最近関心を傾ける論評家・Mラムザイヤー
このところ、ちょっと部落関係のNet情報からが発端なのだが、米ハーバートロースクルール(法律学科)教授の、ジョン・マーク・ラムザイヤーという論評家に感心を持ちつつ、その著作本を1冊流し見し、2冊目を読んでいるところなのだ。
wikiでさらっと見たラムザイヤー氏の略歴を転記すると、1954年生まれ(66才)生まれて直ぐ来日、宮崎に18まで居住、ミシガン大学せ修理号を取得、現在ハーバード大学ロースクール(法律学)教授だという。日本の近代政治史などの著作多数。
ということで、今回は部落関係ではなく今回流し見したのは「日本政治の合理的選択 1868-1932」という著作だ。この1868-1932という年期間は明治維新後から大東亜戦争(太平洋戦争)直前までの期間と云うことになるが、その期間を日本を動かしたとされる国家指導者群のことを記している内容だ。
このラムザイヤー氏の考え方というか論理は非常に面白いと云うのが、まずは感じるところだ。
そもそも、明治維新を成した首謀者(云って見ればクーデーター実行者)は、その殊勲により権力者となり、それを現在の多くの論評、特に最も祭り上げたのは司馬遼太郎だろう。これをラムザイヤー氏は、山県有朋以外のことは多くは触れないが、寡頭政治(かとうせいじ:少数者による独裁政治)と表現しているところがまずは驚く。
それと、日本の過去において何時の時代もそうだったのだろうが、天皇を担ぎ上げ様々な国家指令を勅令(ちょくれい)として出す訳だが、これは実質的に天皇が決めたことではなく寡頭者が天皇の同意(ある意味無理強いして)を得て出している訳だ。この辺りのことは、日本の論評家も判っていたし、これ程直接的な表現でなくとも、それらしく解釈できる様な表現はなされて来た。これは、当本に記されていることではないが、敗戦後、国家の最上位指導者は天皇という立て付けなのだから、天皇が本当に権力を持ち指揮命令をしていたのなら、幾ら日本国民の反感がどうあろうが、罰を与えない訳がなかろう。それが、米国の合理主義と云うべきものだと思うが、マッカーサーにはその本質が理解できたからこそ、追訴の場に乗せなかったのだろう。
しかし、このラムザイヤー氏、日本の歴史家とか著述家が、これこれしかじかとミクロな分析をこねくり回し、それらしく解釈しているのを、それも悪くはないと一応肯定しつつ、自分はもっとマクロに眺めるんだと宣言しているところは面白い。それは、極めて当たり前と云える当然の論理で、ほとんどの企業組織は利潤の最大化を計り、ほとんどの政治的アクター(目的を持って計る者:寡頭者や政治家を指す)は、自らの権力の維持に努めるということだ。つまり、良い製品を安く売ろうとしない企業は結局は倒産し、自分の競争相手を等閑視(とうかんし:おろそかにすること)する政治家は結局は失墜するものだ。これは米国であろうが日本であろうが、また今現在も真実であり、1世紀昔も真実だったのだと云う。
さらに、ラムザイヤー氏は云う。精緻な理論を否定する訳ではないが、簡素な仮説を前提としたのは、それによりアクターが計った戦略的思考がより鮮明になると考えたとしている。
と云う様な前提で、明治維新のクーデター首謀者たる寡頭者達の政治、その付和雷同というか協調という連携のなさ、明治憲法と政治家および官僚の関係、枢密院という寡頭者を天皇屏風に結び付けるための組織の創造、そして何故最終的に軍部が国の実権を握るに至ったのかという解釈は、新鮮さと新たな納得感を持つものと感じた。こういう内容でのまとめは、日本の学者(特に高名でメインストリームを歩む者)には到底できないことだろう。
このところ、ちょっと部落関係のNet情報からが発端なのだが、米ハーバートロースクルール(法律学科)教授の、ジョン・マーク・ラムザイヤーという論評家に感心を持ちつつ、その著作本を1冊流し見し、2冊目を読んでいるところなのだ。
wikiでさらっと見たラムザイヤー氏の略歴を転記すると、1954年生まれ(66才)生まれて直ぐ来日、宮崎に18まで居住、ミシガン大学せ修理号を取得、現在ハーバード大学ロースクール(法律学)教授だという。日本の近代政治史などの著作多数。
ということで、今回は部落関係ではなく今回流し見したのは「日本政治の合理的選択 1868-1932」という著作だ。この1868-1932という年期間は明治維新後から大東亜戦争(太平洋戦争)直前までの期間と云うことになるが、その期間を日本を動かしたとされる国家指導者群のことを記している内容だ。
このラムザイヤー氏の考え方というか論理は非常に面白いと云うのが、まずは感じるところだ。
そもそも、明治維新を成した首謀者(云って見ればクーデーター実行者)は、その殊勲により権力者となり、それを現在の多くの論評、特に最も祭り上げたのは司馬遼太郎だろう。これをラムザイヤー氏は、山県有朋以外のことは多くは触れないが、寡頭政治(かとうせいじ:少数者による独裁政治)と表現しているところがまずは驚く。
それと、日本の過去において何時の時代もそうだったのだろうが、天皇を担ぎ上げ様々な国家指令を勅令(ちょくれい)として出す訳だが、これは実質的に天皇が決めたことではなく寡頭者が天皇の同意(ある意味無理強いして)を得て出している訳だ。この辺りのことは、日本の論評家も判っていたし、これ程直接的な表現でなくとも、それらしく解釈できる様な表現はなされて来た。これは、当本に記されていることではないが、敗戦後、国家の最上位指導者は天皇という立て付けなのだから、天皇が本当に権力を持ち指揮命令をしていたのなら、幾ら日本国民の反感がどうあろうが、罰を与えない訳がなかろう。それが、米国の合理主義と云うべきものだと思うが、マッカーサーにはその本質が理解できたからこそ、追訴の場に乗せなかったのだろう。
しかし、このラムザイヤー氏、日本の歴史家とか著述家が、これこれしかじかとミクロな分析をこねくり回し、それらしく解釈しているのを、それも悪くはないと一応肯定しつつ、自分はもっとマクロに眺めるんだと宣言しているところは面白い。それは、極めて当たり前と云える当然の論理で、ほとんどの企業組織は利潤の最大化を計り、ほとんどの政治的アクター(目的を持って計る者:寡頭者や政治家を指す)は、自らの権力の維持に努めるということだ。つまり、良い製品を安く売ろうとしない企業は結局は倒産し、自分の競争相手を等閑視(とうかんし:おろそかにすること)する政治家は結局は失墜するものだ。これは米国であろうが日本であろうが、また今現在も真実であり、1世紀昔も真実だったのだと云う。
さらに、ラムザイヤー氏は云う。精緻な理論を否定する訳ではないが、簡素な仮説を前提としたのは、それによりアクターが計った戦略的思考がより鮮明になると考えたとしている。
と云う様な前提で、明治維新のクーデター首謀者たる寡頭者達の政治、その付和雷同というか協調という連携のなさ、明治憲法と政治家および官僚の関係、枢密院という寡頭者を天皇屏風に結び付けるための組織の創造、そして何故最終的に軍部が国の実権を握るに至ったのかという解釈は、新鮮さと新たな納得感を持つものと感じた。こういう内容でのまとめは、日本の学者(特に高名でメインストリームを歩む者)には到底できないことだろう。