けられるというのが世の歴史というものだということだ。今後、何かの際は、高知県警だけでなく、検察庁や法務省など、足元をすくわれる要因の一つとなるだろうとも思えているのだ。
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