私の思いと技術的覚え書き

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書評 炎上(中部博著)

2019-08-19 | 論評、書評、映画評など
 この炎上という本は、既に45年前となる1974年6月2日、富士スピードウェイ(旧名FISCO、現在FSW)において、富士グラン300キロレース(通称グラチャン)において生じた多重クラッシュと当時のトップクラスドライバー2名の焼死事故の内容を伝えるものです。

 まず最初に総論評価として読後感はよろしくない。そのよろしくない理由だが、著者は限られた資料を当たり尽くし、当時のドライバー達への聞き取り調査を重ねつつ、事故原因の核心に迫ろうと熱心に調査を重ねた苦労は良く書き表されており、そこに自らの思考を交え評価を加えているのだが、おおむね断定を避け、あえて結論をぼやかすが如く逃げを行った論評に尽きると思えたことからなのだ。

 しかし、当時高校生であった愚人は、レース自体に熱狂までする様な趣向は持っていなかったし、当時のトップクラスレーサーの名前も把握しておらず、そんな事故があって、あの30度バンクはレースという競技では危険があるのだろうな程度の感心しかなかった。ということで、本事故が30度バンクで生じたものとすら勝手に思い込んでいたのだ。それは、本事故後、FISCOのコースが改修され、30度バンクを使用しない短縮コースにされたなどのニュースから、そう思い込んだのだろうと思える。

 この本で知る事故の実際は、2ヒート制で行われた2レース目において、2周のローリングスタートの末、スタートライン付近でグリーンフラッグが振られ、参加車が一斉に全力加速している時、1コーナーである30度バンク以前の直線区間で生じたことを改めて知った。

 FISCOの1コーナーたる30度バンクは、最高ラップを刻む理想のラインは1本しかないという。およそどの様なコースでも、直線からコーナーに侵入するには、最大コーナーリング曲率を最大限に取ろうとすれば、最外側から侵入するのが当たり前のことだろう。従って、スターティングフラッグ後の全力加速においては、コース進行方向の左端部(30度バンク最上部)を目指して、各車がしのぎを削ることになるのだが、左側後方を注意も払わず進路変更すれば事故となることは判っているから、多少は強引となろうとも、プロとしては事故や過剰なブロックとならない範囲で左方への進路変更を行い、アクセル全開のまま進入できる30度バンク1コーナーへ向かうのだが・・・。

 この本による調査によれば、事故の概略は以下の様になる。(以下ドライバー名の敬称は略す。)
 スターティングフラッグ後の全車最大加速において、黑沢車が左横に並び掛けた(本内の消極的表現では僅かに車頭が先行していた)北野車に3回の故意積極的な接触事故を起こしたことを認めている。そして、その接触を受けて、北野車は左車輪をコース外のグリーンに落とさざるを得なかったこと、さらに北野車のフロントカウルを固定しているピンが衝突のダメージで外れ、ためにコントロールを失った同車はコース左端から斜めに右端まで突っ切らざるを得ない状況に陥ったということが判る。このフル加速の車群の中での斜め走行は、先行の風戸車の後方へのクラッシュだとか、北野車後方車群との多重クラッシュを誘発しつつ進展した。

 風戸車は左後方をヒットされコントロールを失い、1コーナー入口付近の側壁にぶつかり飛び上がり信号ポールに衝突後落下して炎上した。また、北野車を避けきれなかった鈴木車は、やはりコントロールを失い、風戸車近くの1コーナーのガードレールに激突し炎上したという。

 一方、北野車の右向により避けきれなかった漆原車は、北野車の上に覆い被さる様に一体になり、コース右側のラフに突っ込み停止したが、この時点でマシンは火を噴き出していた。この2車は比較的車体の変形は小さかったのだろう、素早く脱出した漆原と、その直後漆原車が覆い被さり脱出困難だった北野は、漆原の脱出で僅かに動いたマシン間の隙間から、漆原の導きもあり脱出でき生還した。

 およそ200キロを超える速度で、構築物にまともに衝突した風戸と鈴木は、車体変形も極めて大きく、直後に火を噴いたこともあり、到底救助が間に合わず焼死した。

 先に述べた様に同レースは2ヒート制だが1ヒート目にも事件が起きており、そのことを切っ掛けに、2ヒートレース前のドライバーズミーティングにおいて、レース参加メンバーを憤然とさせるという出来事があったことが記されている。

 まず、1ヒートのローリング中に、黑沢車(ポールポジション)が併走する高橋車を威嚇する様に強烈なウィービング(左右への転蛇)を繰り返したという。そして、スターティングフラッグ後の前車加速において、黑沢車は一瞬スローダウンを行ったというのだ。この件(特にスローダウン)について、参加の他メンバーから追求された黑沢は「ポールポジション車は総てのペースを決める権利がある」などと発言し、皆の眉を潜ませたという出来事があったという。

 この本は先にも述べた様に精力的な取材を繰り返していることが伺われ、その点で著者の情熱を感じるところだ。一方、その記述は、明確な断定を極力避け、明らかに結論はそれしかないだろうというところまで、持って廻った説明に終始するという冗長さに愚人は疲れ、中半から以降は斜め読みとして、内容確認程度に留めてしまった。それでも、レーサーそれぞれの性格だとか、それぞれが、それぞれに対する尊敬、対等、見下げたという意識が伝わり面白いところだ。これは、例えば、相手の敬称として「さん」と「君」があるが、国会などの議場での呼び習わしは君であるが、一般に相手のことを○○君と呼ぶのは、同等か恐らく見下げた呼び方であろう。この本で、多くの質問されたドライバー達は、亡くなった鈴木とか、命に別状なかった高橋、北野のことを「さん」と呼び黑沢のことを「君」と呼んでいるのである。これは黑沢より日産ワークス後輩で年も下である長谷見までがそうであるのは注目することであった。

 ここまで読んで戴き、しかも愚人は黑沢を Youtube 評価でしか知らぬが、結構マトモな頷ける評価をしているなと思って来た者として、黑沢にそんなある意味身勝手とさえ云える正確があったのかと驚くのだ。

 一方、黑沢は日産ワークス時代から、BSの貴重な評価者として認められ手板のだろう、タイヤ供給についても特別優遇を受けている。また、R380系のレーシングカー開発の大御所たる櫻井眞一郎氏も「黑沢は私の貴重なテスター」と述べるなど、黑沢の車両評価眼には一目おいていたことが伺える。また、当時の後輩ドライバーたる星野なども、開発力は黑沢が一番と述べている。

 ところで、私は技術者(職人)として良く判るのだが、その評価の仕方も難しいところがあるという話しを読んで感心したので以下に紹介したい。
 あるレーサーが、「後輪のロール剛性が足りない、アンチロールバーを太くしてくれ」などと櫻井氏に云おうものなら、なにを生意気なと櫻井氏はロールバーを太くせず、フロントのロール剛性を落として走らせ、良くなったと云うドライバーを見て笑っていたというものだ。やはり、餅は餅屋というけれど、設計屋には設計屋のプライドがあるということだろう。その様な点で黑沢は伝え方が巧いというか世慣れていたと感じるところである。例えば先の様な件では、アンチロールバーの太さまで踏み込んで発言せず、この速度域でとかあのコーナーでアンダーステアが強く出るので踏み込めない程度に留め、決して設計屋の土俵に踏み込まない世渡りは巧かったのだろう。しかし、同僚には、その美味さが狡さと感じられ君に結び付いたというのは、あくまで愚人の想像である。




関連ブログ

30度バンクの思い出 2015-02-08
https://blog.goo.ne.jp/wiseman410/e/18464d4e883dd7ba253945064ac08efc

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