新たに意識する論者「白井聡」論から
YahooNewsに限らずさまざまなメディアでは愚ジャーナリストを含め、勝手な意見を述べる記述が目立つところだ。そうは云えども、ある程度斜め読みでも文意を理解し、これは本物、これは偽物と真贋を判別する目を持たねばならないのは、情報(インフォメーション)とインテリジェンスの違いというところだろう。真贋確かな情報を得るには、インテリジェンス能力が欠かせないと共に、膨大な量の情報から、どやって少しでも有益な情報の可能性ある論述を切り出すかと云う能力も現代情報戦では大切なのではないだろうか。
以下に転載する論述は、日頃大した論述など多いとは思えない私に取っては低いブランド力しかない「現代ビジネス」だが、斜め読みすると初めて聞く「白井聡」という論者(1977年生まれ・45才)の言葉に記を引くワードとか結論付けが見えて来る。こうなると、文頭から精読し直すと云うことになるのだが。
この文章は、別に機をてらった新しい情報がある訳ではないが、既存情報の整理と結論付け、その論理的思考において、価値ある論述と判断するものだ。
曰わく、この論述をインテリジェンスとしての報告文と仮定して解すると、
➀決断力に欠ける岸田(首相)
②国葬を強く押したのは麻生
③岸田は、間違った国葬決定を後悔している
④安倍晋三の政治家実蹟評価は厳しいものにならざるを得ない。
⑤今国民に問われるのは、これほどまでに権力者からバカにされきった状況を、国民ははさらに甘受し続けるのか、それとも金輪際拒絶するのかということ
統一教会問題など、国民はやがて忘れる。東京五輪と同じく、国葬もやってしまえば《やってよかった》と国民は思う」──いまなお国葬を強行しようとする自民党政権の本音がこのあたりにあることなど、特に深く考えなくてもわかります。
太平洋戦争が終わった後、映画監督の伊丹万作は、次のように書きました。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」「《だまされていた》といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
⑥「国葬賛成」の意見を持つことも、それを主張することも自由です。また、外国人だけでなく日本人の困窮者を助ける制度をもっと充実させよ、と主張することも自由です。しかし、外国人には生活保護を与えるなという主張は排外主義にほかならず、こうした排外主義を奉ずる人々が国葬への反対に反対する、という傾向がここに見て取れます。
ここで、彼らの主張が「国葬賛成」ではなく、「国葬反対に反対」であることはなかなかに重要です。彼らも、安倍氏国葬の積極的理由を挙証できなくなってきているから「国葬賛成」と言えない。
彼らの大嫌いなリベラルや左派の挙げる国葬反対の論拠を崩せなくなってきていることが悔しくてたまらないので、国葬よりもお金がかかっており、いかにもリベラルや左派が擁護しそうな外国人への生活保護の支給を引き合いに出して、「こっちの方がもっと金がかかっているじゃないか! だから、国葬に反対するよりこっちに反対しろよ」と叫んでいるわけです。
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最悪の安倍政権を望んだ「民意」とは? 「国葬」の正体を本気で考える《白井聡》
現代ビジネス 9/10(土) 6:02配信
7月8日に銃撃、殺害された安倍晋三元首相の国葬をめぐって、国論は二分しています。国葬の評判は、はっきり言ってかんばしくない。どの社の世論調査結果も、過半数の国民が国葬実施に反対していることを示しています。
こうなるとマスコミの報道は喧しくなります。いわく、「検討する」を言うばかりで決断力に欠けると見られた岸田文雄首相が珍しく自ら決断を下したことが完全に裏目に出た。あるいは、国葬を強く提案したのは麻生太郎氏であり、安倍元首相の岩盤支持層や安倍派の議員の支持をとりつけるために「やれ」と言った、岸田氏は国葬実施の決定を後悔している、といった具合です。
国葬の評判が悪い理由についても、さまざまに取り沙汰されています。
やはり、安倍氏殺害事件をきっかけに旧統一教会と自民党との癒着問題が表面化し、安倍氏こそその癒着の結節点の中心にいたことが明らかになるにつれ、国葬という異例中の異例の扱いに値する政治家であったのか、疑念が国民のあいだで高まってきたということ、そしてそれにつれて、「暴力には屈せず、民主主義を守るとの意思表示を行なう」といった国葬の意味づけも空虚なものに見えてきたこと、などが挙げられています。
さらに、国葬が弔問外交の場となることも国葬の意義として強調されていましたが、海外の大物政治家の来日は限られたもの成る気配であり、この意義も疑わしいものになりつつあります。
しかし、永田町の住人の右往左往など、本質的にはどうでもよいことです。また、安倍晋三氏の政治家としての実績への評価が厳しいものとならざるを得ないことなど、私から見れば、自明のことです。
私は、「安倍氏の功罪についてはさまざまな評価がある」といったどっちつかずの評価をする気はありません。私は2013年3月刊行の著書『永続敗戦論──戦後日本の核心』の原稿を、2012年末の総選挙・第二次安倍政権の成立を横目に書いていましたが、そのときからすでに、「最低最悪の政権ができて、最低最悪の政治が行なわれるだろう」と確信していました。
そして、内外の現実を眺めるに、残念ながらその予測は的中したと言わなければなりません。安倍政権の功績だと世上評されてきたもののほとんどは、まやかしにすぎませんでした。この点については、私が6月に刊行した『長期腐敗体制』(角川新書)で詳しく分析しましたので、ぜひそちらをご参照ください。
本当の問題は、国葬をめぐる政治家たちのさまざまな思惑や、国葬の是非といった事柄ではありません。それらは問題の入り口にすぎません。なぜ、安倍政権が長く続いてしまったのか、その継続を望んだ民意とは何であったのか。そして、まさにこの民意を見込んで岸田政権は国葬の実施を決めたわけです。
「安倍元首相を称賛し、《民主主義を守り抜く》とか何とかもっともらしいことを言えば、政権支持率は上がるだろう」──国民をバカにしきった本音がそこにはあります。しかしながら、すぐに付け加えなければなりませんが、この間、安倍政権、そしてその後継である岸田政権は、最大多数の票を得てきたのですから、政権のこうした国民観は、的外れなものではなかったはずなのです。
いま、国葬への反対が高まり、岸田政権の支持率が急降下するなかで、問われているのは、これほどまでに権力者からバカにされきった状況を日本人はさらに甘受し続けるのか、それとも金輪際拒絶するのかということです。
「統一教会問題など、国民はやがて忘れる。東京五輪と同じく、国葬もやってしまえば《やってよかった》と国民は思う」──いまなお国葬を強行しようとする自民党政権の本音がこのあたりにあることなど、特に深く考えなくてもわかります。
太平洋戦争が終わった後、映画監督の伊丹万作は、次のように書きました。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」
「《だまされていた》といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。(中略)現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」(「戦争責任者の問題」)
伊丹が言ったことには、騙した者と騙された者とどちらが悪いのかと言えば、騙した者にきまっていますが、だからといって、騙された者には罪がない、ということにはならない。この洞察は、今日この上なく重要になってきています。
国葬の問題にせよ、統一教会の問題にせよ、これほどまでに国民を愚弄する政治家を選び、権力を預けてきたのは、ほかでもない国民自身であり、そのことの意味を理解し、そのような選択をした自分自身に対する自己解剖がなければ、やがてやり過ごされるだけでしょう。
以上の文章を書きながら、フトTwitterに目をやると、「#国葬反対より外国人生活保護反対」のハッシュタグが「トレンド」としてあがっていました。ツイート件数は、27万件以上に上り、相当の規模です。このハッシュタグが、一体どのような種類の人々が安倍元首相国葬を強く支持しているのかを雄弁に物語っている、と私は思います。
「国葬賛成」の意見を持つことも、それを主張することも自由です。また、外国人だけでなく日本人の困窮者を助ける制度をもっと充実させよ、と主張することも自由です。しかし、外国人には生活保護を与えるなという主張は排外主義にほかならず、こうした排外主義を奉ずる人々が国葬への反対に反対する、という傾向がここに見て取れます。
ここで、彼らの主張が「国葬賛成」ではなく、「国葬反対に反対」であることはなかなかに重要です。彼らも、安倍氏国葬の積極的理由を挙証できなくなってきているから「国葬賛成」と言えない。
彼らの大嫌いなリベラルや左派の挙げる国葬反対の論拠を崩せなくなってきていることが悔しくてたまらないので、国葬よりもお金がかかっており、いかにもリベラルや左派が擁護しそうな外国人への生活保護の支給を引き合いに出して、「こっちの方がもっと金がかかっているじゃないか! だから、国葬に反対するよりこっちに反対しろよ」と叫んでいるわけです。
彼らにとっては気の毒ですが、外国人生活保護の適切性がどうであれ、国葬にかかるコストが税金の無駄遣いであることには何の影響も与えないのですが。
こうして、排外主義的な性根をむき出しにしながら、リベラル・左派憎しの一念で支離滅裂な言動を繰り返す──これが安倍晋三氏の岩盤支持層でした。2012年以来の自民党政権を支持してきたすべての人々や、無関心により暗黙に支持を与えてきた人々(棄権者)が、これらと同種の人々である、とは私は思いません。良心的な人も多いでしょう。
しかしながら、排外主義者たちが喝采を送る政治勢力が長きにわたり権力を独占することを許容し、それにより排外主義を間接的に支持してきたのは、これら「良心的な」人たちなのです。その行為は、伊丹の言った「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」のなせる業と言うほかありません。こうした状況は、私の言葉で言えば、『主権者のいない国』なのです。
以上のような状況を考えるために、私は仲間たちと共にシンポジウムを開催することにしました。
「国葬を考える」と題して、9月19日に東京大学駒場キャンパスで開催しますが、コロナ禍の折、会場には関係者のみの入場とし、観衆にはオンラインで視聴してもらいます(先着3000名、参加費無料)。
國分功一郎氏(哲学、シンポジウム主催者)、石川健治氏(法学)、片山杜秀氏(政治思想史)、三牧聖子氏(国際政治学)、山口広氏(弁護士、全国霊感商法対策弁護士連絡会・代表世話人)、そして私(政治学)が登壇し、国葬をめぐる諸問題(法的根拠、その歴史)、安倍政権の政治(内政、外交)、統一教会と自民党の癒着問題といった問題を議題として、議論します。
この国を立て直すために何を考えなければならないのか、ヒントを得る機会にしたいというのが私たち主催者の希望であり、多くの皆さんのご参加を願う次第です。
#国葬反対の論理
YahooNewsに限らずさまざまなメディアでは愚ジャーナリストを含め、勝手な意見を述べる記述が目立つところだ。そうは云えども、ある程度斜め読みでも文意を理解し、これは本物、これは偽物と真贋を判別する目を持たねばならないのは、情報(インフォメーション)とインテリジェンスの違いというところだろう。真贋確かな情報を得るには、インテリジェンス能力が欠かせないと共に、膨大な量の情報から、どやって少しでも有益な情報の可能性ある論述を切り出すかと云う能力も現代情報戦では大切なのではないだろうか。
以下に転載する論述は、日頃大した論述など多いとは思えない私に取っては低いブランド力しかない「現代ビジネス」だが、斜め読みすると初めて聞く「白井聡」という論者(1977年生まれ・45才)の言葉に記を引くワードとか結論付けが見えて来る。こうなると、文頭から精読し直すと云うことになるのだが。
この文章は、別に機をてらった新しい情報がある訳ではないが、既存情報の整理と結論付け、その論理的思考において、価値ある論述と判断するものだ。
曰わく、この論述をインテリジェンスとしての報告文と仮定して解すると、
➀決断力に欠ける岸田(首相)
②国葬を強く押したのは麻生
③岸田は、間違った国葬決定を後悔している
④安倍晋三の政治家実蹟評価は厳しいものにならざるを得ない。
⑤今国民に問われるのは、これほどまでに権力者からバカにされきった状況を、国民ははさらに甘受し続けるのか、それとも金輪際拒絶するのかということ
統一教会問題など、国民はやがて忘れる。東京五輪と同じく、国葬もやってしまえば《やってよかった》と国民は思う」──いまなお国葬を強行しようとする自民党政権の本音がこのあたりにあることなど、特に深く考えなくてもわかります。
太平洋戦争が終わった後、映画監督の伊丹万作は、次のように書きました。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」「《だまされていた》といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
⑥「国葬賛成」の意見を持つことも、それを主張することも自由です。また、外国人だけでなく日本人の困窮者を助ける制度をもっと充実させよ、と主張することも自由です。しかし、外国人には生活保護を与えるなという主張は排外主義にほかならず、こうした排外主義を奉ずる人々が国葬への反対に反対する、という傾向がここに見て取れます。
ここで、彼らの主張が「国葬賛成」ではなく、「国葬反対に反対」であることはなかなかに重要です。彼らも、安倍氏国葬の積極的理由を挙証できなくなってきているから「国葬賛成」と言えない。
彼らの大嫌いなリベラルや左派の挙げる国葬反対の論拠を崩せなくなってきていることが悔しくてたまらないので、国葬よりもお金がかかっており、いかにもリベラルや左派が擁護しそうな外国人への生活保護の支給を引き合いに出して、「こっちの方がもっと金がかかっているじゃないか! だから、国葬に反対するよりこっちに反対しろよ」と叫んでいるわけです。
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最悪の安倍政権を望んだ「民意」とは? 「国葬」の正体を本気で考える《白井聡》
現代ビジネス 9/10(土) 6:02配信
7月8日に銃撃、殺害された安倍晋三元首相の国葬をめぐって、国論は二分しています。国葬の評判は、はっきり言ってかんばしくない。どの社の世論調査結果も、過半数の国民が国葬実施に反対していることを示しています。
こうなるとマスコミの報道は喧しくなります。いわく、「検討する」を言うばかりで決断力に欠けると見られた岸田文雄首相が珍しく自ら決断を下したことが完全に裏目に出た。あるいは、国葬を強く提案したのは麻生太郎氏であり、安倍元首相の岩盤支持層や安倍派の議員の支持をとりつけるために「やれ」と言った、岸田氏は国葬実施の決定を後悔している、といった具合です。
国葬の評判が悪い理由についても、さまざまに取り沙汰されています。
やはり、安倍氏殺害事件をきっかけに旧統一教会と自民党との癒着問題が表面化し、安倍氏こそその癒着の結節点の中心にいたことが明らかになるにつれ、国葬という異例中の異例の扱いに値する政治家であったのか、疑念が国民のあいだで高まってきたということ、そしてそれにつれて、「暴力には屈せず、民主主義を守るとの意思表示を行なう」といった国葬の意味づけも空虚なものに見えてきたこと、などが挙げられています。
さらに、国葬が弔問外交の場となることも国葬の意義として強調されていましたが、海外の大物政治家の来日は限られたもの成る気配であり、この意義も疑わしいものになりつつあります。
しかし、永田町の住人の右往左往など、本質的にはどうでもよいことです。また、安倍晋三氏の政治家としての実績への評価が厳しいものとならざるを得ないことなど、私から見れば、自明のことです。
私は、「安倍氏の功罪についてはさまざまな評価がある」といったどっちつかずの評価をする気はありません。私は2013年3月刊行の著書『永続敗戦論──戦後日本の核心』の原稿を、2012年末の総選挙・第二次安倍政権の成立を横目に書いていましたが、そのときからすでに、「最低最悪の政権ができて、最低最悪の政治が行なわれるだろう」と確信していました。
そして、内外の現実を眺めるに、残念ながらその予測は的中したと言わなければなりません。安倍政権の功績だと世上評されてきたもののほとんどは、まやかしにすぎませんでした。この点については、私が6月に刊行した『長期腐敗体制』(角川新書)で詳しく分析しましたので、ぜひそちらをご参照ください。
本当の問題は、国葬をめぐる政治家たちのさまざまな思惑や、国葬の是非といった事柄ではありません。それらは問題の入り口にすぎません。なぜ、安倍政権が長く続いてしまったのか、その継続を望んだ民意とは何であったのか。そして、まさにこの民意を見込んで岸田政権は国葬の実施を決めたわけです。
「安倍元首相を称賛し、《民主主義を守り抜く》とか何とかもっともらしいことを言えば、政権支持率は上がるだろう」──国民をバカにしきった本音がそこにはあります。しかしながら、すぐに付け加えなければなりませんが、この間、安倍政権、そしてその後継である岸田政権は、最大多数の票を得てきたのですから、政権のこうした国民観は、的外れなものではなかったはずなのです。
いま、国葬への反対が高まり、岸田政権の支持率が急降下するなかで、問われているのは、これほどまでに権力者からバカにされきった状況を日本人はさらに甘受し続けるのか、それとも金輪際拒絶するのかということです。
「統一教会問題など、国民はやがて忘れる。東京五輪と同じく、国葬もやってしまえば《やってよかった》と国民は思う」──いまなお国葬を強行しようとする自民党政権の本音がこのあたりにあることなど、特に深く考えなくてもわかります。
太平洋戦争が終わった後、映画監督の伊丹万作は、次のように書きました。
「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」
「《だまされていた》といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。(中略)現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」(「戦争責任者の問題」)
伊丹が言ったことには、騙した者と騙された者とどちらが悪いのかと言えば、騙した者にきまっていますが、だからといって、騙された者には罪がない、ということにはならない。この洞察は、今日この上なく重要になってきています。
国葬の問題にせよ、統一教会の問題にせよ、これほどまでに国民を愚弄する政治家を選び、権力を預けてきたのは、ほかでもない国民自身であり、そのことの意味を理解し、そのような選択をした自分自身に対する自己解剖がなければ、やがてやり過ごされるだけでしょう。
以上の文章を書きながら、フトTwitterに目をやると、「#国葬反対より外国人生活保護反対」のハッシュタグが「トレンド」としてあがっていました。ツイート件数は、27万件以上に上り、相当の規模です。このハッシュタグが、一体どのような種類の人々が安倍元首相国葬を強く支持しているのかを雄弁に物語っている、と私は思います。
「国葬賛成」の意見を持つことも、それを主張することも自由です。また、外国人だけでなく日本人の困窮者を助ける制度をもっと充実させよ、と主張することも自由です。しかし、外国人には生活保護を与えるなという主張は排外主義にほかならず、こうした排外主義を奉ずる人々が国葬への反対に反対する、という傾向がここに見て取れます。
ここで、彼らの主張が「国葬賛成」ではなく、「国葬反対に反対」であることはなかなかに重要です。彼らも、安倍氏国葬の積極的理由を挙証できなくなってきているから「国葬賛成」と言えない。
彼らの大嫌いなリベラルや左派の挙げる国葬反対の論拠を崩せなくなってきていることが悔しくてたまらないので、国葬よりもお金がかかっており、いかにもリベラルや左派が擁護しそうな外国人への生活保護の支給を引き合いに出して、「こっちの方がもっと金がかかっているじゃないか! だから、国葬に反対するよりこっちに反対しろよ」と叫んでいるわけです。
彼らにとっては気の毒ですが、外国人生活保護の適切性がどうであれ、国葬にかかるコストが税金の無駄遣いであることには何の影響も与えないのですが。
こうして、排外主義的な性根をむき出しにしながら、リベラル・左派憎しの一念で支離滅裂な言動を繰り返す──これが安倍晋三氏の岩盤支持層でした。2012年以来の自民党政権を支持してきたすべての人々や、無関心により暗黙に支持を与えてきた人々(棄権者)が、これらと同種の人々である、とは私は思いません。良心的な人も多いでしょう。
しかしながら、排外主義者たちが喝采を送る政治勢力が長きにわたり権力を独占することを許容し、それにより排外主義を間接的に支持してきたのは、これら「良心的な」人たちなのです。その行為は、伊丹の言った「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」のなせる業と言うほかありません。こうした状況は、私の言葉で言えば、『主権者のいない国』なのです。
以上のような状況を考えるために、私は仲間たちと共にシンポジウムを開催することにしました。
「国葬を考える」と題して、9月19日に東京大学駒場キャンパスで開催しますが、コロナ禍の折、会場には関係者のみの入場とし、観衆にはオンラインで視聴してもらいます(先着3000名、参加費無料)。
國分功一郎氏(哲学、シンポジウム主催者)、石川健治氏(法学)、片山杜秀氏(政治思想史)、三牧聖子氏(国際政治学)、山口広氏(弁護士、全国霊感商法対策弁護士連絡会・代表世話人)、そして私(政治学)が登壇し、国葬をめぐる諸問題(法的根拠、その歴史)、安倍政権の政治(内政、外交)、統一教会と自民党の癒着問題といった問題を議題として、議論します。
この国を立て直すために何を考えなければならないのか、ヒントを得る機会にしたいというのが私たち主催者の希望であり、多くの皆さんのご参加を願う次第です。
#国葬反対の論理