私の思いと技術的覚え書き

歴史小説、映画、乗り物系全般、事故の分析好きのエンジニアの放言ブログです。

オートバイ産業の興亡史のこと

2009-01-12 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険

 現在の経済不況がどの程度まで発展するのかは知る良しもありませんが、我が国の敗戦直後の状況の悪さに比べたら、比較になるものではないのだろうと思います。

 そんな中でも、我が国は再び立ち上がって来た訳ですが、皆が貧しい時代だったからこそ、それを為し得たのかもしれません。現在の様に、ある程度皆が豊かで、そのくせ過大な長期ローンという負債を背負った現代人に、敗戦時に相当する苦境に陥ったら耐えられるものではないだろうと思ってしまいます。

 さて、最近「ぼくのキラキラ星」(中沖満:著)という本を読んだのですが、我が国の敗戦後のオートバイの興亡史のことが、ある程度理解できたこともあり、私自身の備忘録として記しておきます。

 ところで、この中沖満氏ですが、他にも幾つか著作をなされており、そのご出身が東京の「わたびき自動車」という、自動車塗装屋さんで塗装職人として長年活躍して来られた方です。この「わたびき自動車」ですが、現在は戸田市へ移転している様ですが、ロールスロイスだとかフェラーリとか、欧州の名だたる高級車の塗装において、その筋では超有名だった会社でした。そんな、中沖満氏が、わたびき自動車を退職されて、御殿場のハラダコレクションで、レストアの仕事を続けておられることを小耳に挟み、その内に一度お会いしたいものだと思っていましたが、2年程前に亡くなられてしまったことを聞き、願いを遂げられなかったことが残念でなりません。

 本題の、前後の我が国のオートバイ産業の勃興ですが、スクーターから始まるのでした。それは、中島飛行機から起こった富士重工の「ラビット」や、三菱重工の「ピジョン」というスクーターの各種達です。

 その後、より高性能なオートバイを作るメーカーが多数設立されて行き、最盛期には我が国にで150社位あったんじゃないかと伝えられています。これらメーカーの中には「ヨンダイメーカー」とか「ゴダイメーカー」とか呼ばれる会社がありましたが、これは現在のホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキを指すのではなく、4台しか作っていない様な小規模メーカーのことなんだそうです。

 戦後直ぐの二輪車の生産ですが、ホンダの場Pigeon?合も無線機用の小型エンジンを自転車に取り付ける手法で成功した訳です。富士重工の「ラビット」も当時の絵を見るとやけに小さな車輪が使用されていますが、これは航空機(中島ですから隼当たりでしょうか)の尾輪を流用しているんだそうです。ですから、タイタのトレッドパターンもないタイヤであったそうです。


追記

 写真は三菱自動車の岡崎工場にある資料館で見た「ピジョン」の各車です。




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