私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

人物探求:中島知久平 その2

2022-11-11 | コラム
人物探求:中島知久平その2
 この表題の2回目だが、前回は中島知久平氏の工場群の話しとなったが、今回は人物そのものに入って行きたい。
 以下が中島知久平氏の略歴となる。

略歴
1884年1月1日:父は農業の中島粂吉の長男として生まれる ※生家は太田市押切(当時は太田町) 2022年現在として138年前
1898年3月:尾島尋常高等小学校卒業
1903年10月:海軍機関学校(海軍兵学校機関科)入学(第15期生)
1904年2月6日:日露戦争開戦 同終戦は1905年9月5日
1907年4月25日:海軍学校卒業
1908年1月16日:海軍機関少尉に任官 ※海軍兵学校の下に位置する機関担当学校、大方は艦船の機関長とかになる
1909年10月11日:海軍機関中尉に任官
1910年:フランスの航空界を視察 ※これはロンドン博覧会に派遣された際に上官にムリ云って単独仏で航空を巡回
1911年10月27日:日本最初の飛行船・イ号飛行船試験飛行(日本で2番目の操縦員)
1911年:海軍大学校選科に入学し飛行機と飛行船の研究に従事、12月海軍機関大尉に昇進
1912年6月30日:海軍大学校卒業
1912年7月3日:海軍航空術委員会委員としてアメリカ合衆国に出張、飛行士免状取得(日本人で3人目)を得て帰国
1914年:造兵監督官として再度フランス航空界を視察、帰国後に造兵部員・飛行機工場長となり飛行機の試作に従事
1917年:5月、群馬県尾島町に「飛行機研究所」創設。同年12月1日、海軍を退官(予備役編入)。同年12月10日、群馬県太田町(現太田市)に「飛行機研究所」を移転
1918年4月1日、東大に「航空機研究所」が設立され、混同を防ぐために、同月「中島飛行機製作所」と改称。同年5月、川西清兵衛から出資を受け(後に買戻し)、「日本飛行機製作所」と改称
1919年2月25日、四型6号機の試飛行成功。同年4月、陸軍から20機初受注。同年11月30日、川西と訣別、三井物産と提携。同年12月26日、再び「中島飛行機製作所」と改称
1930年2月:第17回衆議院議員総選挙に群馬1区から無所属で立候補して初当選(以後5回連続当選)、3月に立憲政友会に入党
1931年:中島飛行機製作所の所長の座を弟喜代一に譲り、営利企業の代表を全て返上。12月の犬養内閣の商工政務次官に就任
1933年3月:立憲政友会の総務委員を拝命
1934年:国政一新会を結成(後の中島派形成の中核となる)。3月に政友会顧問となる
1936年5月:政友会総務拝任
1937年2月:病身の鈴木喜三郎総裁の辞意表明後に鳩山一郎、前田米蔵、島田俊雄とともに政友会の総裁代行委員に就任
1938年6月:第1次近衛内閣の鉄道大臣として初入閣。夏以降、政友会は中島派と鳩山派の対立が激しくなる
1939年4月:政友会の分裂に伴い、中島派(革新派)は党大会を開き中島を政友会の第8代目総裁に選出した
1940年7月:政友会(中島派)は新体制運動に伴い解党。10月に大政翼賛会へ合流し、中島は参議に就任
1941年:中島「栄」エンジン量産開始 総生産機数33千余機
1941年:中島飛行機の一式戦闘機、陸軍に正式採用。ちなみにゼロ戦(三菱)は中島エンジンだが初飛行は1939年4月
1941年12月8日:真珠湾奇襲攻撃が遂行される ※返す返すも大事2次攻撃で石油タンクとか港湾施設を破壊しなかったのか。腰抜け南雲の意気地なさが悔やまれる。
1942年2月:翼賛政治体制協議会の顧問となり翼賛選挙を推進
1942年4月18日:米国ドーリットル空襲 B25、16機が東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸、等各地の爆撃を行った。
1942年9月:中島「誉」(ほまれ)エンジン量産開始 総生産機数9千弱/設計主任:中川良一(26才)戦後プリンス自工を経て後に日産副社長。
1944年6月:B29による本土初空襲 北九州 八幡製作所が目標地。この際のB29基地は中国成都(ここは燃料補給と発進の二次基地で一次基地はインドだという)
1945年2月:米軍のマリアナ諸島基地が完成し、B29による東京その他都市への空襲が著しく増加した。同年3月の東京大空襲(大殺戮というべき無差別絨毯爆撃)では、一晩で10万の死者。
1945年8月:終戦直後、東久邇宮内閣で軍需大臣および商工大臣として敗戦処理にあたる。その後の12月にGHQよりA級戦犯に指定されたが、病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘(現在の国際基督教大学敷地内)にて自宅拘禁扱いとなる。
1947年9月:A級戦犯指定解除。
1949年10月29日:脳出血のため、泰山荘にて死去。

 知久平氏(以下敬称略す)の生まれた家は貧農ではなかったが、豪農とか庄屋に類する程のものではなかった様だ。ただし、父親の粂吉氏は町長も務めたり、それなりの力量ある方だった様に感じるところだ。また、学歴として尋常小学校でまでだが、その後親の黙って、ついでに親のタンス預金150円を無断で持ち出し東京へ出奔している。ただし、これも何ら野望とか計画がなきままでなく、まずは海軍兵学校に入り、当時ロシアが中国および韓国辺りへ進出して来ている情報を知り、軍人になってロシアをやっつけたいという思いがあったという。

 また、当時は大学とか兵学校とかは、中学卒(現在の高校卒)が前提なのだが、当時の名称は失念したが、現在で云うところの「高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定)」に相当する試験を独学で勉強して取得している。これを見ても、学歴としては尋常諸学校卒だが、真の学力というべきか地頭かしこい人物だったと思える。これは同じく尋常諸学校卒の田中角栄氏が、並みいる東大卒揃いの官僚達の上行く発想と人使いを行ったことと共通すると思える。

 なお、海軍兵学校は船が好きというより、海外派兵を夢みていたということで、本来は機関学校出なく兵学校へ入りたかった様だ。しかし、入学時期の問題や学歴その他諸般の事情を考慮し、あえて海軍機関学校へ入学したというものだ。なお、機関学校では、全生徒44名中の第3位の成績だった様だ。また、機関学校というのは艦船の機関(エンジン)を知るという意味で、砲術とかより熱力学とか、今で云う理工系の頭作りが非常にできたのではないだろうか。

 先の知久平の略歴を見ると、知久平はフランス2回、米国1回の海外渡航を何れも軍命令でしている。そういうメンバーに選任されたというところも、知久平が並みの能力でなく、図抜けたものがあった故だろう。なお、最初のフランス航空機見学は、本来ロンドン世界博覧会への海軍礼訪としての派遣だったのだが、イギリス寄港前に立ち寄ったフランスの港を前に、知久平はこれから飛行機が軍事術の要として上官(艦長)を口説き落とし、個人の休暇扱いでのフランス見学だった様だ。こういうことから、知久平が航空機の重要性を認識したのはこのちょっと以前と云うことが知れる。しかし、今のサラリーマン諸君で、ここまで自己主張してワガママを通しつつ、それでいて組織を追い出されないという知久平の様な行動が取れる者は希なることだろう。

 1917年5月に中島飛行機の端緒となる「飛行機研究所」を群馬県尾島町(現在太田市尾島町)に創業する。この際も、海軍をケンカ別れして辞めた訳ではないものの、慰留を強引に振り切ったというものらしい。その創業の理由は、このまま海軍にいても、到底航空機の開発ピッチは上がらず、かくなる上は自ら民間で進めるべしという考えだったというから凄いものだ。なお、飛行機開発は、海軍と陸軍それぞれ、輸入機を入手しつつ、財閥系の三菱、石川島、川重他へそれなりに声掛けしつつ開発を進めればいいという官僚気質の中にあったのだろうと想像する。

 創業に当り知久平に潤沢な資金があった訳ではない。しかし、海軍時代に知り合った方とか政治家などにも縁があり、これらを頼り出資を仰いだ様だ。それと、創業間もない頃、関西財閥である川西清兵衛より多額の出資を受けたが、約1年ほどで川西が手を引くことになった。この川西の資本金引き上げにも知久平は狼狽えることもなく、他の出資者を募り切り抜けている。なお、後の川西は川西航空機(現在の新明和工業)として、二式飛行艇とか紫電および紫電改などを作る。この内、紫電改などはのエンジンは中島製の誉だ。

 1930年2月知久平は地元群馬から政界に出馬し初当選し国会議員となる。中島飛行機は弟である喜代一が社長となったが、知久平は大社長と呼ばれ、さまざまな差配は続けていた様だ。

 1941年には中島製一式戦闘機「隼」(陸軍)が正式採用となる。ちなみにゼロ戦(三菱)は中島エンジンだが初飛行は1939年4月で、中島製「栄」エンジンは増産に次ぐ増産状態だったハズだ。なお、ゼロ戦はその機体開発は三菱だが、設計者の堀越は三菱製エンジンを搭載する構想で設計していたが、海軍から中島「栄」で行けと指示されたという悔しい思いを吐露していた様に思える。(相当昔読んだ「零式戦闘機」吉村昭著より)

 なお、ゼロ戦について補足しておくが、同機は海軍の主力戦闘機として、国産機で最大となる総計1万余機作られた。しかし、機体の開発設計は三菱であるが、増産を進めるべく中島飛行機もゼロ戦をライセンス生産していたのだ。そして、驚くべきことに、総生産機数の6割を越えるゼロ戦が中島製だった様だ。

 上記年歴には概略としてwikiからのコピーであるが、私の好みで不要を削除しつつ、日露戦争、真珠湾開戦、中島の主力エンジンたる「栄」と「誉」の量産開始年を加えた。これは前回のその1にも記しているが、中島飛行機は終戦直前時に、工場総数100余となったが、これは疎開して小さく枝分かれさせたもので、主力工場としては10程度となろう。しかし、総従業員数で26万の巨大企業となった。さらに、大きな工場周辺には、現在の自動車関連のサプライヤーほどしっかりしていないだろうが、細かい部品を作る町工場が城下町の様に点在していたと想像される.それらの人員まで加えれば、40万程度が強く中島に関与していたとも想像できるのだ。

 ちなみに我が地元の沼津市郊外だが、現在マーレエレクトロニックジャパンなる企業があるが、M&Aされる前までは国産電機という企業で戦前から続くものだという。この企業は何を作って来たかというと、「マグネトー」という部品を作って来た歴史を持つのだ。このマグネトーと聞いて現在の自動車屋でもはてなと思う方が多いだろう。実のところ、今でこそほとんどの二輪車は燃料噴射(EFI)で電子制御ECUを持ち、点火も進角制御もECUマッピングによるプログラムド制御なのだが、ちょっと前まで現在のエンジンチェンソーとか草刈り機の小型エンジンと同様だが、二輪車の点火システムはマグネトーという発電コイル=点火用一次側コイルという機構だったのだ。これに対する専用イグニッションコイルを持ち、発電は充電のみの現代の方式をバッテリー点火と呼ぶ。航空機の場合、バッテリー持つが、点火は現在でもマグネトーだと聞く。この理由だが、マグネトーはフライホイールなりローターの永久磁石でイグニッションコイル1次側の磁束を切って高電圧を発するという、極単純明快で信頼性を重んじて来たからに他ならないだろう。だが、航空機のレシプロ内燃機関の時代は終わろうとしているし、二輪車もEFIの時代になった。話しが飛んでしまったが、戦前戦中の中島のエンジンには、沼津の国産電機のマグネトーが利用されていたと想像している。

 まだまだ、知久平氏について語り後世に残したい内容は多いのだが、それは次回以降に記す予定としたい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。