【書評】原爆はなぜ投下されたか 西島有厚著
この本は図書館から借り出して読んだ本だ。しかも、この際は同図書館の蔵書をNet検索して、別の本を目的の本として、該当本の書架に赴いた際、該当本より先に「これは読みたい」と抜き出した本なのだ。当然該当本も、容易に見つからなくて図書館職員の協力を要請し、借りて来たのだが・・・。
この際、図書館で借りだした本は、先の目的外で見つけた「原爆はなぜ投下されたか」と共に「杉山メモ」(厚さ4cm上下2巻)なのだが、目的の杉山メモだが先の大戦中の陸軍大将杉山元が政府高官に関わる陸軍参謀総長として自ら関わった各種発言録をおどろくべき几帳面さで記録していたというものだ。これについては、軍人とはいえこういう小まめさこそ正に官僚であり、メモという形だが恐らく現代にこういう形で残るとは予想しなかったではないかと思える。ちなみに、杉山は敗戦後9月に拳銃自殺しているが、その前に関わる筆記書などすべて焼いたと云われているのだが、何故かこの杉山メモが残されていて、多くの戦中記録が焼かれてない中で、大変役立つ歴史資料となっているそうだ。ただし、よほどの学術的関心でもなければ、この旧かな使い文を追い読む熱意は生まれない。と云うことで、ついでに借りて来たというべき「原爆はなぜ投下されたか」の方へ、筆者の知的関心は向いたのだった。
さて、本論となるが、アメリカの公式見解となる早期終戦を促すことで、人的損害を少なくする(あくまで米軍人員であり、広長合計30万死者と云われる)ためだったというのが寝言だとは従前から思っていたが、日本人としても負けを認めない軍部が本土決戦も辞さずと終戦に至らなかった話しは良く聞いている。だから、負け戦と云う中で、狂気の沙汰の特攻作戦というのが行われることになったのだろう。それも、形は自由意思だが、拒否すれば国賊者で村八分になろうということを十分背景に含みながらの作戦伝達だ。現在のヤクザとかブラック企業にも引けを取らない、陰湿な命令下達さと、それを天皇も含め政府高官は、黙って見ているばかりなりとは、幾ら戦時下こととは故、あまりのブラック連鎖に驚くのだが、これはある意味現代も行われていることだ。
この本では原爆投下の8月6日広島、同9日の長崎があり、軍部では原爆が投下されたということを理解はしていたのだが、そこにはこれで負けたという意見とはならなかったという。しかも、報道機関に対し、原爆とは書くな、被害詳細も書くなと報道規制し、新聞には「新型爆弾と思われる爆撃を受け、それなりの被害が出ているらしい」程度のものしか記されなかったという。なお、米国は、予てから日本政府部内に早期終戦を願う和平派とあくまで戦争継続を主張する軍属派が対立していることを知っており、短波ラジオの日本語放送とか、空中散布ビラでの原爆投下の事実とその威力などを報知していた様だ。この米軍の短波放送は、一般国民でもそれなりのインテリの中には聞いていた者もいたであろうが、先の和平派は下位者の働きもあり、十分にウォッチしていたことが記されている。
ところで、この太平洋戦争の開戦は真珠湾および南洋の陸軍攻撃部隊の進軍と合わせて開始されたのだが、およそ米国と日本の国力の差は少なくとも10倍もしくは20倍の開きがあるのであって、およそ経年する戦いとなったら負けるは必置という論理は共有していたはずなのだが、軍部はその論理を何時の間にやら精神論にすり替えていたのだ。つまり何処かのおバカな総理も述べ顰蹙を受けたごとく「神の国で負けない」と云うのだから呆れる。
ここで、敗戦の年(1945/8/15)の6月頃、御前会議において報告された現状の日本の抗戦能力(今風に云えばリソース)を知れる文章があり、この部分を強い関心を持ってみた。内容を2枚(4ページ分)添付する。
・民心の動向
軍部政府に対する批判逐次盛となり、指導者層に対する信頼感も動揺を来しつつある。また、国民的道義は頽廃の兆しがある。
・輸送力
汽船輸送力は最近の実績における損耗の推移からすれば本年末(12月)には使用船量はほとんど皆無に近い状態となる。鉄道輸送量は前年度に比し、1/2程度に減退した。
・物的国力
鉄鋼生産は前年同期比1/4に落ち入り、鋼船の新造補給は本年中期以降はまったく期待できない状態となった。大陸からの輸送量減により、化学工業は加速度的に低下しつつあり、軽金属、人造石油、火薬類の確保にも困難だ。液体燃料は貯油の払底と増産計画の進行遅延で、航空燃料の逼迫は中期以降の戦争遂行に重大な影響を及ぼす情勢。また、航空機を始めとする近代兵器の生産は、空襲の激化による交通および生産の破壊と前記の原材料や燃料の逼迫により在来方式による量産遂行は至難なる。
・国民生活
食料の逼迫は漸次深刻を加えている。局地的に飢餓状態を現出するところもあり、治安上も楽観を許さず、今後の更に深刻化するだろう。
ここまでの状況を伝えられながら、それでも和平派の早期終戦に軍部は、本土決戦に持ち込み、白兵戦なら負けないとか云うのに押し切られるのだから、もう話しにならない。ただ、軍部も将来的な負けは認めざるを得ないとして、ただしこの負け戦のまま負けたと云うのは納得がいかん、できるだけ一矢報いて日本軍の強さを見せ付けて米軍に一泡吹かせた上で、多少なりとも有利な条件で講和をしたいと云うのだが・・・。云うなれば国民の窮状など無視で、おのれの立場にのみ拘泥している姿と見える。
なお、和平派および軍部としても、第三国を経由して早期終戦への斡旋を取り付けようとあがいていたという。その第三国とはソ連なのだが、その一方で、既にドイツが負けている中、ソ連が満州や北方領土で開戦して来るという予想もあった中での、この呆れた終戦調停の願いだろう。
この様な状況で、8月6日広島への原爆投下、引き続いて9日に長崎への原爆投下で、和平派はこれで軍部も敗戦を認めるのかと思うところ(これは米国でもそう思っていた様だ)、軍部はこんなことで負けないとぜんぜん効果を認めようとしなかったという。つまり、ルーズベルトが原爆使用の正当性として述べた早期終戦に役立ったと云うのは根拠に疑問の出る発言なのだ。では、何が強硬な軍部をして敗戦しかないと覚悟させるに至ったのかと云えば、ソ連の開戦(8月8日もしくは9日)だったという。これは、先に述べている様に、ソ連が開戦する余地はあると理性的には思うものの、不理性にもそこに終戦調停を頼んでいたという虚脱に打ちのめされたというところだろう。
一方、米軍のマッカーサーなどは、B29の日本の主要都市26への繰り返し爆撃により、既に時間の問題で日本は降伏せざるをえないと繰り返し本国に報告していたという。ところが、日本の第三国経由の終戦の思いも把握し、既に勝つことは約束された状況であったが、原爆の投下実証を行うまで、そしてできればソ連に開戦される前に、その原爆を使用したいという思いで、終戦を引き延ばそうとすらしていたという。原爆投下命令は、ロスアラモスの原爆実験成功後、約1月を経て、7月31日か8月1日に投下を予定していたという。ところが、天候悪化で、それが8月6日広島になったという。そして、この広島投下を知るソ連は急遽日本への開戦と満州や北方領土での軍を侵攻させたのが、2発目の長崎原爆投下とほぼ同時になったということだ。
ソ連側の心理としては、ここで開戦もしていないのに終戦となったら、幾ら戦勝国でも、日本の権利をすべて米国に奪われてしまうということであり、大共産主義発展のため、欧州での動きのように、共産国の増加とか、分割統治を日本でもしたいという思いだったのだろう。
それと、この本で改めて知る日本政府高官(和平派政治家や軍部政治家共)が、なにかつけ繰り返し述べる、国体護持という最優先で述べる言葉があるのだが一言私見を記したい。国体とは天皇を基本とする国の形と理解するのだが、どうも私の受ける印象としては、国体護持と云いながら、その形の最上部に近い位置にいる自らの立場を守りたいという本心を、その言葉でマヤカシているのではないかと思えてしまう。そもそも、この本でも知れるところだが、毎度の御前会議とは2重構造になっていて、本当の会議は天皇の臨席なしで、種々決議し意見を決めたところで、天皇の臨席を受けて裁可の儀式をするというのが御前会議の実態だった様だ。この戦争を終結させるについて、8月15日以前の2回の御前会議では、和平派が軍部を謀り、当初から天皇臨席で開催させるという企みをしたということを知った。つまり、これにより天皇の言葉を引き出しことに成功するに至ったというのだ。この際、軍部側でもおおよおそ和平派の仕組んだことは判りつつ、あえてもうこれ以上引き延ばしても無理があろうと悟ったと云うところだろう。でも。この状況を知るとき、何というデタラメな連中なのかと感じることと、その気風が現在でも続いているのが、この日本国ではないかと思う。
最後に改めて原爆投下した米国の心理を記して締めたい。米国としてはこの人類初の兵器を初めて作った者として、できればその実証試験をして見たいということがあったのだろう。それと、今後の情勢として、米国の対敵国はソ連となることが見えて来たこの段階で、ソ連および世界各国に対し、米国の力を見せ付け震え上がらせるデモンストレーションを行うことに意味があったのではないだろうか。戦後において、原爆投下命令を下したトルーマンは、何度か原爆投下の正当性として、戦争の早期解決、多大な人命の損失を防いだかの説明をしているのだが、先にも述べた通り、原爆がなくても日本は負けたのでり、多大な人命の損失とは米国軍人のことを指すのだが、あまりに広島長崎の一般住民を無差別殺戮したことを言及していないことに腹立たしい。広島長崎で何名死んだのか、晩発性の死もあるし、大混乱で人の移動もあったりしたことや、当時の軍隊が報道規制したこともあるのだろう正確な数値は定かではないものの、両市合わせて30万以上であることは確かだろう。
この本は図書館から借り出して読んだ本だ。しかも、この際は同図書館の蔵書をNet検索して、別の本を目的の本として、該当本の書架に赴いた際、該当本より先に「これは読みたい」と抜き出した本なのだ。当然該当本も、容易に見つからなくて図書館職員の協力を要請し、借りて来たのだが・・・。
この際、図書館で借りだした本は、先の目的外で見つけた「原爆はなぜ投下されたか」と共に「杉山メモ」(厚さ4cm上下2巻)なのだが、目的の杉山メモだが先の大戦中の陸軍大将杉山元が政府高官に関わる陸軍参謀総長として自ら関わった各種発言録をおどろくべき几帳面さで記録していたというものだ。これについては、軍人とはいえこういう小まめさこそ正に官僚であり、メモという形だが恐らく現代にこういう形で残るとは予想しなかったではないかと思える。ちなみに、杉山は敗戦後9月に拳銃自殺しているが、その前に関わる筆記書などすべて焼いたと云われているのだが、何故かこの杉山メモが残されていて、多くの戦中記録が焼かれてない中で、大変役立つ歴史資料となっているそうだ。ただし、よほどの学術的関心でもなければ、この旧かな使い文を追い読む熱意は生まれない。と云うことで、ついでに借りて来たというべき「原爆はなぜ投下されたか」の方へ、筆者の知的関心は向いたのだった。
さて、本論となるが、アメリカの公式見解となる早期終戦を促すことで、人的損害を少なくする(あくまで米軍人員であり、広長合計30万死者と云われる)ためだったというのが寝言だとは従前から思っていたが、日本人としても負けを認めない軍部が本土決戦も辞さずと終戦に至らなかった話しは良く聞いている。だから、負け戦と云う中で、狂気の沙汰の特攻作戦というのが行われることになったのだろう。それも、形は自由意思だが、拒否すれば国賊者で村八分になろうということを十分背景に含みながらの作戦伝達だ。現在のヤクザとかブラック企業にも引けを取らない、陰湿な命令下達さと、それを天皇も含め政府高官は、黙って見ているばかりなりとは、幾ら戦時下こととは故、あまりのブラック連鎖に驚くのだが、これはある意味現代も行われていることだ。
この本では原爆投下の8月6日広島、同9日の長崎があり、軍部では原爆が投下されたということを理解はしていたのだが、そこにはこれで負けたという意見とはならなかったという。しかも、報道機関に対し、原爆とは書くな、被害詳細も書くなと報道規制し、新聞には「新型爆弾と思われる爆撃を受け、それなりの被害が出ているらしい」程度のものしか記されなかったという。なお、米国は、予てから日本政府部内に早期終戦を願う和平派とあくまで戦争継続を主張する軍属派が対立していることを知っており、短波ラジオの日本語放送とか、空中散布ビラでの原爆投下の事実とその威力などを報知していた様だ。この米軍の短波放送は、一般国民でもそれなりのインテリの中には聞いていた者もいたであろうが、先の和平派は下位者の働きもあり、十分にウォッチしていたことが記されている。
ところで、この太平洋戦争の開戦は真珠湾および南洋の陸軍攻撃部隊の進軍と合わせて開始されたのだが、およそ米国と日本の国力の差は少なくとも10倍もしくは20倍の開きがあるのであって、およそ経年する戦いとなったら負けるは必置という論理は共有していたはずなのだが、軍部はその論理を何時の間にやら精神論にすり替えていたのだ。つまり何処かのおバカな総理も述べ顰蹙を受けたごとく「神の国で負けない」と云うのだから呆れる。
ここで、敗戦の年(1945/8/15)の6月頃、御前会議において報告された現状の日本の抗戦能力(今風に云えばリソース)を知れる文章があり、この部分を強い関心を持ってみた。内容を2枚(4ページ分)添付する。
・民心の動向
軍部政府に対する批判逐次盛となり、指導者層に対する信頼感も動揺を来しつつある。また、国民的道義は頽廃の兆しがある。
・輸送力
汽船輸送力は最近の実績における損耗の推移からすれば本年末(12月)には使用船量はほとんど皆無に近い状態となる。鉄道輸送量は前年度に比し、1/2程度に減退した。
・物的国力
鉄鋼生産は前年同期比1/4に落ち入り、鋼船の新造補給は本年中期以降はまったく期待できない状態となった。大陸からの輸送量減により、化学工業は加速度的に低下しつつあり、軽金属、人造石油、火薬類の確保にも困難だ。液体燃料は貯油の払底と増産計画の進行遅延で、航空燃料の逼迫は中期以降の戦争遂行に重大な影響を及ぼす情勢。また、航空機を始めとする近代兵器の生産は、空襲の激化による交通および生産の破壊と前記の原材料や燃料の逼迫により在来方式による量産遂行は至難なる。
・国民生活
食料の逼迫は漸次深刻を加えている。局地的に飢餓状態を現出するところもあり、治安上も楽観を許さず、今後の更に深刻化するだろう。
ここまでの状況を伝えられながら、それでも和平派の早期終戦に軍部は、本土決戦に持ち込み、白兵戦なら負けないとか云うのに押し切られるのだから、もう話しにならない。ただ、軍部も将来的な負けは認めざるを得ないとして、ただしこの負け戦のまま負けたと云うのは納得がいかん、できるだけ一矢報いて日本軍の強さを見せ付けて米軍に一泡吹かせた上で、多少なりとも有利な条件で講和をしたいと云うのだが・・・。云うなれば国民の窮状など無視で、おのれの立場にのみ拘泥している姿と見える。
なお、和平派および軍部としても、第三国を経由して早期終戦への斡旋を取り付けようとあがいていたという。その第三国とはソ連なのだが、その一方で、既にドイツが負けている中、ソ連が満州や北方領土で開戦して来るという予想もあった中での、この呆れた終戦調停の願いだろう。
この様な状況で、8月6日広島への原爆投下、引き続いて9日に長崎への原爆投下で、和平派はこれで軍部も敗戦を認めるのかと思うところ(これは米国でもそう思っていた様だ)、軍部はこんなことで負けないとぜんぜん効果を認めようとしなかったという。つまり、ルーズベルトが原爆使用の正当性として述べた早期終戦に役立ったと云うのは根拠に疑問の出る発言なのだ。では、何が強硬な軍部をして敗戦しかないと覚悟させるに至ったのかと云えば、ソ連の開戦(8月8日もしくは9日)だったという。これは、先に述べている様に、ソ連が開戦する余地はあると理性的には思うものの、不理性にもそこに終戦調停を頼んでいたという虚脱に打ちのめされたというところだろう。
一方、米軍のマッカーサーなどは、B29の日本の主要都市26への繰り返し爆撃により、既に時間の問題で日本は降伏せざるをえないと繰り返し本国に報告していたという。ところが、日本の第三国経由の終戦の思いも把握し、既に勝つことは約束された状況であったが、原爆の投下実証を行うまで、そしてできればソ連に開戦される前に、その原爆を使用したいという思いで、終戦を引き延ばそうとすらしていたという。原爆投下命令は、ロスアラモスの原爆実験成功後、約1月を経て、7月31日か8月1日に投下を予定していたという。ところが、天候悪化で、それが8月6日広島になったという。そして、この広島投下を知るソ連は急遽日本への開戦と満州や北方領土での軍を侵攻させたのが、2発目の長崎原爆投下とほぼ同時になったということだ。
ソ連側の心理としては、ここで開戦もしていないのに終戦となったら、幾ら戦勝国でも、日本の権利をすべて米国に奪われてしまうということであり、大共産主義発展のため、欧州での動きのように、共産国の増加とか、分割統治を日本でもしたいという思いだったのだろう。
それと、この本で改めて知る日本政府高官(和平派政治家や軍部政治家共)が、なにかつけ繰り返し述べる、国体護持という最優先で述べる言葉があるのだが一言私見を記したい。国体とは天皇を基本とする国の形と理解するのだが、どうも私の受ける印象としては、国体護持と云いながら、その形の最上部に近い位置にいる自らの立場を守りたいという本心を、その言葉でマヤカシているのではないかと思えてしまう。そもそも、この本でも知れるところだが、毎度の御前会議とは2重構造になっていて、本当の会議は天皇の臨席なしで、種々決議し意見を決めたところで、天皇の臨席を受けて裁可の儀式をするというのが御前会議の実態だった様だ。この戦争を終結させるについて、8月15日以前の2回の御前会議では、和平派が軍部を謀り、当初から天皇臨席で開催させるという企みをしたということを知った。つまり、これにより天皇の言葉を引き出しことに成功するに至ったというのだ。この際、軍部側でもおおよおそ和平派の仕組んだことは判りつつ、あえてもうこれ以上引き延ばしても無理があろうと悟ったと云うところだろう。でも。この状況を知るとき、何というデタラメな連中なのかと感じることと、その気風が現在でも続いているのが、この日本国ではないかと思う。
最後に改めて原爆投下した米国の心理を記して締めたい。米国としてはこの人類初の兵器を初めて作った者として、できればその実証試験をして見たいということがあったのだろう。それと、今後の情勢として、米国の対敵国はソ連となることが見えて来たこの段階で、ソ連および世界各国に対し、米国の力を見せ付け震え上がらせるデモンストレーションを行うことに意味があったのではないだろうか。戦後において、原爆投下命令を下したトルーマンは、何度か原爆投下の正当性として、戦争の早期解決、多大な人命の損失を防いだかの説明をしているのだが、先にも述べた通り、原爆がなくても日本は負けたのでり、多大な人命の損失とは米国軍人のことを指すのだが、あまりに広島長崎の一般住民を無差別殺戮したことを言及していないことに腹立たしい。広島長崎で何名死んだのか、晩発性の死もあるし、大混乱で人の移動もあったりしたことや、当時の軍隊が報道規制したこともあるのだろう正確な数値は定かではないものの、両市合わせて30万以上であることは確かだろう。