交通事故・冤罪事件/事故鑑定が刑事事件を無罪に導く
交通事故は警察の認知件数(事故報告件数)だけで年間30万件ちょっと越える程度がある。そんな中で、死亡事故だとか大きな事故になると、単なる行政処分を越え、刑事事件として取り扱われることになる。そこで、予て識者の中で知られていることに、刑事事件の有罪率(例え判決で罪が減軽されても無罪とならず有罪となる率)は、驚くべきことに99.9%になると云うことがある。このことは、検察官が起訴すると99.9%有罪になると云うことで、刑事事件で起訴されると云うことは、ほぼ有罪になると考えて良いだろう。こうなると、裁判官がおよそ判決を決めていると云うより、検事が判決を決めているという見方もできる状態なのが、日本の刑事司法の実態なのだ。
こういう日本の裁判の実態を知り、特定の弁護士ではなく平たく意見を述べる論評を聞くと、担当弁護人は無罪を主張するのではなく、ひたすら情状を主張し、執行猶予が取れれば大成功だと思っているかの論を見ることがあるが、あまりに低レベル思考に呆れ果てるところなのだ。
しかし、世の戦いは情報の戦いと思考しても良く、より緻密かつ強力な情報(それが例え間違っていたとしても)を持つ者が勝利を得ると云うことがある。だから、交通事故などなどにおいては、警察はその活動の初期から実況見分として立会を行い、情報を確保統制しつつ、検事と一体化(というか検事の指揮により)し、被告の有罪に寄与する情報の統制を行う。また、検察でも警察でも問題になっている事象が、事件を物語化しつつ、そのストーリーに被疑者を当てはめるべく国家権力を行使して半強制的な取り調べを繰り返し、ストーリー作文に署名押印を強要させるという事件が絶えないのだ。
さて、今回紹介するのは、Netで見つけた、正に冤罪事件の氷山の一角と思われる事件だ。なお、本件事故の全般を伝える記事は、以下のソース元URLを参照して欲しい。
https://www.mika-y.com/upload/images/20160529212934.pdf
1.事故の発生
事故は平成20年9月25日午前4時頃、横浜市の国道1号線で生じた、センターラインオーバーの軽自動車と2トンクラスのトラックの正面衝突事故だ。この事故で、軽自動車の運転者は即死している。ここで、今回被疑者となったのがF氏であるが、このセンターラインオーバーの事故とは、一切接触もないのだが事故現場の前方となる狭路から国道1号に左折進入し、僅かに加速進行ところで、後方で大きな衝突音を聞き、驚いて車を止めて現場に駆けつけ警察に通報したのだった。F氏は現場にて警察の臨場を受け、自分が見たままの事故状況を伝え仕事場へ向かったという。
ところが、この事故の記憶も薄れていた翌年1月16日になり、F氏は警察に呼び出されることになり、訝しみ出向いたという。さらに、F氏は2月15日にも事故現場に同行を求められ、そこで質問攻めにされたという。そして、2月24日に行われた再度の現場検証でF氏は警察の意図する事故のストーリーを認識したというのだ。
このストーリーとは、F氏が国1に狭路から左折進入したのが主原因となり、事故の軽自動車が危険を感じて右に回避したことによりセンターラインをオーバーし、対向のトラックと正面衝突したというものだ。つまり、警察はF氏の国1への左折進入に際し、右方の確認不十分のまま進入したがために、本件死亡事故が生じたということをストーリー化し、それを必用に繰り返し認めさせようと責め立てたのだという。
2月の凍える様な冷雨の中、2時間以上も、警察が繰り返し指定する場所を指し示され続け、F氏はたまらず「ここでいいです」と認めてしまったという。その時、担当警察管は「よっしゃー!」と満足そうな声を上げていたという。この日、F氏が帰宅したのは、午後9時を廻っていたという。
それから2週間後となる3月9日、警察に再び呼び出されたF氏は、「自動車運転過失致死事件」ということで調書ができ上がっていることを知り驚愕したと云う。F氏は調書の内容に到底納得できず、異議を唱えると前回の現場検証でのいきさつを持ち出され、その際「認めただろう、お前は嘘付いたのか!」などと強く反駁を繰り返され、調書はF氏が道路左折に際し右方向を注意不足であったというものが完成し、それに署名押印してしまったのだという。
それから4ヶ月後、未だ本事故についての起訴も不起訴も知らされていない中で、公安委員会より「優先道路通行妨害死亡事故、違反点数15点、免許停止1年」という通知が届いたという。
警察での不本意な供述調書を取られた半年後となるH21年8月21日、F氏は横浜地検に呼び出され出頭したという。ここで対応したY副検事は、全面的にF氏の供述を受け入れ、F氏の主張に基づく調書を取り、次の様に述べたという。「この事故は軽自動車の自爆事故で、あなたは二度とここに来ることはないでしょう、安心してください」と。ところが、11月4日に再度、横浜地検に出頭を命じられ、同じくY副検事から、従前の釈明は一切なくF氏の主張とまったく異なる方向に捜査は進んでいたのだった。
取り調べの可視化と云うことが昨今話題になっているが、一向に進んでいない。刑事事件の被疑者となった場合、自己防衛のために、こういう警察とか検察の話しは録音しておくことが肝要なことを示していると思える。
2.F氏の起訴
その後、12月末に至り、F氏は正式に起訴されるに至るのだった。そして、1年と3月を経て、F氏は刑事事件の有罪率が99.9%という日本の刑事司法の実態の中、無罪の結審となったのだが、そこには隠されたドラマと云うべき、検察の立証を裏付ける科捜研鑑定と、ある保険会社が保険契約者のために要請した鑑定人(後述)との鑑定人同士の戦いと云うべきものがあったのだ。つまり検察側の科捜研鑑定は検察側のストーリーに沿うものであるのは当然だったのだが、ここでF氏側の損保に要請されて鑑定したのが吉川泰輔氏だったのだ。
3.吉川鑑定人のこと
この吉川泰輔氏だが、現在の御年は拙人より20年程年上となる現在80を越える方だが、元来アジャスター制度以前の旧鑑定人時代の末期から損保の調査活動を続ける様になり、自研センターが設立されたと同時に、同センターの講師を務めるなどの活動を続けて来られた方なのだ。
そんな中、拙人が同氏を初めて見知ったのは、32年前となる1990年のことで、拙人が2年間自研センターへ派遣されることになった際だった。当時の吉川氏は、講師として2級アジャスターコースのクラス担当講師と吉川氏自らが発案して開始された事故解析コースの担当講師を兼務なされていたのだった。そんな中、2級コースでは、研修に際する下働きとしての手伝いを行ったり、事故解析コースについては聴講をさせて戴いたりしたことを思いだす。この講義ぶりは、正に講師としての情熱を感じるものであり、受講生を引き付けるという点で、他の講師とは正直、次元の異なるものだったと思える。これは例えて見れば、高名な役者がある場面において、視聴者を引き付けるということがあるが、それに近似したエッセンスというべきものを感じたものだ。おそらく、同氏はどうやったら、受講生が感心を持って集中するのかということを常に思考して来たと思えるところだ。
一方、自研センターという組織は変わったと云うか、損保の体質をそのまま受け継いでいるところがあり、社長以下の役員幹部は、すべて損保の支店長もしくは部長クラスの天下りというか、場合によれば左遷というべき立場で来ている場合が多かったと意識する。ただし、少なくとも私の自研に存在した時代の社長は横井さんという自研センター2代目の社長であった(社長は代々東京海上社もしくは東海日動社より転籍者)が、そういうおよそ左遷という感じは見受けられなかった。ここで損保の体質と冒頭記したのは、例えて見れば国家公務員上級職(いわゆるキャリア)とノンキャリアの差と類似で、自研センターという組織は、そもそもの目的がアジャスターの教育機関であり、それと指数策定だとかリペアリサーチというべき修理技法の研究という理念の基に作られた機関なのだが、アジャスターの価値を軽く見過ぎているという気配を幾度も感じて来たのだ。
つまり、これは官僚や損保に限らず大企業においては、総合職と云うべき数年で全国を転勤しながら昇格していくリーダーとしての使命を担う層と、現地採用で各現場の泥臭い仕事を行う一般職とか技能職という云うべき層に2分類できることが多いことを指す。そして、ともするとデキの悪い総合職も組織であるから一定数存在するのだが、権力だけを振り回し、現場の苦労をまったく知ろうとしないばかりか、頭から下僕と見ており、そのことを隠そうともしない高慢不遜な者も一部いることも確かなことなのだ。そういう前提で自研センターという組織を眺めると、アジャスターの能力を向上させるという基本理念があるにも関わらず、その高慢不遜な者の自己判断においてそこまでで良いと云うべき、必用を越えて活躍されては総合職の立場が崩されると云うべき思想を持つ者が存したことも確かなことだろうと認識している。
こういう中で、90年当時の拙人の回想を記してみれば、吉川氏が行って来た事故解析コースのことを、こともあろうに研修を統括する研修部長(名前は伏すが、当然損保の支店長クラスの定年近くの左遷に近い立場での転籍者)は、あの事故解析コースの吉川以下の連中(吉川氏に意気に感じ自ら応援手伝いを行う者達5名程度)のことを相当目の上のたんこぶとして見ていたことが判る事象があったことが思いだされる。つまり、私に事故解析軍団(吉川氏と意を同じくする5名ほどの者を指す)をどう思うかと否定的な答えを期待する投げ掛けを繰り返し受けたものだった。つまり、同研修部長の思いは、アジャスターごときは見積の勉強だけやっておればよろしく、修理工場を押さえてくれさえすれば十分で、それ以上のことをする必用はないという意志がはっきり読み取れたものだったのだ。
この様な、吉川氏にとってはある意味真反対の意見を持つ損保上級職もいたのだが、少なくとも当時の横井社長には、その様な邪悪な思想はまったくなかったと思えるところである。しかし、拙人の僅かな情報によれば、その後数年おきに社長も代々入れ替わりつつ、損保の大合併もなされ、社長の立場で自研に来る者も、生粋の東京海上というより元日動の方が来るケースが増えている様だ。一概に日動出身者がダメという思いはないが、そこは組織の悲愁と云うべきもので、東海日動という合併はどちらが主導権を取るかと云えば間違いなく東京海上であり、元日動出身者の多くは冷や飯を食う立場に追いやられることは、過去の様々な企業の合併に際する人事を見ても明らかだろう。その様な点で、自研センター社長に元日動出身者が多いと云うことは、ある意味左遷だとか冷遇という要素を含んでいることと同時に、自研センターという組織に対する損保の見方は、往時の期待と云うべきものから変わって来ていることを感じさせる現象なのだろうと見ているところだ。
4.鑑定人同士の戦いと吉川鑑定の勝利
さて、吉川氏の人となりと自研センターの内情話に文字を費やしたが、事件の本論に戻る。ここで検察側と弁護人側の鑑定人同士の鑑定という事故の見方が本訴訟の結論を制することになるのだ。
検察側鑑定の科捜研担当者の鑑定はまったく検察および警察のストーリーに基づいたものだ。一方、吉川鑑定は、本事故の実況見分調書(神奈川県警作成)を証拠として検察は提示していたが、それを吉川氏は一見し、大きな疑問を感じるところから出発したのだった。これは、別添する本事故の記事をまとめた柳原三佳記者のレポートに記していないところなのだが、拙人は自研センターで吉川氏に巡り合って以来、時々損保案件の疑問を生じる案件が生じる都度コンタクトを取り続けて来たのだった。それは、必ずしも鑑定依頼という形でなく、僅かのヒントが得られることを期待し、不定期にコンタクトを取り続けて来ており、その関係は拙人が損保退職以後も現在まで続いているのだ。そういう間柄の中で、本事故の記事を知り、どういういきさつかを吉川氏本人に直接聞いているとういうところで、本記事も記しているところなのだ。
さて、実況見分調書を一見して吉川氏は何を思考したのかだが、本事故において即死したという軽自動車の酷く損壊した写真が数枚あるが、それだけのことで、一体この軽自動車は何キロで走っていたのかということが、何ら調書には記されていないところに気づき、唖然としたという。つまり、トラックと正面衝突したという軽自動車は、そのおよそ原形を留めないほどまでに大きく変形損壊しており、およそ尋常な速度ではないと直感できるものの、その速度を論理科学的に説明できれば、この事故は、そもそも被疑者が右方向を正しく見ていたとしても、異常な高速であったと云う前提に立脚すれば、防ぎようがないだろうという結論に導けると思考したということなのだ。
そこで吉川氏は第1回鑑定として、軽自動車側というより、その相手側のトラックの損傷度合いから、軽自動車の有効衝突速度を求め、その衝突直前速度が優に80km/hを越えていたという結論を導き鑑定書を提出すると共に証言台に立ったという。この吉川鑑定には検察側が猛反発し、逆質問を浴びせかけるが吉川氏が平然とこういう論理でこの結論に至ったと答えたというが、とうとう検察は吉川鑑定を全否定し、双方鑑定やり直しで実況見分を再度行うと云うことに裁判官が導いた様だ。
そして異例の訴訟中に再実況見分が行われ、再度検察側および弁護側の鑑定書が出されることになったということだ。しかし、吉川鑑定の基本は変化なしで、さらに自身の鑑定を補強すべく、客観的な事実を積み増したのであった。当然、検察側鑑定とは大きな見解差が生じ、吉川鑑定には検察側から否定する目的での様々な質問が投げ掛けられることになるが、それらをことごとく跳ね返し、吉川氏は逆に科捜研鑑定の落ち度を幾つか指摘するに至ったそうなのだ。
この様な双方鑑定の妥当性を巡る応酬を聞けば、幾ら検事の追認を常套とする裁判官であろうが、検察側の主張を補強する科捜研鑑定は信用性が欠落していることは明白となり、被告F氏は5月17日に無罪の判決を受け、控訴期限(第一審判決の翌日から起算して2週間)を経た5月31日に検察は控訴を行わなかったので判決確定となったという事件だったのだ。
#交通事故冤罪事件 #吉川鑑定 #神奈川県警
交通事故は警察の認知件数(事故報告件数)だけで年間30万件ちょっと越える程度がある。そんな中で、死亡事故だとか大きな事故になると、単なる行政処分を越え、刑事事件として取り扱われることになる。そこで、予て識者の中で知られていることに、刑事事件の有罪率(例え判決で罪が減軽されても無罪とならず有罪となる率)は、驚くべきことに99.9%になると云うことがある。このことは、検察官が起訴すると99.9%有罪になると云うことで、刑事事件で起訴されると云うことは、ほぼ有罪になると考えて良いだろう。こうなると、裁判官がおよそ判決を決めていると云うより、検事が判決を決めているという見方もできる状態なのが、日本の刑事司法の実態なのだ。
こういう日本の裁判の実態を知り、特定の弁護士ではなく平たく意見を述べる論評を聞くと、担当弁護人は無罪を主張するのではなく、ひたすら情状を主張し、執行猶予が取れれば大成功だと思っているかの論を見ることがあるが、あまりに低レベル思考に呆れ果てるところなのだ。
しかし、世の戦いは情報の戦いと思考しても良く、より緻密かつ強力な情報(それが例え間違っていたとしても)を持つ者が勝利を得ると云うことがある。だから、交通事故などなどにおいては、警察はその活動の初期から実況見分として立会を行い、情報を確保統制しつつ、検事と一体化(というか検事の指揮により)し、被告の有罪に寄与する情報の統制を行う。また、検察でも警察でも問題になっている事象が、事件を物語化しつつ、そのストーリーに被疑者を当てはめるべく国家権力を行使して半強制的な取り調べを繰り返し、ストーリー作文に署名押印を強要させるという事件が絶えないのだ。
さて、今回紹介するのは、Netで見つけた、正に冤罪事件の氷山の一角と思われる事件だ。なお、本件事故の全般を伝える記事は、以下のソース元URLを参照して欲しい。
https://www.mika-y.com/upload/images/20160529212934.pdf
1.事故の発生
事故は平成20年9月25日午前4時頃、横浜市の国道1号線で生じた、センターラインオーバーの軽自動車と2トンクラスのトラックの正面衝突事故だ。この事故で、軽自動車の運転者は即死している。ここで、今回被疑者となったのがF氏であるが、このセンターラインオーバーの事故とは、一切接触もないのだが事故現場の前方となる狭路から国道1号に左折進入し、僅かに加速進行ところで、後方で大きな衝突音を聞き、驚いて車を止めて現場に駆けつけ警察に通報したのだった。F氏は現場にて警察の臨場を受け、自分が見たままの事故状況を伝え仕事場へ向かったという。
ところが、この事故の記憶も薄れていた翌年1月16日になり、F氏は警察に呼び出されることになり、訝しみ出向いたという。さらに、F氏は2月15日にも事故現場に同行を求められ、そこで質問攻めにされたという。そして、2月24日に行われた再度の現場検証でF氏は警察の意図する事故のストーリーを認識したというのだ。
このストーリーとは、F氏が国1に狭路から左折進入したのが主原因となり、事故の軽自動車が危険を感じて右に回避したことによりセンターラインをオーバーし、対向のトラックと正面衝突したというものだ。つまり、警察はF氏の国1への左折進入に際し、右方の確認不十分のまま進入したがために、本件死亡事故が生じたということをストーリー化し、それを必用に繰り返し認めさせようと責め立てたのだという。
2月の凍える様な冷雨の中、2時間以上も、警察が繰り返し指定する場所を指し示され続け、F氏はたまらず「ここでいいです」と認めてしまったという。その時、担当警察管は「よっしゃー!」と満足そうな声を上げていたという。この日、F氏が帰宅したのは、午後9時を廻っていたという。
それから2週間後となる3月9日、警察に再び呼び出されたF氏は、「自動車運転過失致死事件」ということで調書ができ上がっていることを知り驚愕したと云う。F氏は調書の内容に到底納得できず、異議を唱えると前回の現場検証でのいきさつを持ち出され、その際「認めただろう、お前は嘘付いたのか!」などと強く反駁を繰り返され、調書はF氏が道路左折に際し右方向を注意不足であったというものが完成し、それに署名押印してしまったのだという。
それから4ヶ月後、未だ本事故についての起訴も不起訴も知らされていない中で、公安委員会より「優先道路通行妨害死亡事故、違反点数15点、免許停止1年」という通知が届いたという。
警察での不本意な供述調書を取られた半年後となるH21年8月21日、F氏は横浜地検に呼び出され出頭したという。ここで対応したY副検事は、全面的にF氏の供述を受け入れ、F氏の主張に基づく調書を取り、次の様に述べたという。「この事故は軽自動車の自爆事故で、あなたは二度とここに来ることはないでしょう、安心してください」と。ところが、11月4日に再度、横浜地検に出頭を命じられ、同じくY副検事から、従前の釈明は一切なくF氏の主張とまったく異なる方向に捜査は進んでいたのだった。
取り調べの可視化と云うことが昨今話題になっているが、一向に進んでいない。刑事事件の被疑者となった場合、自己防衛のために、こういう警察とか検察の話しは録音しておくことが肝要なことを示していると思える。
2.F氏の起訴
その後、12月末に至り、F氏は正式に起訴されるに至るのだった。そして、1年と3月を経て、F氏は刑事事件の有罪率が99.9%という日本の刑事司法の実態の中、無罪の結審となったのだが、そこには隠されたドラマと云うべき、検察の立証を裏付ける科捜研鑑定と、ある保険会社が保険契約者のために要請した鑑定人(後述)との鑑定人同士の戦いと云うべきものがあったのだ。つまり検察側の科捜研鑑定は検察側のストーリーに沿うものであるのは当然だったのだが、ここでF氏側の損保に要請されて鑑定したのが吉川泰輔氏だったのだ。
3.吉川鑑定人のこと
この吉川泰輔氏だが、現在の御年は拙人より20年程年上となる現在80を越える方だが、元来アジャスター制度以前の旧鑑定人時代の末期から損保の調査活動を続ける様になり、自研センターが設立されたと同時に、同センターの講師を務めるなどの活動を続けて来られた方なのだ。
そんな中、拙人が同氏を初めて見知ったのは、32年前となる1990年のことで、拙人が2年間自研センターへ派遣されることになった際だった。当時の吉川氏は、講師として2級アジャスターコースのクラス担当講師と吉川氏自らが発案して開始された事故解析コースの担当講師を兼務なされていたのだった。そんな中、2級コースでは、研修に際する下働きとしての手伝いを行ったり、事故解析コースについては聴講をさせて戴いたりしたことを思いだす。この講義ぶりは、正に講師としての情熱を感じるものであり、受講生を引き付けるという点で、他の講師とは正直、次元の異なるものだったと思える。これは例えて見れば、高名な役者がある場面において、視聴者を引き付けるということがあるが、それに近似したエッセンスというべきものを感じたものだ。おそらく、同氏はどうやったら、受講生が感心を持って集中するのかということを常に思考して来たと思えるところだ。
一方、自研センターという組織は変わったと云うか、損保の体質をそのまま受け継いでいるところがあり、社長以下の役員幹部は、すべて損保の支店長もしくは部長クラスの天下りというか、場合によれば左遷というべき立場で来ている場合が多かったと意識する。ただし、少なくとも私の自研に存在した時代の社長は横井さんという自研センター2代目の社長であった(社長は代々東京海上社もしくは東海日動社より転籍者)が、そういうおよそ左遷という感じは見受けられなかった。ここで損保の体質と冒頭記したのは、例えて見れば国家公務員上級職(いわゆるキャリア)とノンキャリアの差と類似で、自研センターという組織は、そもそもの目的がアジャスターの教育機関であり、それと指数策定だとかリペアリサーチというべき修理技法の研究という理念の基に作られた機関なのだが、アジャスターの価値を軽く見過ぎているという気配を幾度も感じて来たのだ。
つまり、これは官僚や損保に限らず大企業においては、総合職と云うべき数年で全国を転勤しながら昇格していくリーダーとしての使命を担う層と、現地採用で各現場の泥臭い仕事を行う一般職とか技能職という云うべき層に2分類できることが多いことを指す。そして、ともするとデキの悪い総合職も組織であるから一定数存在するのだが、権力だけを振り回し、現場の苦労をまったく知ろうとしないばかりか、頭から下僕と見ており、そのことを隠そうともしない高慢不遜な者も一部いることも確かなことなのだ。そういう前提で自研センターという組織を眺めると、アジャスターの能力を向上させるという基本理念があるにも関わらず、その高慢不遜な者の自己判断においてそこまでで良いと云うべき、必用を越えて活躍されては総合職の立場が崩されると云うべき思想を持つ者が存したことも確かなことだろうと認識している。
こういう中で、90年当時の拙人の回想を記してみれば、吉川氏が行って来た事故解析コースのことを、こともあろうに研修を統括する研修部長(名前は伏すが、当然損保の支店長クラスの定年近くの左遷に近い立場での転籍者)は、あの事故解析コースの吉川以下の連中(吉川氏に意気に感じ自ら応援手伝いを行う者達5名程度)のことを相当目の上のたんこぶとして見ていたことが判る事象があったことが思いだされる。つまり、私に事故解析軍団(吉川氏と意を同じくする5名ほどの者を指す)をどう思うかと否定的な答えを期待する投げ掛けを繰り返し受けたものだった。つまり、同研修部長の思いは、アジャスターごときは見積の勉強だけやっておればよろしく、修理工場を押さえてくれさえすれば十分で、それ以上のことをする必用はないという意志がはっきり読み取れたものだったのだ。
この様な、吉川氏にとってはある意味真反対の意見を持つ損保上級職もいたのだが、少なくとも当時の横井社長には、その様な邪悪な思想はまったくなかったと思えるところである。しかし、拙人の僅かな情報によれば、その後数年おきに社長も代々入れ替わりつつ、損保の大合併もなされ、社長の立場で自研に来る者も、生粋の東京海上というより元日動の方が来るケースが増えている様だ。一概に日動出身者がダメという思いはないが、そこは組織の悲愁と云うべきもので、東海日動という合併はどちらが主導権を取るかと云えば間違いなく東京海上であり、元日動出身者の多くは冷や飯を食う立場に追いやられることは、過去の様々な企業の合併に際する人事を見ても明らかだろう。その様な点で、自研センター社長に元日動出身者が多いと云うことは、ある意味左遷だとか冷遇という要素を含んでいることと同時に、自研センターという組織に対する損保の見方は、往時の期待と云うべきものから変わって来ていることを感じさせる現象なのだろうと見ているところだ。
4.鑑定人同士の戦いと吉川鑑定の勝利
さて、吉川氏の人となりと自研センターの内情話に文字を費やしたが、事件の本論に戻る。ここで検察側と弁護人側の鑑定人同士の鑑定という事故の見方が本訴訟の結論を制することになるのだ。
検察側鑑定の科捜研担当者の鑑定はまったく検察および警察のストーリーに基づいたものだ。一方、吉川鑑定は、本事故の実況見分調書(神奈川県警作成)を証拠として検察は提示していたが、それを吉川氏は一見し、大きな疑問を感じるところから出発したのだった。これは、別添する本事故の記事をまとめた柳原三佳記者のレポートに記していないところなのだが、拙人は自研センターで吉川氏に巡り合って以来、時々損保案件の疑問を生じる案件が生じる都度コンタクトを取り続けて来たのだった。それは、必ずしも鑑定依頼という形でなく、僅かのヒントが得られることを期待し、不定期にコンタクトを取り続けて来ており、その関係は拙人が損保退職以後も現在まで続いているのだ。そういう間柄の中で、本事故の記事を知り、どういういきさつかを吉川氏本人に直接聞いているとういうところで、本記事も記しているところなのだ。
さて、実況見分調書を一見して吉川氏は何を思考したのかだが、本事故において即死したという軽自動車の酷く損壊した写真が数枚あるが、それだけのことで、一体この軽自動車は何キロで走っていたのかということが、何ら調書には記されていないところに気づき、唖然としたという。つまり、トラックと正面衝突したという軽自動車は、そのおよそ原形を留めないほどまでに大きく変形損壊しており、およそ尋常な速度ではないと直感できるものの、その速度を論理科学的に説明できれば、この事故は、そもそも被疑者が右方向を正しく見ていたとしても、異常な高速であったと云う前提に立脚すれば、防ぎようがないだろうという結論に導けると思考したということなのだ。
そこで吉川氏は第1回鑑定として、軽自動車側というより、その相手側のトラックの損傷度合いから、軽自動車の有効衝突速度を求め、その衝突直前速度が優に80km/hを越えていたという結論を導き鑑定書を提出すると共に証言台に立ったという。この吉川鑑定には検察側が猛反発し、逆質問を浴びせかけるが吉川氏が平然とこういう論理でこの結論に至ったと答えたというが、とうとう検察は吉川鑑定を全否定し、双方鑑定やり直しで実況見分を再度行うと云うことに裁判官が導いた様だ。
そして異例の訴訟中に再実況見分が行われ、再度検察側および弁護側の鑑定書が出されることになったということだ。しかし、吉川鑑定の基本は変化なしで、さらに自身の鑑定を補強すべく、客観的な事実を積み増したのであった。当然、検察側鑑定とは大きな見解差が生じ、吉川鑑定には検察側から否定する目的での様々な質問が投げ掛けられることになるが、それらをことごとく跳ね返し、吉川氏は逆に科捜研鑑定の落ち度を幾つか指摘するに至ったそうなのだ。
この様な双方鑑定の妥当性を巡る応酬を聞けば、幾ら検事の追認を常套とする裁判官であろうが、検察側の主張を補強する科捜研鑑定は信用性が欠落していることは明白となり、被告F氏は5月17日に無罪の判決を受け、控訴期限(第一審判決の翌日から起算して2週間)を経た5月31日に検察は控訴を行わなかったので判決確定となったという事件だったのだ。
#交通事故冤罪事件 #吉川鑑定 #神奈川県警
今、民事ですが、相手方からの反論が皆無で進んでいます。6回目です。
しかし、相手方(加害者)不起訴処分のため、検察審査会に出したいのですが、お友達審査が大変、不安です。私の車の後部に斜め衝突し自車は回転し、リアフレームが歪みと折れ(修理工の意見)があるそうです。後部座席に座っていた高齢者の家族の骨折に起因しているのですが、衝撃度が欲しいところです。権力に左右されない鑑定家を求めています。
x_wiseman410@yahoo.co.jp
(だたし@は半角小文字です)
私のメルアドを記載し送信したところ、不適切な文字があるのでコメント送信できないと出ました。困りました。
Eメールは(@)の分離があるのですが、半角なく全角のである(@)するとか、その前後にー等を付けることで様がだせます。