私の思いと技術的覚え書き

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沼津のメインフレームのふるさと探訪

2020-06-17 | 沼津そして伊豆周辺
 ここで云うメインフレームとは、クルマ関係の方なら乗用車のサスペンションが付くサブフレームに対し、トラックなどに使われるフレーム(車枠)を思うことだろうが異なる。ここでのメインフレームとは、現在の様にパーソナルコンピューターやモバイル機器が普及する以前、多くの大企業や官公庁、大学や研究機関などで使用された、基幹系コンピューターのことを指す。別名、ホストコンピューター、大型コンピューター、汎用コンピューター(コンピューターは計算機とも呼称)などとも呼ばれる。

 このメインフレームは、先にも記した様にパーソナルコンピューターの普及や、高性能パソコンを専用に特化強化したサーバー機器群に置き換わって来ている。つまり、インターネット回線のFTTH(光ファイバー回線)とか、3G、4G、5Gなどの電波回線の高スループットと連携して、サーバー&クライアントとかクラウドとか云われる環境が充実すると共に、コンピューター技術が個人が気軽に当たり前の機器として利用できる時代になったのだ。その様な時代になっても、メインフレームが絶滅した訳ではない様だ。メインフレームの利点となる大規模データベースの処理システム(トランザクション処理というらしい)では、その信頼性とかに利点はある様で、例えば銀行や保険会社、証券などの基幹系オンラインシステムには、今でもメインフレームが使われている様だ。

 表題のメインフレームふるさととは、沼津市内の愛鷹山腹の丘陵地帯に存在する富士通・沼津工場のことだ。ちょっと前(3月ごろ)、富士通沼津工場内に、富士通アーカイブスと池田記念室という施設があることを知り、こんな至近にメインフレームのいわば資料館があることを知り、俄然の興味を抱き見学の申し込みを行っていたのだった。しかし、今次のにっくき武漢肺炎の環境下、つい最近まで見学の中断が続いており、昨日見学ができたという次第で、そのことを書き留めたい。

 富士通沼津工場は、1976年8月に、メインフレームの生産拠点として設立されたそうだ。沼津駅から10数キロ離れた山間の丘陵地帯の結構大きな面積を切り開き単独で存在している。つまり、工業団地内とかではなく、単独で存在する工場だが、外見は5階建ての大型ビル4棟が連結された様な、一見工場というよりも、大学とか研究所みたいな施設を思わせる社屋だ。

 施設見学は、事前の申し込み打ち合わせでは、1時間位の見学時間と聞いていたが、およそ2時間ぐらいを感心深く見せて戴いた。なお、元々メインフレーム製造拠点としての沼津工場設立だったが、現在はメインフレームも含めハードウェアは一切製造しておらず、ソフトウェア開発拠点の一つとして、現在の総従業員数は1800名程だと云うことだ。メインフレーム製造が旺盛な往時は、1万名を超えていたのかもしれない。また、現在のメインフレーム製造は、石川県の別拠点で行っているが、総合試験などで沼津工場を利用することもあると云う見学担当者の話しであった。

 見学は、池田記念室というのと富士通アーカイブスという2つだ。この池田記念室と名付けられた池田敏雄氏とは、富士通がメインフレーム製造の黎明期に活躍した数学者で、齢51才で亡くなってしまった方だという。極めて天才的な能力と指導力を発揮された方の様で、47才で常務取締役、急逝(きゅうせい)後に専務取締役を拝命となったという。富士通社にとっては、コンピューター屋として、その卓越した伝説を伝えるべき人物との意識が強いのだろう。一方、アーカイブスの方は、富士通のルーツとなる古河グループ、つまり鉱毒という悪名で有名になってしまった足尾銅山から、富士電機、そこから枝分かれした富士通の現在までの歴史をパネルと歴史物などの展示コーナーだ。

 元々古河が何故富士になったのかをここで知った。それは、その当時ドイツ・ジーメンス社との技術提携にあったと云うことだ。つまり、古川の「ふ」とジーメンスの「ジ」で、日本の霊峰でもある「富士」と名付けられたということだ。また、富士通の前身名は「富士通信機」であったが、戦後は富士通として電話交換機などの官営向け事業で業容を伸ばしていった様だ。

 以下は池田記念室で見た内容だ。
 ここに展示されている「FACOM128B」という商用計算機(コンピューター)は、1959年(昭和34年)製で日大に納品されいたものを、返納してもらい整備しつつ現在でも実働可能に整備しているものだという。コンピューターの歴史で世界初のプログラム可能のデジタルコンピューターは米エニアック(ENIAC・1946年)だと聞いている。真空管18千本を使用したものだったそうだが、このFACOM12Bは、真空管でなくリレーを要素技術として使っている。想像だが、電話交換機で得たリレーのノウハウを使ったのだろうが、真空管より動作は遅いが、信頼性とメインテンス製が優れたという。実際の動作も見せてもらったが、けっこう盛大な動作音を発する。操作コンソールも、現代のモニターで文字が表示されるなんてことはなく、ランプの行列が点滅するだけで、計算が終了するとプリンター(ワイヤードットインパクト)で連続紙が出力される。

 当時の社内報が展示されてあったが、キャノンのレンズ設計だとかYS11の設計に利用されていたと記してあった。

 最後の写真は、同社5F窓から南方を見た風景だ。当日は霞んでいたが、スルガ湾の海が見渡せる立地であることが判る。












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