もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば
石橋湛山が首相を長く続けていれば!
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もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば
日経新聞の名物記者が湛山を振り返る
永野 健二 : ジャーナリスト
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2017/11/15 6:00 東洋経済
1956年12月の自民党総裁公選で、7票差で岸信介に勝った石橋湛山。72歳の湛山は年明け1月に病に倒れ、わずか65日でその座を岸に譲った(東洋経済写真部)
石橋湛山(1884−1973)は戦前期に東洋経済の記者、編集長、社長を務めたジャーナリスト。戦後は政治家に転じ、1956年12月には首相にのぼりつめた。ところが病に倒れ、わずか65日で首相を退いた。
湛山が健康を維持していたとしたら何が起きただろうか。その後の岸信介内閣はなく、日米関係は大きく異なったものになったかもしれない。戦後の経済政策の中軸も、岸内閣を引き継いだ池田勇人内閣で基盤が固まった官主導ではなく、民主導のものになっていたかもしれない。
東洋経済の創刊記念日である11月15日、読者の皆さまとそのような「もし」を考えたく、日経の永野健二氏に「もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば」とのテーマで寄稿をお願いした。
東洋経済オンライン編集長 山田俊浩
朽ちかけていた安倍晋三政権が、小池百合子「希望の党」の大失態でよみがえった。彼女の罪は、経済政策においても「ユリノミクス」などとつぶやいて、あらゆる意味で終わっていたアベノミクスを復活させてしまったことにある。アベノミクスの大胆な修正を図る最後のチャンスを、「働き方改革」という呼び替えによって、終わっていた経済政策の存続を許してしまった。
今1つの懸念は、北朝鮮危機をあおりつつ、軍事同盟強化一本やりで、米ドナルド・トランプ政権との間で日米連携の強化を図りつつあることだ。国際的な危機意識の高まりを背景に、ステレオタイプな安倍首相の直進路線が、世界史の中でも特筆すべき危険なリーダーであるトランプ政権との野合を深めつつある。
岸を首相にした"真犯人"は誰か
日本の戦後政治の分岐点ともなったのは1960年安保。警職法をめぐる対応の誤りで、安保条約改定を、国民的な運動にまで高め、自らの政権の寿命を縮めたのが、安倍首相の祖父である岸信介だった。
1960年安保改定を、その質的な意味を問わずに「お祖父ちゃんの不人気は間違いだ」と繰り返し、「憲法改正」にまで、踏み出そうとしているのが、長期安定の安倍政権の、もう1つの顔である。
岸が選択した日米軍事同盟路線は、はたして正しかったのか。岸が選択した1960年の選択を、「不当におとしめられ続けた祖父の再評価」として位置づけているのが、安倍政権である。
岸というA級戦犯にも擬せられた人を、GHQ支配の戦後の復興期に、あっけなく首相の座にまで上り詰めさせた、真犯人は誰なのか。
それは朝鮮戦争後の冷戦の構図や、日本経済の急回復を抜きには考えられないが、1955年の保守合同によって1956年に首相に上り詰めたにもかかわらず、あっけなくその座を退いた石橋湛山の政治行動があったことも忘れてはならない。
戦中から戦後にかけて、リベラルな自由主義の旗を掲げた湛山とは、180度違う路線を歩んだ戦前の革新官僚に、首相への道を開いたのは、皮肉にも湛山その人だった。
私たち、ジャーナリストにとっては、石橋湛山といえば、大正デモクラシーの時代から日中戦争、そして、軍国主義にいたる時代を、「小日本主義」を掲げ、軍事力の強化と植民地を持つことの経済的な無意味さを問い続け、リベラリズムを貫いた硬骨のジャーナリストである。
『週刊東洋経済新報』(現在の週刊東洋経済)1929年3月16日号は金解禁問題を特集した
東洋経済新報という経済メディアを、社長として自ら率いた湛山は、ジョン・メイナード・ケインズの一般理論を、最も早く、日本人として読み込み、論陣を張った「実践のエコノミスト」としても知られる。
特に、昭和恐慌後の金本位制への復帰をめぐる議論の過程では、金解禁(実質的な金本位制への復帰)をめぐって、旧平価での解禁を考える、井上準之助蔵相に対して、実質的な円安での解禁を主張する、湛山などジャーナリスト・エコノミスト4人組の立場が鋭く対立した。湛山の論拠は、「購買力平価説」にあった。
東洋経済新報の石橋湛山・高橋亀吉、中外商業新報(現・日本経済新聞社)の小汀利得、時事新報の山崎靖純の4人組らは、第一次世界大戦や関東大震災後の日本経済の実力に合わせた新平価解禁を主張した。
首尾一貫したジャーナリストとしての言動
あとから振りかえるならば、4人組の完全勝利だった。ジャーナリストの権力に対する役回りが、これほど見事に体現された例を知らない。そして、もし湛山なかりせば、この論争は成立しなかったと思う。
石橋のリベラリズムは、国家にとっては危険思想だったが、金解禁論争などを通じて、市場経済になじんだ財界人からの積極的な支持を得ていた。
彼の舞台が経済ジャーナリズムであったことが、政治的には湛山の過激な思想を減殺した側面もあった。
戦前の日本において、新聞・雑誌のジャーナリズムが置かれていた立場を、とりわけ、経済ジャーナリズムが置かれていた立場を考えるとき、湛山が「小日本主義」や「金解禁論争」などを通じて、東洋経済新報を舞台に展開した報道を改めて評価しなければならないと思う。戦中日本における、彼の首尾一貫したジャーナリストとしての言動を思い起こすとき、胸が熱くなることを禁じ得ない。
しかし、戦前のジャーナリストとしての湛山評価に比べると、戦後の保守政治家としての、活動と活躍に対する評価は、今一つあいまいで、不明瞭である。
湛山人気を横目に、吉田茂が危機感を覚えた
1946年5月22日、湛山は、第1次吉田茂内閣の下で大蔵大臣に就任する。翌1947年5月、GHQにより、公職追放を受け、大蔵大臣を辞する。国民の間で急速に盛り上がる石橋人気を横目に、吉田茂が危機感を覚え、GHQの追放指令に見て見ぬふりをしたともいわれる。
1956年の総裁公選における石橋湛山(72)、岸信介(60)、石井光次郎(67)
GHQによる追放後は、鳩山一郎を担ぎ上げることを、三木武吉とともに画策する。岸も同じ自由党員だった。そして1955年、後に「五十五年体制」と呼ばれることになる自由民主党一党支配の体制に参画する。
そして、鳩山とともに追放解除となり、第3次鳩山内閣で1955年11月、通産大臣に就任する。大蔵大臣に就任の予定だったが、官僚や自民党の政治家の一部に激しい反対があったといわれる。
翌年(1956年)12月に行われた第3回自由民主党大会で、決選投票の結果、2、3位連合で、初回投票第1位の岸信介を破り総裁に選任、同年12月、石橋湛山内閣が成立した。
好事魔多し。1957年1月、湛山は急性肺炎に倒れ、2月23日、総辞職し総理大臣を辞任する。在任期間はわずか65日であった。
2月4日、石橋内閣初の施政方針演説を代読したのは、岸信介内閣総理大臣臨時代理だった(石橋湛山施政方針演説より)。
「自由民主党および日本社会党の両党が、外交をはじめ、国政の大本について、常時率直に意見をかわす慣行を作り、おのおのの立場を明らかにしつつ、力を合わせるべきことについては相互に協力を惜しまず、世界の進運に伍していくようにしなければならないと思うのであります」
「国会に国民が寄せる信頼は、民主主義の基であります。これにいささかなりともゆるぎがあってはなりません」
岸臨時代理は、彼の思想信条と異質な、石橋湛山のリベラルな理想を読み上げた。そして間をおかず石橋内閣は総辞職し、2月25日に岸信介内閣が成立する。
石橋湛山と岸信介。政治信条も行動も違う2人の保守政治家が、はからずも総理の座を継承したことは、歴史の皮肉である。
岸は、戦前から商工省官僚として、満州国経営など日本の戦時統制経済に辣腕を振るう「革新官僚」であり、東条英機内閣で商工大臣を務める。戦後は、戦犯容疑で逮捕されるも不起訴・公職追放される。
石橋内閣で、外務大臣に処遇された岸信介については、秘話がある。石橋の提出した閣僚名簿について、明らかに昭和天皇と思われる方が「自分はこの名簿に対して只一つ尋ねたいことがある。彼は先般の戦争に於いて責任がある。その重大さは東条(英機)以上であると自分は思う」と語ったという(石橋湛山から岸信介に宛てた私信より。1960年4月20日)。石橋は天皇に「百方辞を尽くして了解を」求めたという。
なぜ、そうまでして岸を外相に起用したのか。後年、この間の事情について、湛山は「ともかく岸派というものは無視できなかった」と語っている。
1960年5月に、岸内閣は安保条約を単独で可決し、安保反対運動は広がり、国会は空転、6月15日にはデモ隊と警官隊が衝突、樺美智子がデモの渦中で死亡、社会混乱の中で、19日、安保条約は自然成立する。日米安保条約の発効を見届け、岸は退陣する。
国民の圧倒的な人気に支えられた時代の寵児
岸と比べると、湛山は対照的だ。戦後になってジャーナリストから政界に飛び込んだ湛山は、まさに、国民の圧倒的な人気に支えられた時代の寵児でもあった。
前述のように、その石橋は病に倒れ、あっけなく辞任する。医師から2カ月の休養を求められると「首相の国会欠席は公約たる国会運営の正常化に背く」として辞職したのである。
このあまりにもあっけない辞任の裏には、かつて満州事変の直前に、浜口雄幸首相の国会長期欠席を論難して、「言行一致し得ぬ場合にはその職を去るべし」という湛山が浜口に対して吐いた言葉を、自らの政治的出処進退として実践したものだった。政治家というよりは、ジャーナリストとしての筋の通し方が、石橋の辞任の原点にあったのである。
石橋の辞任に対しては、憲政の常道をまっとうする道として、最大級の評価をする声が多かった。そして、ジャーナリスト湛山の決断こそが、内閣序列第2位の岸信介を、内閣総理大臣臨時代理に押し上げ、石橋とはまったく政治信条の異なる岸信介を総理大臣として、60年安保に向かい合わせることになった。
ところが、その後の石橋は健康を回復する。総理大臣を辞してからも、1963年の総選挙に落選して政界を引退するまで積極的な政治活動を展開した。
健康を回復した石橋は1960年に入ると、1月に、岸首相訪米に際して送った書簡で、①中国との国交回復のための日米両国の協力、②アジア安定のために日米中ソ印の五カ国会議を開くことを進言した。
また、日米安全保障条約の強行採決に反対し、さまざまなルートを通じて、岸信介首相に退陣を勧告する。6月には、東久邇宮稔彦、片山哲両元首相とともに、岸信介に総理退任を迫っている。
湛山が岸に総理大臣を譲ったことは、その後に大きな影響を与えて、そのことが現在にまで影響を与えていることがよくわかるだろう。湛山の政治信条に殉じた見事な引き際とは別に、「岸内閣で安保騒動があったことを考えると、鮮やかな辞職は本当によかったのか」との議論が出ることはやむをえない。
昭和戦前期の石橋湛山
政治信条に殉じるのであれば、石橋にとって、岸信介へのバトンタッチはあり得ない選択だった。しかし、そうせざるをえなかったのは、初の総裁公選によって岸が多くの票を取っていたからである。湛山が感じていたそもそもの不満は、盟友であるはずの鳩山が総裁公選の道を選んだことであった。
この総裁公選の事情について、石橋は「湛山座談」において「鳩山(一郎)氏がずるいですね。ずるかったんですよ。後任者を指名することができなかった。指名するなら僕をしなければならない。けれども、僕に対してあまりいい感じを持っておらないわけじゃ」「岸氏にしたいという気持ちが先生に非常に動いていた」と、自らの盟友への批判を、晩年明らかにしている。
しかし、前述したように、ジャーナリスト湛山の信念が、政敵岸の登用に優先したともいえる。
保守政治家石橋湛山の行動原理が、リベラリスト石橋湛山の理想を踏み越えたのである。そして、湛山は「からだが達者で自分が第一線でどんどん指揮が取れればよいけれども、それほど達者でいられるかどうかわからぬですね」と述べている。政治家石橋湛山の健康への不安も、岸信介へのバトンタッチを許容した理由である。
もし湛山が病魔に倒れなかったならば
それにしても、歴史に「もし」は禁物とわかりつつ、「もし湛山が病魔に倒れなかったならば」「湛山がもし、総理の座をすぐに投げ出さなかったなら」と考えないわけにはいかない。
1959年9月に訪中。北京で周恩来首相(右)ら中華人民共和国の首脳と相次いで会談した
もし湛山が健康で、総理の座を全うしていたなら、国民的な人気を背景にした「社会主義勢力との共存」「中国との早期国交樹立」「日米中ソ印の5カ国の話し合い」という独自の外交観によって、岸による、日米安保路線とは大きく違った道筋を、日本が歩んだことは間違いない。
それ以上に、湛山自身の経済記者40年を振り返ってみれば、リベラルなエコノミストである湛山に、戦後の日本経済の成長期に、自由に経済政策を切り盛りしてもらいたかった、ということを夢想せざるをえない。
戦前の湛山は、日中戦争に踏み出す日本の短慮を批判し「小日本主義」を主張して、いたずらな経済的な拡張主義、軍備の増強主義を批判し続けた。
また、昭和恐慌前後の「金解禁論争」では、国際的な通貨変動の時代を予見したばかりか、「購買力平価論」を誰よりも早く、わがものとしていた。さらに、1936年のジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が出た直後には、英文でこれを読破して、「有効需要」の理論を、盟友の高橋亀吉ともども、自家薬籠中のものとしていた。
実践派エコノミスト、石橋湛山の知恵は、日本の戦後の経済政策に、もっと生かすべきだったのではないか、というのが、湛山同様、40年近く、経済記者として、マーケットを見つめ続けてきた、私の思いでもある。
岸は、安保改定後、日を置かず退任する。その後継に指名されたのが、反主流派だった大蔵省出身の池田勇人であり、彼が選択したのが「所得倍増」を掲げた高度成長路線だった。
「所得倍増政策」によって、日本の高度成長期を乗り切った池田勇人の経済政策を批判する向きは少ない。
しかし、少し引いて見るならば、戦後の自由民主党の政治を、大蔵官僚主導の官僚主義と一体の仕組みに編み上げたのが、池田であり、宏池会だった。まさに、自由民主党の一党支配と、大蔵省を頂点とした官僚支配をバブル崩壊まで引きずったのは、池田内閣が作り上げた自民党一党支配の体制だった。池田の最大の罪も、そこにある。
湛山の道は、明らかに、もう1つの道だった
そして、湛山は、大蔵省から忌み嫌われ続けていた。
晩年の石橋湛山。1973年4月に亡くなった
岸の商工省「革新官僚」主義から、大蔵省主導の「官民一体の資本主義」への権力移転は、こうして強化され、成立した。それこそが、五十五年体制と呼ばれる、湛山も加わった戦後政治の転換の帰結でもあった。
それが、悪かったと断定する根拠を私は持たない。しかし、湛山の道は、明らかに、もう1つの道だったと思う。そして、湛山が、もし健康に政権を全うしていたら、もう1つの道が政策として選ばれたことは間違いない。
エコノミストにして自由主義者だった湛山の夢を、戦後の日本の成長期に、縦横無尽にキャンバスに描いてほしかった! そのように思うのは私だけではないだろう。
石橋湛山が首相を長く続けていれば!
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もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば
日経新聞の名物記者が湛山を振り返る
永野 健二 : ジャーナリスト
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2017/11/15 6:00 東洋経済
1956年12月の自民党総裁公選で、7票差で岸信介に勝った石橋湛山。72歳の湛山は年明け1月に病に倒れ、わずか65日でその座を岸に譲った(東洋経済写真部)
石橋湛山(1884−1973)は戦前期に東洋経済の記者、編集長、社長を務めたジャーナリスト。戦後は政治家に転じ、1956年12月には首相にのぼりつめた。ところが病に倒れ、わずか65日で首相を退いた。
湛山が健康を維持していたとしたら何が起きただろうか。その後の岸信介内閣はなく、日米関係は大きく異なったものになったかもしれない。戦後の経済政策の中軸も、岸内閣を引き継いだ池田勇人内閣で基盤が固まった官主導ではなく、民主導のものになっていたかもしれない。
東洋経済の創刊記念日である11月15日、読者の皆さまとそのような「もし」を考えたく、日経の永野健二氏に「もし石橋湛山が首相を長く続けていたならば」とのテーマで寄稿をお願いした。
東洋経済オンライン編集長 山田俊浩
朽ちかけていた安倍晋三政権が、小池百合子「希望の党」の大失態でよみがえった。彼女の罪は、経済政策においても「ユリノミクス」などとつぶやいて、あらゆる意味で終わっていたアベノミクスを復活させてしまったことにある。アベノミクスの大胆な修正を図る最後のチャンスを、「働き方改革」という呼び替えによって、終わっていた経済政策の存続を許してしまった。
今1つの懸念は、北朝鮮危機をあおりつつ、軍事同盟強化一本やりで、米ドナルド・トランプ政権との間で日米連携の強化を図りつつあることだ。国際的な危機意識の高まりを背景に、ステレオタイプな安倍首相の直進路線が、世界史の中でも特筆すべき危険なリーダーであるトランプ政権との野合を深めつつある。
岸を首相にした"真犯人"は誰か
日本の戦後政治の分岐点ともなったのは1960年安保。警職法をめぐる対応の誤りで、安保条約改定を、国民的な運動にまで高め、自らの政権の寿命を縮めたのが、安倍首相の祖父である岸信介だった。
1960年安保改定を、その質的な意味を問わずに「お祖父ちゃんの不人気は間違いだ」と繰り返し、「憲法改正」にまで、踏み出そうとしているのが、長期安定の安倍政権の、もう1つの顔である。
岸が選択した日米軍事同盟路線は、はたして正しかったのか。岸が選択した1960年の選択を、「不当におとしめられ続けた祖父の再評価」として位置づけているのが、安倍政権である。
岸というA級戦犯にも擬せられた人を、GHQ支配の戦後の復興期に、あっけなく首相の座にまで上り詰めさせた、真犯人は誰なのか。
それは朝鮮戦争後の冷戦の構図や、日本経済の急回復を抜きには考えられないが、1955年の保守合同によって1956年に首相に上り詰めたにもかかわらず、あっけなくその座を退いた石橋湛山の政治行動があったことも忘れてはならない。
戦中から戦後にかけて、リベラルな自由主義の旗を掲げた湛山とは、180度違う路線を歩んだ戦前の革新官僚に、首相への道を開いたのは、皮肉にも湛山その人だった。
私たち、ジャーナリストにとっては、石橋湛山といえば、大正デモクラシーの時代から日中戦争、そして、軍国主義にいたる時代を、「小日本主義」を掲げ、軍事力の強化と植民地を持つことの経済的な無意味さを問い続け、リベラリズムを貫いた硬骨のジャーナリストである。
『週刊東洋経済新報』(現在の週刊東洋経済)1929年3月16日号は金解禁問題を特集した
東洋経済新報という経済メディアを、社長として自ら率いた湛山は、ジョン・メイナード・ケインズの一般理論を、最も早く、日本人として読み込み、論陣を張った「実践のエコノミスト」としても知られる。
特に、昭和恐慌後の金本位制への復帰をめぐる議論の過程では、金解禁(実質的な金本位制への復帰)をめぐって、旧平価での解禁を考える、井上準之助蔵相に対して、実質的な円安での解禁を主張する、湛山などジャーナリスト・エコノミスト4人組の立場が鋭く対立した。湛山の論拠は、「購買力平価説」にあった。
東洋経済新報の石橋湛山・高橋亀吉、中外商業新報(現・日本経済新聞社)の小汀利得、時事新報の山崎靖純の4人組らは、第一次世界大戦や関東大震災後の日本経済の実力に合わせた新平価解禁を主張した。
首尾一貫したジャーナリストとしての言動
あとから振りかえるならば、4人組の完全勝利だった。ジャーナリストの権力に対する役回りが、これほど見事に体現された例を知らない。そして、もし湛山なかりせば、この論争は成立しなかったと思う。
石橋のリベラリズムは、国家にとっては危険思想だったが、金解禁論争などを通じて、市場経済になじんだ財界人からの積極的な支持を得ていた。
彼の舞台が経済ジャーナリズムであったことが、政治的には湛山の過激な思想を減殺した側面もあった。
戦前の日本において、新聞・雑誌のジャーナリズムが置かれていた立場を、とりわけ、経済ジャーナリズムが置かれていた立場を考えるとき、湛山が「小日本主義」や「金解禁論争」などを通じて、東洋経済新報を舞台に展開した報道を改めて評価しなければならないと思う。戦中日本における、彼の首尾一貫したジャーナリストとしての言動を思い起こすとき、胸が熱くなることを禁じ得ない。
しかし、戦前のジャーナリストとしての湛山評価に比べると、戦後の保守政治家としての、活動と活躍に対する評価は、今一つあいまいで、不明瞭である。
湛山人気を横目に、吉田茂が危機感を覚えた
1946年5月22日、湛山は、第1次吉田茂内閣の下で大蔵大臣に就任する。翌1947年5月、GHQにより、公職追放を受け、大蔵大臣を辞する。国民の間で急速に盛り上がる石橋人気を横目に、吉田茂が危機感を覚え、GHQの追放指令に見て見ぬふりをしたともいわれる。
1956年の総裁公選における石橋湛山(72)、岸信介(60)、石井光次郎(67)
GHQによる追放後は、鳩山一郎を担ぎ上げることを、三木武吉とともに画策する。岸も同じ自由党員だった。そして1955年、後に「五十五年体制」と呼ばれることになる自由民主党一党支配の体制に参画する。
そして、鳩山とともに追放解除となり、第3次鳩山内閣で1955年11月、通産大臣に就任する。大蔵大臣に就任の予定だったが、官僚や自民党の政治家の一部に激しい反対があったといわれる。
翌年(1956年)12月に行われた第3回自由民主党大会で、決選投票の結果、2、3位連合で、初回投票第1位の岸信介を破り総裁に選任、同年12月、石橋湛山内閣が成立した。
好事魔多し。1957年1月、湛山は急性肺炎に倒れ、2月23日、総辞職し総理大臣を辞任する。在任期間はわずか65日であった。
2月4日、石橋内閣初の施政方針演説を代読したのは、岸信介内閣総理大臣臨時代理だった(石橋湛山施政方針演説より)。
「自由民主党および日本社会党の両党が、外交をはじめ、国政の大本について、常時率直に意見をかわす慣行を作り、おのおのの立場を明らかにしつつ、力を合わせるべきことについては相互に協力を惜しまず、世界の進運に伍していくようにしなければならないと思うのであります」
「国会に国民が寄せる信頼は、民主主義の基であります。これにいささかなりともゆるぎがあってはなりません」
岸臨時代理は、彼の思想信条と異質な、石橋湛山のリベラルな理想を読み上げた。そして間をおかず石橋内閣は総辞職し、2月25日に岸信介内閣が成立する。
石橋湛山と岸信介。政治信条も行動も違う2人の保守政治家が、はからずも総理の座を継承したことは、歴史の皮肉である。
岸は、戦前から商工省官僚として、満州国経営など日本の戦時統制経済に辣腕を振るう「革新官僚」であり、東条英機内閣で商工大臣を務める。戦後は、戦犯容疑で逮捕されるも不起訴・公職追放される。
石橋内閣で、外務大臣に処遇された岸信介については、秘話がある。石橋の提出した閣僚名簿について、明らかに昭和天皇と思われる方が「自分はこの名簿に対して只一つ尋ねたいことがある。彼は先般の戦争に於いて責任がある。その重大さは東条(英機)以上であると自分は思う」と語ったという(石橋湛山から岸信介に宛てた私信より。1960年4月20日)。石橋は天皇に「百方辞を尽くして了解を」求めたという。
なぜ、そうまでして岸を外相に起用したのか。後年、この間の事情について、湛山は「ともかく岸派というものは無視できなかった」と語っている。
1960年5月に、岸内閣は安保条約を単独で可決し、安保反対運動は広がり、国会は空転、6月15日にはデモ隊と警官隊が衝突、樺美智子がデモの渦中で死亡、社会混乱の中で、19日、安保条約は自然成立する。日米安保条約の発効を見届け、岸は退陣する。
国民の圧倒的な人気に支えられた時代の寵児
岸と比べると、湛山は対照的だ。戦後になってジャーナリストから政界に飛び込んだ湛山は、まさに、国民の圧倒的な人気に支えられた時代の寵児でもあった。
前述のように、その石橋は病に倒れ、あっけなく辞任する。医師から2カ月の休養を求められると「首相の国会欠席は公約たる国会運営の正常化に背く」として辞職したのである。
このあまりにもあっけない辞任の裏には、かつて満州事変の直前に、浜口雄幸首相の国会長期欠席を論難して、「言行一致し得ぬ場合にはその職を去るべし」という湛山が浜口に対して吐いた言葉を、自らの政治的出処進退として実践したものだった。政治家というよりは、ジャーナリストとしての筋の通し方が、石橋の辞任の原点にあったのである。
石橋の辞任に対しては、憲政の常道をまっとうする道として、最大級の評価をする声が多かった。そして、ジャーナリスト湛山の決断こそが、内閣序列第2位の岸信介を、内閣総理大臣臨時代理に押し上げ、石橋とはまったく政治信条の異なる岸信介を総理大臣として、60年安保に向かい合わせることになった。
ところが、その後の石橋は健康を回復する。総理大臣を辞してからも、1963年の総選挙に落選して政界を引退するまで積極的な政治活動を展開した。
健康を回復した石橋は1960年に入ると、1月に、岸首相訪米に際して送った書簡で、①中国との国交回復のための日米両国の協力、②アジア安定のために日米中ソ印の五カ国会議を開くことを進言した。
また、日米安全保障条約の強行採決に反対し、さまざまなルートを通じて、岸信介首相に退陣を勧告する。6月には、東久邇宮稔彦、片山哲両元首相とともに、岸信介に総理退任を迫っている。
湛山が岸に総理大臣を譲ったことは、その後に大きな影響を与えて、そのことが現在にまで影響を与えていることがよくわかるだろう。湛山の政治信条に殉じた見事な引き際とは別に、「岸内閣で安保騒動があったことを考えると、鮮やかな辞職は本当によかったのか」との議論が出ることはやむをえない。
昭和戦前期の石橋湛山
政治信条に殉じるのであれば、石橋にとって、岸信介へのバトンタッチはあり得ない選択だった。しかし、そうせざるをえなかったのは、初の総裁公選によって岸が多くの票を取っていたからである。湛山が感じていたそもそもの不満は、盟友であるはずの鳩山が総裁公選の道を選んだことであった。
この総裁公選の事情について、石橋は「湛山座談」において「鳩山(一郎)氏がずるいですね。ずるかったんですよ。後任者を指名することができなかった。指名するなら僕をしなければならない。けれども、僕に対してあまりいい感じを持っておらないわけじゃ」「岸氏にしたいという気持ちが先生に非常に動いていた」と、自らの盟友への批判を、晩年明らかにしている。
しかし、前述したように、ジャーナリスト湛山の信念が、政敵岸の登用に優先したともいえる。
保守政治家石橋湛山の行動原理が、リベラリスト石橋湛山の理想を踏み越えたのである。そして、湛山は「からだが達者で自分が第一線でどんどん指揮が取れればよいけれども、それほど達者でいられるかどうかわからぬですね」と述べている。政治家石橋湛山の健康への不安も、岸信介へのバトンタッチを許容した理由である。
もし湛山が病魔に倒れなかったならば
それにしても、歴史に「もし」は禁物とわかりつつ、「もし湛山が病魔に倒れなかったならば」「湛山がもし、総理の座をすぐに投げ出さなかったなら」と考えないわけにはいかない。
1959年9月に訪中。北京で周恩来首相(右)ら中華人民共和国の首脳と相次いで会談した
もし湛山が健康で、総理の座を全うしていたなら、国民的な人気を背景にした「社会主義勢力との共存」「中国との早期国交樹立」「日米中ソ印の5カ国の話し合い」という独自の外交観によって、岸による、日米安保路線とは大きく違った道筋を、日本が歩んだことは間違いない。
それ以上に、湛山自身の経済記者40年を振り返ってみれば、リベラルなエコノミストである湛山に、戦後の日本経済の成長期に、自由に経済政策を切り盛りしてもらいたかった、ということを夢想せざるをえない。
戦前の湛山は、日中戦争に踏み出す日本の短慮を批判し「小日本主義」を主張して、いたずらな経済的な拡張主義、軍備の増強主義を批判し続けた。
また、昭和恐慌前後の「金解禁論争」では、国際的な通貨変動の時代を予見したばかりか、「購買力平価論」を誰よりも早く、わがものとしていた。さらに、1936年のジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』が出た直後には、英文でこれを読破して、「有効需要」の理論を、盟友の高橋亀吉ともども、自家薬籠中のものとしていた。
実践派エコノミスト、石橋湛山の知恵は、日本の戦後の経済政策に、もっと生かすべきだったのではないか、というのが、湛山同様、40年近く、経済記者として、マーケットを見つめ続けてきた、私の思いでもある。
岸は、安保改定後、日を置かず退任する。その後継に指名されたのが、反主流派だった大蔵省出身の池田勇人であり、彼が選択したのが「所得倍増」を掲げた高度成長路線だった。
「所得倍増政策」によって、日本の高度成長期を乗り切った池田勇人の経済政策を批判する向きは少ない。
しかし、少し引いて見るならば、戦後の自由民主党の政治を、大蔵官僚主導の官僚主義と一体の仕組みに編み上げたのが、池田であり、宏池会だった。まさに、自由民主党の一党支配と、大蔵省を頂点とした官僚支配をバブル崩壊まで引きずったのは、池田内閣が作り上げた自民党一党支配の体制だった。池田の最大の罪も、そこにある。
湛山の道は、明らかに、もう1つの道だった
そして、湛山は、大蔵省から忌み嫌われ続けていた。
晩年の石橋湛山。1973年4月に亡くなった
岸の商工省「革新官僚」主義から、大蔵省主導の「官民一体の資本主義」への権力移転は、こうして強化され、成立した。それこそが、五十五年体制と呼ばれる、湛山も加わった戦後政治の転換の帰結でもあった。
それが、悪かったと断定する根拠を私は持たない。しかし、湛山の道は、明らかに、もう1つの道だったと思う。そして、湛山が、もし健康に政権を全うしていたら、もう1つの道が政策として選ばれたことは間違いない。
エコノミストにして自由主義者だった湛山の夢を、戦後の日本の成長期に、縦横無尽にキャンバスに描いてほしかった! そのように思うのは私だけではないだろう。